2.

文字数 4,496文字

 チャック柄のコートをはおり、宿を出ると、雨はもう降っていなかった。外を張り詰める空気は暖かいというより湿気のせいで蒸し暑く、肌をねっとりと包み込む。水溜まりに反射した空には、先ほどまでの雲が一切見えず、奇妙に赤く光る太陽が、雨で濡れた並木道の木々を輝かせていた。
 家主さんから貰った地図を片手に、日差しから隠れるよう木陰の下を進み続けると、地図の通り小さな路地が見えてきた。路地には光が全く入らないのか、太陽に照らされた並木道からは真っ暗に映る。
 光り輝く青空に背を向け、真っ暗な路地に一歩踏み出すと、水たまりに片足を突っ込んでしまった。生暖かな水が靴下にじわじわと滲み込んでくるのを肌に感じる。構わず前に進むが、錆びた石で塗装された道はぼこぼこで、時折現れる水溜まりが道をさらに阻んでいた。それでも気にせずに水溜まりの中を歩き続ける。
「暑すぎる」
 赤煉瓦の建物で囲まれた路地は、行き場の失った空気の溜まり場のように蒸されていて、呼吸すらしづらい。でもそう呟いた言葉に反応するのは、カラスの羽が擦れる音とか滴り落ちる水滴の音だけで、静粛だけが路地に残される。
 その静寂はなんだかとても心地悪くて、荒れる心をなだめるために後ろを振り返った。でも背後には誰の影もやっぱりなくて、ただ、水溜りだけが光った。
 期待を胸に抱えたことを後悔して、足をもう一歩進めると、遠くの壁に一枚の紙が見えてきた。
 足を止めてじっくり見ると、青く塗られた背景には太文字でなにやら書かれていた。その中央には目隠しされた男の顔が描かれている。目こそ隠されているが、男の表情には感情の一つも存在しないように見えた。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、どの感情もあるようで、どこか足りない。でも彼は泣いていた。目隠しから流れる涙の跡は頰まで続いている。その姿はあまりにも哀れで、同情に対する嫌悪も忘れて、思わず手を差し出してしまいそうになる……。
 頭上の電線に止まっていたカラスの群れが叫び声を上げながら飛び立った。鳥の姿が視界から消えるまで、思わずあっけにとられていたが、当初の目的を思い出すと急いで足を前へ進めた。
いくつの水たまりを通り過ぎただろうか。さらに足を動かし続けていると、騒がしい人の声が遠くから聞こえてきた。背後から迫る不安から逃げるように、賑やかな音へ向かって走って、走り、足を動かし続けると、光に包まれた出口が小さく見えてきた。
 くぼみに沈む水を次々に跳ね飛ばしながらもついに路地裏を抜ける。
 光の膜を超えた先には華やかな市場が待っていた。胸の奥に感じた小さな痛みを無視しながら、静かな私は大きく足を踏み出した。

(次の章)

 火に炙られる豚、鮮やかな色に飾られた花束、泣き叫ぶ鶏、怪し気な雰囲気を纏った骨董品。レンガ造りの建物に囲まれた広場にある市場は色々な肌の色を持つ人々で混み入り、あちこちで人の渦が出来ている。心の奥にできた微かな不安の影は市場の喧騒にかき消され、祭りのように波立つ熱気に打たれると駆け足で人混みの中に混じった。人とモノと食べもので溢れかえったこの市場には、この星に有る品物の全てが集まったようだった。通り過ぎる人が皆軽やかな足取りで歩き、彼らの瞳には眩しい景色が映っている。彼らの眼には高揚感だけではなく安堵の光も見え、この星が統一されてから一年しか経っていないことを思い出した。市場には一面を漂う香りが複雑に絡み合い、鼻をつくような独特な匂いを生んでいる。唐突にもお腹を満たしたい気分になったが、太陽の位置はまだ高く、昼飯の時間にはまだ早い。どこか腰を下ろすため周りを見渡すと、人通りが少ない場所で子供達が鬼ごっこに似た遊びに興じているのが眼に入った。体格や顔つきから十歳ころだと思われる子供達は、互いの背中を追いかけあう遊びにひたすら熱中し、口から溢れる黄色い笑い声を道歩く人にぶつけている。
 階段に腰を下ろし、子供達の遊びを呆然と眺めていると、突然ピエロ姿の男達があちらこちらから現れ始めた。片手には綿菓子を、もう片方の手には棒飴を持った彼らは、お菓子を買って貰おうと必死に子供達を追いかけ回している。滑稽な光景に心の中でほくそ笑んでいると、みすぼらしい姿をした野良猫や野良犬が次々と現れ、子供達が地面にこぼした食べ物を巡って喧嘩しだした。商売の邪魔だと、ピエロ達は足でどけようとするが、子供達が何やら怒った様子で叫び、止めようとする。
 時間も経ち、映画の一コマをただで観たような得な気分で人混みの中に戻ろうとすると、道端の影に座る浮浪者が目に入った。老人は誰の記憶にも残っていないような古話を、古びた琴を手に、枯れた声で演奏している。彼女、もしくは、彼の声には、どこか、寂しく懐かしいような響きを含んでいたが、浅い鍋底には数枚しか硬貨は入っていなかった。
 それからも人の流れに身を預けて市場を一通り見渡したが、特別欲しいと思う品物はなく、少し早い昼ごはんだけ買って目的の店に行くことにした。適当な売店を探し歩いていると、香辛料の鋭い匂いが鼻の奥にするりと入ってきた。思わず細めてしまった眼で匂いの元をたどると、赤や黒で激しく主張された店舗が嫌でも眼に飛び込んできた。外に張り出された看板には数々の料理が書かれていたが、どれも初めて見る料理名で、無難に「魚串焼き」と記された食べ物を店員に頼んだ。
「魚の串焼きは、四百五十ベルになります。飲み物はどうしますか」
「普通の炭酸水ありますか」
 店員の青年は気だるげな様子で、冷蔵庫の中を確認すると、背を向けながら言った。
「ソーダと、水に、レモネードがあります」
「じゃあ水をお願いします」
 透き通った青空から差し込む光に晒されていると、やっと名前が呼ばれた。薄紙に包まれた串魚と生暖かくなったボトルを両手に持つと、潤いを必要に求めていた身体は自然とボトルの蓋を開けていた。蓋の隙間からプシュッ、と遠慮がちな弱々しい音が漏れる。もしかしてと、思い切って口に含むと、それはやはり、空気もほぼ残っていないソーダだった。水とも炭酸とも言い難い、そのねっとりとした液体は口の中をまとわりついて、喉がいっそう乾くように感じる。それに注文した魚は、串焼きにしては異様に大きく、単調な味をごまかすように甘ったるいタレで味付けされていた。多少の抵抗を感じたが、ただお腹を満たすために、古びた車に燃料を補給するように、胃の中に無理やり入れこむ。
 それでも白目をむいた魚はまだまだ残っている。魚の真っ白な目と一瞬だけ視線が合った気がして、なんとも言えない気持ちになると急いで足を動かした。魚に上塗りされたタレが周りの人に付かないよう、片手を空に伸ばしながら歩いていると、通りすぎる人々が奇異の目で睨んでいることに気づいた。彼らの鬱陶しい視線に耐えるのは嫌で、さっさと食べ終えてしまいたいのに、四方から密着する人が邪魔でなかなか口に入れることができない。一人もがいていると、市場を囲む建物の隙間に人気のない路地があったのでそこで食べることにした。
 一人、じめじめとした路地で昼飯を済ませ、人波の中に戻ろうとすると、街の暗闇を微かに照らすネオンサインに気づいた。暗闇の路地を緑色に怪しく照らすサインには、「SAM‘s SHOP」と書かれている。目的の店はこの路地にあったらしい。絶えず新しくなり続ける世界から取り残されたように、この路地に立つ建物はどれも古びていて、昔は綺麗な白色だったはずの壁は汚く黒ずんでいる。まるで別世界だった。
 二階の窓から見える店は真っ暗だ。店に続く階段を上っていると、先ほどまでの市場の喧騒が嘘のように、今では反響する自分の足音しか聞こえない。二階に辿り着き、店を前にするが人の気配は全くせず、胸の内に不安の影がよぎった。それでも自分を鼓舞し、扉を勢いよく開ける。
扉をあけてまず眼に入ったのは、虚ろな顔で立ち尽くした者を睨む小柄な男だった。
その鬼気迫った顔の様相に思わず唾を飲みこむ。その男の顔はあまりにも不細工、いや、不釣合いであった。蒼く腫れ上がった片目、片方につり上がった唇、白く削げ落ちた頰。美男美女の顔が数学的に説明できる造形だとして、彼の顔を間違って計算機で計算してしまったら、間違いなくERRORと表示されるだろう、といったほどの醜さである。
「ようこそ、サムズショップへ」
 しわがれた声で一言言うと、男は重たげなヘッドフォンを付け、指の爪を切り出した。
 二人きりの店には、男が爪を切る音と時計の音を他に静寂に包まれている。好奇心と不安が入り混じった熱い気持ちであてもなく店の中を徘徊するが、相変わらず男は爪を切り続けていて、店内を適当に物色することにした。店には怪しい雰囲気にぴったりな品物が揃っており、窓の隙間から入った一筋の光に、昆虫の入った瓶とか張り紙に描かれた男の目が反射して、真っ暗な部屋を弱く照らしていた。熱に浮かされたように長い間かけて店を見渡していたが、受付に貼られた張り紙を見て、わざわざこんな怪しい店に来た目的を思い出した。
「先日、電話したスミスだ。その張り紙に載っている石を受け取っていいか」
 指を差した先には、『ここでしか手に入らない!』という謳い文句と共に、青い光線をあらゆる方向に放つ石が描かれている。
 爪を切る音が止み、男がおぼろげに口を開いた。
「百五十万ベル、金は振り込んでいるな。身分証明書を見せろ」
 目をこちらに向けることもなく、男はただ悪態を吐くように言う。コートのポケットから薄い金属板を差し出すと端末機のような物で調べだした。すると結果が表示されたのか、顔を見上げると虚ろな目を睨んできた。
「名前が違うぞ」
 彼が何かしらの文句をつけるのはなにとなく予想していたが、いざその不気味な顔で告げられると肩がすくんでしまう。それでもこちらの弱みを見せると、その隙間に男がするりと入り込んできそうで、なんとか、頼り甲斐のない強みを誇示して言った。
「あんただってそうだろう。名前が違っても問題はないはずだ。いいから商品だけくれないか」
 甘い期待を嘲笑うように男は歪んだ顔をまたうずめ、今度は足の爪を切り出した。
 からかっているのだろうか。根性比べになるのは面倒だが、警察沙汰になるのもごめんだった。声を掛けることなく、立ったまま男を見つめ続ける。
 時計の長い針は一周もしていないのに焦燥感は積もるばかりで一度引き返すか迷った。だが男の心は思っていたよりも寛大らしい。爪を切る音が止むと思うと、機敏な動きで椅子から立ち上がった。何をするのだろうかと頭を働かせていると、男はいきなり「ついて来い」とだけ言って、受付の奥にある部屋へ姿を消した。
 身の安全よりも金が取られることを恐れて、慌てて男のあとを追う。扉を開くと鳴った鈴の音が胸の奥をざわめかす。それでも後を追うほかないのだ。心に白く荒立つ波から心を背けて、訳も分からない期待を抱えながら、目の前に立ちはだかる光の消えた道に一歩足を踏み出した。
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