3.

文字数 2,511文字

 街から離れた場所に突然現れる大きな建物は、街の話によると遥か昔のある会社が残した過去の遺物だそうです。空を舞う枯葉を脇に毅然とそびえ立つ建物を前に、私たちは躊躇しながらも「O P E N」と書かれた扉を開けました。
 間も開けず、赤ワインと安い香水が複雑に絡まった怪しい匂いが溢れてきます。目を細めながら棘のように尖った敷物に足を乗せますと、前方にある待合室のような場所でたむろする男女の集団が私たちに注目しているのがわかりました。その集団は何気ない様子で会話を弾ませていましたが、ときおり降り注ぐ疑惑の視線は私たちの褪せた肌をじんわりと突き刺さります。私たちは一刻も早く部屋に入りたい思いでチェックインを済ますために受付を探しました。
 ですがこの怪しげな建物にはそのような場所がどこにも見当たりません。目をあちこちに泳がせている間にも集団の視線が私たちに向けられます。そこで、その集団に対抗するわけではありませんが、私もまた、塊を作る一人一人の価値を見定めるように視線を向けました。
 彼らの姿は、変、と呼んでも良かったと思います。女も男も肩を隠すほどの長い髪を生やし、男の多くは無造作なひげを口の上に放置していました。ですが、野性的な毛に隠された肌をよく見ると綺麗な張りが見受けられ、不思議と曝け出された足にはまだまだ子供を思わせる薔薇色の爪が収まっています。よく観察しなければ、ほとんどの人は彼らが大人と子供を行き来する若者だと気づけないでしょう。さらに彼らを変にしていたのは所々に刻まれた小さな傷でした。顔、腕、足まで、露出した体のほとんどの部位になんらかの傷が残されています。薄紅色の治りかけの傷から黒い塊に隠された新しい傷まで、まるでその姿は、裸になって荒れた森を探検してきたかのような有様でした。
 驚きの視線は思っていたよりも長く向けられていたようで、誰かの視線と一瞬だけ交わったのがわかりました。誰よりも早く私が彼らに声をかけます。
「宿の管理人がどこにいるか知っていますか」
若者の集団は少しの間だけ互いの顔を見つめ合うと、リーダーらしき人物が返事をしました。
「この場所に管理人なんていないよ。お金もいらない。部屋ならいくらでもあるから使いたかったら勝手に使えばいい」
 さすが宇宙で最も自由な星と謳われるだけあります。彼らがなにをしているのか気になりましたが、それを聞く勇気はとてもなく、女が立つ場所に戻りました。
「代金は不要らしい。空いている部屋を勝手に使えだってさ」女は不思議な顔をして尋ねます。
「でもどうやってこの宿は成り立っているのよ」
「さあな、金しかない老人が暇つぶしに運営しているんじゃないか。なんにしても俺たちには関係ないことだ」息を深く吸います。「とにかく部屋に入ってゆっくりしようぜ」
 エレベーターを出ると、私たちは幅の大変広い廊下に足を踏み出していました。長い大廊下にはいくつもの廊下が枝分かれしています。薄明かりのせいでそれぞれの廊下の終わりは見えず、どこまで続いているのか判然としません。
「なんだか不気味ね」
 彼女の一言で私の胸に秘めていた好奇心は不安に変わっていました。人の感情も全く適当なものだ、などと思いふけているとスーツ姿の年寄りが暗闇の中から予告もなく姿を現しました。幾千の皺が刻まれた二つの唇が離れます。
「何かお手伝いできることはありますか」
 思わず息を飲み、顔を逸らそうとすると女の恐怖に満ちた表情が目に入りました。スーツ姿の男は顔の筋肉を少しも動かさないで私たちをただ見下ろしています。私はなんとか口を開きました。
「数日間だけ部屋を借りたいのですが、どの部屋を選べばいいのか分からなくて」
 そう聞くと、スーツの男は大きな笑顔を浮かばせながら言いました。
「そうですか! そうですか! それでしたら私がおすすめの部屋にお連れしてあげますよ」
 私と彼女は、しかたがない、とでも言うように顔を見合わせました。スーツの男も満足したように激しく頷くと何も言わずに歩き出します。スーツの男の後をただ追っていると、ある部屋の前に止まりました。
「何か必要なことがありましたら扉にあるベルを鳴らしてください。ぜひとも遠慮なくお呼びくださいね。何か質問はありませんか?」
「今はありません、ありがとうございます」
 スーツ姿の男は残念な顔をします。
「そんな。本当にないのですか?」
「ないと、思いますが」
 妙なしつこさに多少の苛立ちを覚えましたが、この時は彼の親切心として受け取っておきました。ですがさらに妙だったのは、彼が不気味な笑みを浮かべながら私たちの前に立ち尽くしていたことです。私はどうすればいいか分からず、彼の目の前で扉をぴしゃりと閉めました。
 廊下と部屋を仕切る扉を抜けると、特に変哲のない空間が浮かび上がります。天窓から斜めに差し込んだ星明かりが部屋の家具を淡く照らしています。部屋には隙間なく木製のベッドや机が置かれていました。それらは質素な見た目をしていましたが、それ以上に清潔感を感じとることができ、漂う木材の匂いが私の心を安心させました。女もこの部屋が気に入ったようで、僅かな荷物を机に置くと一段目のベッドに横になってしまいます。二段目のベッドには寝たくなかったのですが、ここは彼女に譲ってあげるとしましょう。
 二段目のベッドまで階段で登り、仰向けになると彼女のことを考えました。私は彼女のことをほとんど知りません。目を固く閉じても、真っ黒なスクリーンに浮かび上がるのは星を脱出するときに見た彼女の姿だけです。それ以上の思考はやめて、天窓を通して見える数々の惑星を眺めていると彼女が口を開きました。
「私たちこれからどうなるのかしら」
 緩んでいた顔の筋肉は再び強張り、目を通して見える世界がぐらつきます。わざわざ登った階段を下りながら言いました。
「俺たちが選んだことをやるだけさ」息を深く吸います。「俺は食い物でも買ってくるから横にでもなって待っといてくれ」
 私は何もなくなった空白の一室に、荷物と女と言葉にできない恐怖を残し、空のなくなった不思議な街に足を運ばせました。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み