1.

文字数 3,754文字

 重たい瞼が開くと、長いトンネルを通り抜けた世界には純粋な闇が待ち伏せていた。ただ黒い一面を背景に白い斑点が永遠に連なっている。孤独にも散々に浮かぶ点はたまに重なり合うことで雄大な流れを生み、そのあまりにもかけ離れた光景はどれだけ目を凝らしても視界に収まらずにいた。
 でもここは宇宙じゃない。ただの、退屈な星の、安い民宿の、埃にまみれた布団の中。もう一度あの夢に潜ろうとしたけれど、布団に沈む湿った空気はあまりに煩わしくて、なんとか体を起こして布団から抜け出した。
半開きの目で周りを見渡すと、部屋は灰色のコンクリートに囲まれていた。
ベッド脇の窓から差し込む太陽の光が顔を眩しく照らしている。差し込む陽光から隠れるように布団を体に巻きつけると、肌を包む布団はやがてまた熱で篭り、汗と服がぴたりと体に粘着した。喉を低く唸らせながら、体の胴ほどある枕に精一杯抱きついてみる。こうして手を枕に回して足を絡めている姿を誰かが見たら、生まれたての赤子か、木の枝に必死に捕まろうとする子猿に見えるかもしれない。それならそれでいいかな、なんてことを朦朧とした頭で考えながら現実と夢の境に漂う心地いい世界を彷徨っていると、真下から家主さんの大きな声が飛んできた。
「朝ご飯できますよー」
 牢獄にあるような渋いベッドから飛び降りて、褪せたジーンズとセーターに着替える。陽気な口調で激しく「今日の占いはこちら」と叫ぶ男に謝りながら、昨晩から付けっ放しになっていたラジオの電源を切る。半開きの目で一階に続く扉を開ける。
 古びた木製の階段は、一歩降りるたびに、ぎいぎいと、不快な甲高い悲鳴を上げた。
 一階に足が着くと、お湯が沸く音から油が跳ねる自然の音が静かな宿を賑やかにしていた。明るい光で満たされたキッチンには誰かがいる。宿の家主が朝ごはんの準備をしているようだ。一般的な中年女性といった風格をした家主さんの背中は、お母さんの背中を思わせた。
「おはようございます。何か手伝いましょうか」
「あら、おはよう。お代金貰っているからいいのよ。あなたは座ってなさい」
 言われる通り席に腰をかけるが特にやることもないので、なにがなしにテーブルに置かれたラジオの電源をつけてみる。ラジオに耳を傾けるわけでもなく、薄茶色の膜に覆われた空を呆然と眺めていると、家主さんが声をかけて来た。
「ねえ、あそこにある胡椒をとってくれるかしら」
 家主さんが示した指先の方角には、汚れた窓を前にしてぽつんと置かれた瓶があった。ガラスの瓶を手にすると、窓から激しく叩きつけるような音が鼓膜を震わせて、雨が降っていることに気づいた。真っ白に塗られた窓枠に目をやると、小さな盲目の虫たちが雨雲に隠された青空を見上げて死んでいる。
「どうぞ」
 瓶を渡すと家主さんが「ありがと」と素早く応えながら油のたっぷり乗ったベーコンに胡椒を振りかけた。椅子に再び座ると、テーブルの中央には朝の新聞が用意されていた。些細な好奇心で濡れたビニールカバーを外してページを捲ると、背後から「五百ベル、追加ね」と元気な声が飛んでくる。卑怯な商売に腹を立てながらも、どっちにせよ買うつもりだったと自分を納得させて、新聞に付いた汚れを払うように勢いよく広げる。主張の激しい表紙に目をやると、一面の半分ほど占める見出しには太い字で「祝 建国記念日! 希望の法治惑星の誕生!」と書かれていた。
 その内容に興味が惹かれることはなくとも、次のページをめくると面白そうな記事があった。タイトルには『安寧に忍び寄る危機』と書かれている。横には筆者であろう白髪の男が鋭く睨みながら、紙越しの読者に向けて小指を指している。挑戦的なタイトルに魅入られ、傲然と書かれた文に目を通すと、紙の上を繊細に滲む言葉たちが脳内で再生した。
「私たち同士が血と汗を垂らし続け、ようやくこの星を一つにすることを達成した日から早かれ十年経つ。思えばこの星で過ごした人生は不思議なことに、大変長く、同時に刹那に感じるような時間だった」
 静かなため息を漏らしながらも、閉じる両手は勿体無い精神にじりじりとゆっくり開かれた。
「この頃、あらゆる街で起きているテロの増加に私は危惧している。テロを企てている反政府勢力は、国民の団結によって叶えられた平和と安寧を崩壊させるために、人々に不安を与え、互いに疑心暗鬼になるよう仕向けている。ついに実現したこの平和を子供達に届けるためにも、我々はよりさらに団結し、一つにならなくてはいけないだろう。これを読んでもなお、彼らの悪行を他人事だと……」
 下らない内容に眼を動かす気力すら失くしてしまう。高慢で陳腐な文風から、著者の得意げにこれを書いている様子が容易に想像つく。どうにか最後まで読もうとするが、とても耐えられる内容じゃなかった。後悔を残しながら新聞を閉じようとすると、新聞のどこかに色鮮やかに飾られた夜の写真が目に入ってきた。『花火祭り開催! 宇宙一の輝きを見逃すな!』と虹色で書かれた文の下には、小さく『日没と同時に開始予定』と書かれている。朝から錆びついていた気持ちは、また、この広告文を見て動き出したらしい。それに、ただ、新聞代をドブに捨てたくないという思いもあった。
「ほら、サンドイッチ出来たわよ」
 朝ごはんはベーコン&エッグだと思っていたが、テーブルに出されたのは溢れんばかりに具が挟まったサンドイッチだった。甘い香りに誘われ目をやると、ベーコンと炒り卵が茶色く焼けたパンに挟まっている。久しぶりの豪華な朝食に感動し、熱々のサンドイッチを掴もうとすると、家主さんが怪訝な顔をして覗き込んできた。
「そういえばあんた、この星に何をしにきたの?」
 気まずい質問に返事をするか迷ったが、隠す理由もなかったので簡潔に答えた。
「探してる物があるんです」
「あら、そうなの。見つかるといいわね。探し物」
 屈託のない明るい顔で家主さんは言うと台所に戻った。詮索されると思って少し身を構えていたが、家主さんが台所に戻るのを確認すると、朝から張り付いていた緊張が溶けていくのを感じた。
 差し出されたサンドイッチは味が濃くて豪華だった。ただのゆで卵さえも、空腹というありふれた調味料がそれを洗練された一品に変えた。久しぶりの豪華な朝ごはんに感動していると、家主さんが目の前の席に座って話しかけてきた。
「この星は初めて?」
 少しの間考えると、「えぇ、二日前に初めて来ました」と返事した。
「あら、そうなの。この星の天気は少し自由奔放なところがあるけど、ここは宇宙の中でも最高の星よ。ねぇ知ってる? ここは宇宙の中でも一番平和な星らしいのよ」
 確かにこの星には紛争や犯罪が蔓延っている様子はなく、これまで訪れた星の中でも随一の安全な星に見えた。「そうなんですか」と適当な返事をすると、家主さんが物悲しそうな様子で、けれども、優越な響きを含ませながら言った。
「でもね、今は少し人が増えすぎだと思うわ。宇宙中の人々がみんな一斉にこの星を狙ってやって来てるみたいなのよ。まあ私も人のこと言えないけど」
 黄色い微笑を溢すと続けた。
「でもあれね、世の中が便利になるのはいいけど、こんなにも人が増えてしまうのも少し考え物だわ」
 最大限の努力で同意の言葉を言うと、今度は突然明るい声で再び口を開きだした。宙を見る目はどこかとろんとしている。
「でも大丈夫。人が増えるっていうことはお客さんも増えるっていうことだから。それにきっと、この星はこれからもっと繁栄するわ。そしたらこのちっぽけな民宿も、昔みたいに大きくなって、観光客とかも大勢泊まるようになるわね」
いったい誰に向けて放った言葉なのか。家主さんは大きな声で言い終えると、突然一転して真面目な口調で尋ねてきた。
「そうよ、あなた」
「なんですか」
「あなた、この星に住みなさいよ。早くしないと、いつか移民の受け入れが禁止になるわよ。私達国民も仕事が奪われちゃしょうがないからね。これってきっと、千載一遇のチャンスよ。好機逸すべからずって言うでしょ」
 突飛な話だ。目を輝かせて聞いてくる家主さんには申し訳なかったが、それでも用が済んだらすぐに離れるつもりだった。それに家主さん自身も少し前にこの星を訪れた移民だったのではないか。明日来る移民と家主さんとの間に一体どれくらいの差異があるというのだろう。些細な疑問が頭に引っ掛かりながらも静かに無視して口を開いた。
「自分もそうしたい限りですが、明後日にはここを出るつもりです」
 家主さんは一瞬残念な表情を見せると、困惑の眼で素朴な質問をしてきた。
「出るって、ここを出たら、どこにいくのよ」
「それは……」
 家主さんの質問にはすぐ答えられなかった。
 なんとか答えを出そうとする様子を冷やかすためか、眉をひそめ黙り込んでしまった客に助け舟を出すためか、家主さんが甘い声で夢見るように言った。
「旅人なのね。一つの土地や人間関係に縛られないで生きるって少し羨ましいわ」
 なんて答えればいいか分からずに、コーヒーを手に持って返事する。いつもなら必ず牛乳を入れるのに、何も混ざっていない墨水を喉に流してしまう。久しぶりに飲んだコーヒーは、もう苦くなかった。
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