4.

文字数 3,111文字

 銀色の素材が曝らされた空き缶には、黒いスクリーンを背景に輝くあまたの惑星が細かく映っています。手に収まるほどの小さな宇宙を狭い路地に向けて放り投げますと、カラン、カランと寂しげな音が静かな街に響きます。街には誰もいないように見えました。それでもきっと、次の日には誰かの手によって回収され、その姿は跡形もなく消えているのでしょう。
 この星を一言で表すなら、自由というより浮遊感のほうが的を射ていると思います。多くの方は首をかしげるかもしれませんが、外側から見た人物や星の虚像が現実と異なるということはよくあることです。例えば、よく知られていることですが、この星には治安を維持する警察のような組織がありません。それでも星の治安が保たれているのは、この星に居候する旅人が、独自に結成した自治警察と似たグループが住人を取り締まっているからです。彼らは強盗や殺人を働かない限りほとんど口を開くことはありません。違法ドラッグを使おうが、路上で生活しようが、他の人に深刻な迷惑をかけなければ彼らの役目を訪れません。身の安全が保証されながらも我々を縛る法律は存在しない。それは一見、果てし無く自由で心地よいはずだと思うかもしれませんが、善悪の境界線が明確に存在しない世に身を置くのはなんだか落ち着かないものです。人種、性別、国籍、社会的身分の概念が存在しないこともこの星の特徴でしょう。無意識のうちに人間の心を縮めてしまうそういった概念がないのは一見素晴らしく聞こえますが、いっさいのしがらみを断ち切ってしまうと、自分と世界を結ぶ糸が切れてしまったかのようななんとも呼び難い不気味な感覚がつきまとうのです。この星に訪れるたびに感じる、あのふわふわとした感覚を、私は浮遊感としか呼ぶことができません。
 そんな私が恐れる星に女を連れてきたのは、この星が宇宙船を飛ばすために必要な石が必ず手に入る唯一の場所だからでした。
 街の中心街に近づくと、不規則に設置されたランプがぽつぽつと見えてきました。それらは宙を舞う木の葉を暖かい色で照らしています。ランプが不自然に密集した場所に近づくと、ある店が見えてきます。何を買うかは決まっていました。
 店を出ると、私の手には三つの紙袋が握られていました。その袋にはあつあつのコロッケが一つずつ入っています。一つは女のために、一つは自分用に、もう一つはある男のためでした。その男こそが、石を手に入れるための鍵となる人物です。
 そうですね、男、とただ呼ぶのでは違和感が残るので青さんとでも呼びましょうか。青、に特別な意味はありませんが彼はいつもブルーな服を着ていたのでこう呼ばせてもらいます。
 過去の話をしましょう。青さんは不思議な人でした。青さんと初めて会ったのは、私が故郷を離れてこの星を訪れたときのことでした。当時、勢いに任せて家を飛び出した私は、あの女のように、果てし無く広がる宇宙を前にして困惑していました。そこで、滞在許可証や身分証明書が必要ない星があるという噂を聞いていた私は、頼りない噂に運命を任せるようにこの星を訪れたのです。ですが胸に膨らんでいた大きな期待は、すぐに、金銭的な問題に直面することで消えてしまいます。私は、財布が底をつくと、この星から抜け出せなくなった多くの者と同じようにある会社の元で働くことにしました。ある会社というのは、この星でどうしようもなく生きる人々に仕事を提供するある一流企業の下儲け会社のことです。こういった会社は星にいくつも点在し、この星に住む住人の肥やしとなっていました。彼らがいるおかげで、またはそのせいで、この星の経済は成り立っているのです。一見、彼らはこの星の自由を保つ救世主のように見えますが、彼らの狙いは仕事のあてがない人々に不当な報酬で仕事を与え、最も安易に高い利益を上げることでした。眩しく光る火の中に虫が飛び込むように、私もまた目の前を浮かぶ輝きに目を奪われ、まるで何かが変わるのを期待するかのように懸命に働き続けていました。
 どれくらい働いていたのか私も覚えていません。それでも仕事を辞めると決意したときのことは鮮明に覚えています。あの日、気の遠くなるような作業を終えた私は宿に向かうため坂道を登っていました。錨のように鈍い足を持ち上げると、軽い金属音が足元から聞こえます。下を俯くと会社の鍵が落ちていました。破れた布の間から落ちたようです。下に、下に、嫌な音を立てながら坂道を滑り落ちていきます。その姿がどんどん小さくなるのを眺めながら、私は指一本も動かせませんでした。早く拾わないと、頭のどこかで小さな囁き声が聞こえます。それでも私は動きませんでした。体が動かなかったのです。星を薄く反射する小さな金属がついに視界から消えたとき、私は初めて自分の限界をとうに超えているのだと気付きました。次の日、私は会社を辞めました。彼らは止めようともしませんでした。私のような人間は邪魔でしかなかったのでしょう。
仕事を辞めた私は為すべきもなく冷たい路上に横たわっていました。そんなときに、青さんと出会ったのです。
「お腹空いているかい」
 青さんは確かそう言って私に白く立ち上ったコロッケを渡しました。
 その日から、青さんは一人で生きていくための術を私に教えてくれました。この星に降り立ったときの活気が戻ると、「君はこの星を早く出たほうがいい」と言って、あの青く光る石を私にくれました。どうして、あんなにも私のことを気にかけてくれたのかわかりません。それどころか彼が誰なのかも私は知りません。彼は決して私の素性を尋ねることがなかったので、私もまた、彼の素性を暴かないことは当然であり礼儀だと信じていたのです。こうやって振り返ってみると、それさえも、私の矛盾した行いを思い出したくないという防衛反応の一種だったのだと思います。ですが、一体だれが私の逃避を責められるのでしょうか。私は不安や苦悩といった暗い霧に晒されていたため、自分で自分の身を庇うしかなかったのですから。私は、旅の道中に命を堕す者を何人もこの目で見てきました。飛行中に燃料が切れてしまい宇宙を漂う屑の欠片になった者、僅かな突入角度の調整に失敗して大気圏の中で燃え尽きてしまう者、訪れた星で旅人と妬まれ無前に惨殺される者。自然と人間はいつだって旅人に牙を向いていました。彼はこの星へ帰ってこないことを望んでいましたが、星を移動する気力がなくなってしまうと、私は度々この星へ戻ってきてしまいました。
 そうしてこうやってまた、私と彼は再び出逢ってしまうのです。
「また戻ってきたんだ、カイ」
 青さんは、残念な言葉を軽々しく放ちます。
「いや、今回がもう最後さ。今は、ある人と旅をしているんだ」
 青さんは何も言いませんが、無言で青く光る石を胸の内から取り出してくれました。あたりを青く輝かす石を受け入れると、冷たい手に包み込みます。私は続けます。
「コロッケやるよ。初めて会ったときコロッケくれただろ。まだ、あのときの礼をしてないと思ってな。もう本当に最後さ」
 彼は別れの言葉を決して言いませんでした。でもこれで最後なのです。私は別れの言葉を残しました。
「じゃあな」
「じゃあね」
 彼は知っていたのでしょう。私が何度も戻ってくるということを、そして、もう私が二度と戻ってこないということを。
 天を見上げると、あまたの惑星が不気味なほどくっきりと映っています。空がなくなった星に、遠くの星たちが今にも落ちてきそうです。それでもこの世界の星は全て落ち続けているわけで、それらがぶつかることは一度もないのです。
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