10.

文字数 3,704文字

 やがて、街を抜けた。薄暗い路地を歩いていると潮の香りがしてきた。海は近い。海の上に建てられた飛行場も、もうすぐそこにあるはずだった。人の目から置き去りにされた路地には草木が乱暴に生え、道に敷かれた小石の隙間には緑色の斑点が無数に広がっている。その上を歩くと、本来なら響くはずの音は静かに吸収され、何も気にせずに歩くことができた。
 ふと空を見ると、すこし青味のかかった空に、いくつもの白い点が見えた。「綺麗な星だ」と呟くと、目の前を漂う姿の見えない幽霊に口を挟まれた。
「いや、この明るさでも見えるってことは、きっとあれは衛星だ」
 いったい誰が口にした言葉なのか考えていると、別の幽霊がこうも言った。
「知ってる? 星の周りを回る衛星って、星に向かってずっと落下し続けているんだって。星から抜け出そうとしても、重力に引っ張られて、引っ張られて、結局、星に落ちることができなければ、星の重力から抜け出すこともできないで、星の周りをずっと落ち続けるんだって」
「それでも」と次の幽霊が続けた。
「それでも、永遠に回り続けるわけじゃない。いつかは必ず、大気圏に突入して燃え尽きてしまうらしい」
「へぇー」と口にしながら、空に浮かぶ白い点をもう一度見つめてみた。
 それでは、あの白い点はどれくらいの間、星の周りを落ち続けているのだろうか。真っ暗な場所をただ一人で漂うなんて、果てしなく孤独に感じるに違いない。彼自身は、自分が輝いているとも知らずに、時がくるまでただひたすら落ち続けるのだろうか。いや、あの白い点の輝きは彼のじゃなくて、世の光をただ映しているだけなんだ。誰かから見た自分が輝いていると知ってしまえば、いつか絶望してしまうに違いない。
 ただの衛星にここまで心が動かされたことに気づくと、危ない危ないと、心の中で念じるように呟いた。すると、幽霊が最後にこう言った。
「それは、きっと、辛いことだろう」
 やがて、路地の向こうに広がる白い光に包まれた光景が鮮明に見えてきた。ついに、青く広がる海を眼に捉え、大きな期待を胸に抱えながら足を踏み出すと、突然、足元に冷たい感触が走った。
 思わず「うわっ」と情けない声を出すと、掴んでいた肩の動きが止まり、「どうしたの」と女が心配な様子で尋ねる声が聞こえた。彼女の問いに答える余裕もなく、地面を見下ろすと、見窄らしい格好をした浮浪者が気味の悪い笑みを浮かべながら見上げていた。影に隠されてよく見えないが、その浮浪者は何かを言っている。息を潜め、そいつが何を言っているのか聞き取ろうとすると、ヒッチが「そいつに構っている時間はないぞ」と苛立った様子で言う声が聞こえてきた。
 何を思ったのか「それ」の言っていることを聞いてあげないと失礼じゃないのか、と心のどこかで感じていた。こんな薄暗くて汚い場所にずっといて、きっと、誰かと会話をするのを楽しみに待っていたんだ。「それ」が望むならその願いに答えるのが自分の責任であり義務なのではないか。ヒッチの言葉を無視して、熱に浮かされたように「それ」の言葉に耳を傾けていると、今度は何倍も響き渡る低い声でこう言った。
「死を友に、孤独を愛せ」
 その狭い路地に響き渡った声は男か女のか判別できなかった。気づくとそいつは、透明マントで見えないはずなのに、こちらを羨望の眼で見つめていた。そういえば、こいつはなぜこの足を掴めたのだろう。長い間、人の目から隠されていたせいですっかり忘れていたが、透明マントを被った我々のことは誰にも見えないはずだ。
 その瞬間、夜がついに明けてしまったのか、遠くから顔をのぞかせた太陽が静かな海を真っ赤に染め、鈍く反射した太陽の光が路地に立ち住む者たちの顔を直撃した。
 夕日にも近しき、美しい光に照らされた浮浪者の顔を見ると、そいつの顔面は歪とすらも言い難いあまりにも人間離れした顔をしていた。寂しげ頭はその真っ白な肌を不気味に強調し、削ぎ落ちたかのような鼻や取ってつけられたような斜めに歪んだ口は、小さなころに本の中で見た化物を思わせた。いや、これこそが人間本来の姿なのだろうか。まるで宇宙に散らばったあらゆる人間の顔を一度に混ぜ合わしたようなその顔は、誰でもなり得たが決して誰でもなかった。顔を失い、性別を失い、名前を失ったそれは、果たして何と呼べば本来の姿に近づくことができるのだろうか。最初に考え付いたのが「浮浪者」であったが、その名前ではまるで自分と変わらないじゃないか。自分は決してこんな風にはならないはずだ……。
 脳内を甘い声で誘惑する迷いを一人振り切っていると「それ」は突然、より足をつかむ力を強め、地獄から這い出てきた精神も肉体も枯れてしまった者のような悍ましい声を上げた。
「それ」ははっきりと、ぐちゃぐちゃに混じった声で言った。
「……死を友に孤独を愛せ、……彼らからは決して逃げられない」
 死と孤独を受け入れた成れの果てがこれなのか……。「それ」への気遣いはすっかり消え、ありったけの力を振り絞って足を踏み出すと、ようやく「それ」の束縛から逃れることができた。「それ」の体を誤って蹴った感触が足元に残っていたが、気にせずに「早く行こう」と女に向かって強く言う。前方に浮かぶ幽霊のような存在が震えた声で「えぇ」と言うのを聞いて、自分の声も震えていたに違いないと思っていると、突然後ろから、強い力で誰かに跳ね飛ばされた。
 続けて叫び声やうめき声が前方から聞こえる。背中を壁に強く打ちつけられ、途絶え途絶えの息を必死に落ち着かせようとしていると、我々を突き飛ばした犯人が海に向かって走っていくのを目に捉えた。その周囲には、ヒッチや女が地面に倒れている。
 後ろを見ると、汚い地面に腰を下ろしていた「それ」が消えていることに気づいた。さっきの大男が「それ」だと気付いたときには、「それ」はすでに路地を物凄い速さで駆け抜け、飛行場と本土を繋ぐ橋の前に立っていた。
「ここだ、ここだ! ここに鼠がいるぞ! 宇宙船で脱出しようとしている! 早く捕まえろ!」
 
 それから起きた出来事はあまりにも一瞬だった。まず、事態にすぐ気づいたヒッチが「くそ、あいつのせいで連中にばれたかもしれん、飛行場まで走れ」と叫び、透明マントをかなぐり捨てながら橋に向かって走った。一瞬の間を開け、他の者も彼に続けて橋に向かう。彼らに遅れないよう海に向かって足をなんとか踏み出して狭い路地を抜けると、久しぶりの光が眼を直撃し、目の前の光景が白く包まれた。生まれたての小鹿のように震える足を動かし、顔を俯かせながら片目を薄く開くと、色黒い血を流しながら地面に倒れた「それ」の姿が眼に飛び込んだ。
 全身の血が凍るような嫌な感覚が体を巡る。うめき声が「それ」の口から漏れていることからまだ生きているのだろうが、いったい誰がこいつ撃ったのだろうか。その疑問は、考える暇もなく頭によぎった。
ヒッチだ。ずっと透明マントに隠していた銃を使って、「それ」の足を撃ったのだ。希望の灯りが再び心に灯り、口元にささやかな笑みが浮かんだ瞬間、橋に向かって動いていた体はその場の地面に叩きつけられた。
潮の香りがする地面に倒れながら後ろを見ると、「それ」が地面に這いつくばりながら右足を強く握っていた。彼の眼からは、逃がしたくない、と言う切迫した感情が溢れている。
 あともう少しで終わるんだ。頼むからは邪魔をしないでくれ……。同情の気持ちは強引にも憎悪に姿を変え、片方の足で「それ」の顔を蹴ったりして何とか逃れようとしたが、「それ」の力はあまりにも強く、鉛のごとく一寸も動かない。
 一方的な攻防の中、「それ」の悲しい眼と一瞬合うと、「それ」は不気味な笑みを浮かべ、甲高い叫びをあげて街中の空気を轟かせた。
 それは、まるで、追い詰められた生き物がすべてをなげうつときの声だった。ずっと昔に聞いたことある声だ。森の中で弟と狩りをしていたとき、こんな声を聞いたことがある。
 なんと哀れな姿なのだろうか。死と孤独の恐怖を克服した一人の人間は、もはや元の姿を失い、死に際の動物のごとく生きた証明をなんとかこの世界に残そうとしている。
「それ」の見開かれた小さな瞳孔と目が合うと、背後に恐怖の暗闇がありながらもそこには憧れの光があり、その中に自分の姿が映っていることに気づいた。心の中に生まれた驚きを、見ぬ振りをするように顔を背けると、足をつかんでいた「それ」の指に、海に反射した太陽の光に呼応するように輝く指輪が見えた。
その指輪を眼に捉えた瞬間、心をきつく結んでいた錆びた鎖がほどける音が聞こえた。
 ああ、彼もやはり人間なのだ。
 そうだ、自分も彼も女もヒッチも家主さんも、ただ怖かっただけなんだ。辛い世界の闇の中に生きながら、ささやかな輝きを求めて何が悪い。彼にも愛した人がいたのだろうか。家族だっていたに決まっている。友人だっていたのかもしれない。いないのなら自分がなることだって……。
 鼓膜を破かんばかりに喉を鳴らしていた「それ」の悲痛な叫び声は、近くで空気が裂ける音と共に止んだ。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み