4.

文字数 4,310文字

 帰り道は、最初に通った迷路のような道とは違って、照明の行く先を辿っていると、あっという間に出口に着いた。外に続く階段を登り、重い扉を開く。出口を開くと、高級感の溢れる黒い大理石で敷かれた廊下に足を踏み出していた。廊下だけではなく、天井も、壁も、光沢感のある大理石で出来ていて、廊下に立つ者を限りなく反射させている。一歩足を踏み出すたびに、四方に映し出される姿が真似るように動き、その不思議な光景をまじまじと見ると何百という影に睨み返される。迷宮のようなこの空間をなんだか気味悪く感じ、小走りで階段を四階ほど下りると、目の前にはさきほどまで歩き回り続けていた市場が広がっていた。
 店の出口が繋がっていたのは、広場を囲んでいた煉瓦造りの建物の一つだったのだ。この建物すべてが、いや、広場全体が、あの店と繋がっているのではないかという考えが一瞬巡る。あの薄汚い店を中心にして、蟻の巣のように穴が張られている様子が脳裏に浮かび、不安が群がった。少し肌寒いなと感じ、空を見上げると、先ほどまでの青く広がった空は薄暗い雲に覆われ、雷の轟かす音が建物の薄い窓を細かく震わせていた。今にも豪雨が降りそうな、そんな感じの空模様だった。
 豪雨に巡り合わないよう帰路に急いでつくと、市場を賑わせていた人々がいつの間にか消えていることに気づいた。静寂に包まれた市場は不気味にシーンとしていて、空っぽになった果物入れや、道に落ちている食べ物の屑を狙う鳥たちが、なんとも言えない不気味さを増している。逃げるように市場をあとにすると、少しためらいもあったが、宿に近道だったあの路地を通ることにした。生ぬるい夏風に晒されながら歩く路地は白い霧で包まれていた。冠水はひどくなり、朝の水溜りはもはや姿を消している。念のために宿までの道の確認をしようと、コートのポケットに手を突っ込むと、家主さんから貰った地図をどこかに忘れたことに気づいた。あの店で落としたのかもしれない。一本道だったはずだから道に迷うことはないだろう、と意味もない確信をする。くるぶし程まで浸かっていた水は、道を進むごとに高くなり、半分を歩いたと思うころには膝程まで迫っていた。さすがに引き返すか迷ったが、これ以上は深くならないと信じて、前に進み続ける。膝まで足を覆う水は、雲と建物が光を遮っているせいか、墨汁のように黒く、底が全く見えなかった。それからも、膝を高く上げ、水を踏みつけるように歩き続けた。暗い路地には、行き場のない水が足に潰される音と、それに反抗するように高く跳ねる水の音しかない。誰もいない路地に響く寂しい音に耳を傾けていると、霧の向こうから水の波紋が近づいてくるのが眼に入った。耳を澄ますと、微かだがいくつにも重なった水の跳ねる音が聞こえる。ピチャピチャと弱々しい音が狭い路地で反響し、その正体不明の音はどんどんこちらに近づいてくる。
 一人、二人、いやもっと大勢いる。いくつにも重なった水の音は、やがて一つになり、霧の向こうからさらに近づいてくる。ドボン、ドボン。そいつはすぐそこにいる、音の反響からそう感じた。
 白い霧の中から現れた足音の正体は紺色のコートに身を包んだ男たちだった。雨も降っていないのに男たちはフードを頭深く被り、一歩足を前に出すたびに腰元から軽い金属音を鳴らしている。体を前に倒し、水をかきわけるように歩くその様は豪然としていて、思わず足を止めて彼らを見つめてしまった。全員のコートに同じマークがあるあたり、彼らはこの星の兵隊か何かだろう。一列に並んだ男たちは、あたかも自分の存在に気づかないかのように隣を通り過ぎ、光の消えた眼で霧の向こうをただじっと見つめている。さりげなくなく、一言声をかけようとしたが、男たちから溢れる異様な雰囲気に圧倒され何も言えなかった。
 やっと最後尾の男が通り過ぎたのは小雨が降り始めるころだった。雨脚も次第に強くなり、水かさがこれ以上増えると面倒だなと思い始めていたとき、例の男の顔が乗った青色のポスターが見えてきた。宿はもう近い。自分の居場所を思い出し、胸をなでおろすと、あることに気づき背筋が凍った。
 ポスターに描かれた男と、さっきの連中が来ていた制服にあったマークが、同じだったのだ。
 このポスターの男とコートを羽織った連中に、どんな関係があるのだろうか。『元に戻す』と彼は言っていた。あれはこのことを言っていたのか、それとも、これから起きる何かなのだろうか……。
 雨に打たれながらそんなくだらないことを考えていると、いつのまにか冠水した路地を抜けて、大通りに出ていた。明るく広い所に立つと、心の中で生まれた不安はだんだんと姿が小さくなり、無視できる程度のものとなっていた。宿までの道も、街灯が道を照らしていたおかげであっという間に着き、路地で起きた出来事はすでに過去のものとなっていた。
 早くこの星を出よう。宿の前に立ち、そう決意すると、胸の奥底に微かに残った不安を薙ぎ払うようにドアを乱暴に開けた。濡れて重くなった靴下を脱ぎ、ズボンを捲って玄関を上がる。生暖かく濡れた服を腹に抱き抱えると、家主さんに向けて大きな声で喋りかけた。
「すいません。雨で濡れてしまったので、シャワー借りていいですか」
 放った言葉に返事する人はいない。家主さんはどうやら外に出かけているようだった。シャワーを浴びたら、あのまずいコーヒーでも作ってもらうと考えていたのだが、不在ならしょうがない。だが、夕焼けを迎えるまで家主さんが帰ることはなかった。
 シャワーを浴びるため、二階に続く細長い階段を登り、風呂場に入ろうとすると、その隣に構える家主さんの部屋の扉が開いていることに気づいた。特に変哲のない、ただの部屋が目に留まったのは、それが今にも沈もうとする太陽によって、綺麗なオレンジ色に染められていたからだった。日中でも夜でもない、この瞬間のためだけに輝くそれは、どの星で見ても幻想的で、美しいという言葉でしか言い表せないような輝きを持っていた。
 次第に人の部屋を勝手に覗くことに逡巡し、名残惜しく感じながらもその部屋の扉を閉めて、脱衣所に入った。するとシャワー室もまた、窓から差し込む太陽の光で満たされていた。オレンジ色の陽光は、鏡やタイル張りの壁に反射し、室内を不均等に照らしている。太陽が見えなくなる前に、この夕焼けの中でシャワーを浴びたくて、慌てて服を脱いだ。床に唯一できた影の上に立って、水を全身にかぶる。光の一筋に一度触れた水は黄金色に輝いていて、その綺麗な水で顔をこすると、皮膚を覆っていた汚れが泥水のように落ちていていくのを感じた。ただ、それでも、こんなにも美しい場所で見る、鏡に映った自身の体はとても醜くて、窓の隙間から覗くことのできる夕焼け空を眺めながらシャワーを浴びるしかなかった。
 シャワーを浴び終えると、外の空はまだオレンジ色に染まっていた。最初は無理だと思っていたが、もしかしたらあの夕日を目に捉えることができるかもしれないと思い、急いで着替えを済ませる。
 外に出ると、空一面があのオレンジ色に染まり、地平線には白い一線が敷かれていた。雲ひとつ見えず、日中の霧が嘘のように空気は澄んでいる。どんな言葉でも言い表せないような、その夢のような光景につい溜め息が漏れる。ただ、一列に隙間なく並ぶ建物のせいで、肝心の夕日が見えなかった。もっとその空に近付きたくて、太陽が沈むその瞬間を見たくて、急いで今にも地平線に隠れようとする夕日を走って追う。すると、途中で誰かに声をかけられた。
「あなた、こんな時間にどこへ行くの」
 振り向くと、家主さんがそこにいた。夕日を追いかけるのに夢中で気づかなかったが、家主さんの横を通り過ぎていたらしい。
「空をみてください。とても綺麗な景色ですよ。雲ひとつなくて、霧もない」荒れた呼吸を落ち着かせるため、乾いた空気を何度も吸い込みながらそう言うと、家主さんは予想外にも淡白な返事をした。
「そんなのいつもそうじゃない」
「何を言っているんですか。とにかく、日が沈む前に、ちょっと見てきます」
 家主さんの味気ない反応に少し残念に思いながら、もう一度走り出そうとすると、「ちょっと待って」と言う声が聞こえて、再び振り返った。
「それなら慌てなくても大丈夫よ。この星の夕日はしばらく沈まないから。星の自転とか大気のせいで、私は詳しく知らないけど、しばらくあんな感じだから。それに、この道はまだずっと続くから、夕日を見たいなら海の方に行くといいわ」
 夕日がしばらく沈まない。そんなことがありえるのだろうか。でも、この星にずっと住んでいる家主さんがそう言うのなら、きっとそうなのだろう。それに、朝が訪れない星も太陽が二つある星もあるのだから、夕焼けの時間が多少長い星があっても不思議ではなかった。けれどその事実に失望したことは変わりなく、夕日を背に家主さんと一度宿に帰ることにした。家主さんいわく、夕日が沈むまでにあと一時間半ほどかかるらしい。腕時計を見ると、金属のフレームに囲まれた短い針は一時を指している。関心はすでに、夕日から日没に予定されていた花火大会に移っていた。
 宿までの帰り道は思っていたより時間がかかった。家主さんが首にかけている布製の鞄が、深く食い込んでいるのを見て、代わりに持とうか尋ねたが、ただ「大丈夫」と言って断られた。家主さんの横顔を見ると、背後で赤く光る夕日が顔を照らし、皮膚に刻まれた疲労の深いしわを浮き彫りにしていた。いつも元気に喋る家主さんはもっと若い印象で、こんなに年を取った人だったかなと思い、少し驚いてしまう。そんな驚きを誤魔化すように、特に興味もない質問する。
「こんなところまで歩いて、どこに行っていたんですか」
「ただのお買い物よ。いつも通っている道がなぜか通行止めになっていて、遠回りしないといけなかったよ」
「それでこの道をずっと歩いていたんですか」
「えぇ、この道は街までずっと繋がっているからね」
 会話が止む。家主さんとの沈黙は不思議と居心地を悪く感じさせず、ただ目の前の景色だけを見つめていた。街まで続くはずの大通りはとても静かで、空を横切るカラスの鳴き声だけが静寂を破っている。その一匹のカラスは仲間を探しているのか、同じところをひたすら旋回していた。「カァーカァー」と懸命に鳴き続けるその様子は、どこか哀愁を感じさせつつも、自分の位置を必死に仲間へ伝えようとする姿はなんだか懐かしくて、彼らの下を通り過ぎるまで涙を堪えるように陶然と見上げていた。
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