12.

文字数 5,480文字

 全身を包みこむ液体はとてつもなく冷たかった。重たい水が体を押し潰さんばかりに乗りかかり、体がどうしようもなく沈んでいく。乾きかけた勇気を振り絞って目を開くと、水と光が脳髄までたどり着く。仰向けになった鼻に鋭いような鈍い痛みが走り、混乱しながら足を振り回すと硬い何かにぶつかった。底がないと思っていた水の中は浅瀬だった。恐怖が暗闇に隠していただけだった。冷たい海水から勢いよく顔を覗かると、女が息継ぎをしようと必死に頭を持ち上げているのが眼に飛び込む。四肢をがむしゃらに掻き回しながら女の元に辿り着くと、女の体を両手で支えながら言った。
「大丈夫だ。落ち着いて足をゆっくり下ろしてみろ」
 女の耳に言葉が届いたのか、一瞬の間を開けると、女はやっと体の安定を取り戻した。一歩ずつ、ゆっくりと、けれども確実に両足を交互に差し出していると、周囲の海水が薄赤く染まっていることに気づいた。同時に、片方の足に激痛が走り、海の中を暴れまわっていたときに片足を岩礁にぶつけたことを思い出す。女に気づかれないように歯を食いしばっていると、息も途絶え途絶えの女が口を開いた。
「カイ、どこか怪我したの? 大丈夫?」気づくと錆びた鉄の匂いが海中から漂っていた。
「ただの擦り傷だ。宇宙船に乗ったら処理すればいい。今は急ごう」
 男たちの呻き声を後ろに悠然と歩く時間は永遠に感じられた。
 ゆっくりと高くなる海面を歩きながら、水に濡れた髪や顔を手で払う。あまりの寒さに、生まれたての赤子のように肌は赤くなり、深い呼吸をとめられない。ずぶ濡れになった生地の厚いコートや、その下に着ていたセーターを脱ぎ捨て身を軽くすると、塩辛い海水を口から飛ばしながら言った。
「まだ諦めちゃだめだ。脱出する可能性ならまだあったじゃないか。滅茶苦茶なのは分かってるけど、でも、できることは精一杯やるんだろ」
 続々と海から現れる人影の一人が返事する。
「ああ、そうだったな……。早く宇宙船に乗ろう」
 海水に晒された岩場から続く梯子を昇り、平行に広がる飛行場の上に足を踏み出すと、その異様な見た目のおかけで間もなく追っていた宇宙船が見つかった。巨大なその鉄の塊は、到底宇宙船とは思えない見た目をしており、言うならば船に近い形をしていた。いや、宇宙に浮かぶ船なのだから宇宙船という呼び方は正しいのかもしれない。だが船にしてもこの鉄の塊が水に浮く代物だとはとても思えず、その姿は、太古の人が自然の脅威から逃れるために使ったシェルターにしか目に映らなかった。青く染められた機体には、海の上を漂う太陽の光が反射している。すっかり暖められたジーンズのポケットから、小さくて温かな蒼い石を取り出すと、宇宙船の給油口を外してその中に突っ込んだ。そうして出発する用意を終え、後ろを振り返ると、ずぶ濡れになった女たちがいくつかの宇宙船を横に用意して立っていた。
 そこには三機の宇宙船しかなかった。一人乗りの宇宙船が三機あっても、これでは足りないではないか。女たちを見ると、誰もが下を俯き、目を合わせようとしてくれない。
 すると急に自分の立っている場所がおぼろげになって、地面がうねったかのように身体中の筋肉が強張った。震える体が地面に倒れかける。横にある宇宙船に何とか手を置き、体を支えながら女たちを再び見ると、今度は女だけが、花火を見ていたときのような哀しげの目で見つめ返していた。まるで、無邪気な子どもが親にオモチャをせがむかのような表情で自分を見ている。けれど、そのとき、女が何を望んでいるのか分からなかった。女の哀れげな顔を心配するよりも早く、あまりにも無責任で無計画な彼らに対しての怒りを隠しきれず、とにかく最悪で恐ろしげな言葉を言い放たそうとしたとき、後ろから、ピチャリ、と、あの嫌な音がした。
 振り向くと黒ずくめの連中が銃を抱えながらハシゴを登っていた。どうやら、橋の向こう側で行われていた撃ち合いは早くも結末を迎えたらしく、勝者であり正義の味方となった連中のどちらかによって、ついに我々は追い詰められていた。
 逃げないと。数秒経って、やっと動き出した脳に続くように体が動こうとすると、ヒッチがまたもや誰よりも早く動きだしていた。だが、ヒッチのとった行動は、予想していた行動とあまりにもかけ離れていて、思わず「えっ」と弱々しい声が漏れる。
 ヒッチは初めて不敵な笑みを見せたと思うと、一番近くにあった宇宙船に向かって走り、乱暴にも乗用席に乗り込んだ。あたりの空気が音と熱で震えだす。一瞬の間が開くと、ヒッチのあとに続くように、小柄な男と眼鏡の男がヒッチを中心に左右にあった宇宙船に乗りこむ。
 豪快な音を飾る三つの宇宙船の前に立ち尽くした女は、相変わらず呆然とこちらを見つめていた。その姿はあまりにも無防備で弱々しく、いまにも崩れ落ちてしまいそうだった。すると何を思ったのか、ヒッチたちに対して失望や憤りの感情を覚えるよりも早く、女の手を掴むと青い宇宙船に向かって走りだした。
「後ろに乗って!」
 女に向けて放った言葉はヒッチたちの放つ喧騒なエンジン音に掻き消されて届かない。女に言葉が届くわけない。その華奢な体を強引にも抱き上げると、乱暴に宇宙船にある後部席に放り投げた。骨の髄まで伝わる雷のような音の隙間に、女の呻き声のような声が聞こえた気がしたが、そんなことに構う余裕もあるはずなく、自分もまた宇宙船に乗り込み、錆びついたレバーを引いてエンジンを掛ける。
 次の瞬間、黒い物体がものすごい速さで横を通り過ぎるのが見えた気がした。同時に、宇宙船が突然左右に強く揺れる。
 ヒッチたちがついに離陸したのだ。彼らを想像すらできない言葉で罵りたくとも、もう彼らはいない。ヒッチたちの残した黒い煙が霞むと、険しい表情をした連中がこちらに歩み寄る姿が見えた。さきほどの衝撃波でその内の何人かは地面に吹き飛ばされている。先頭にいる男が、何やら大きく口を開けて叫んでいるが、もうすべては手遅れだった。これまで、自分から逃げる度に行なっていた儀式のような手順を済ませると、心の中で三つ秒読みする。
 数秒後には、青い機体は白い空を高く舞っていた。
 白かった空は、蒼から黒に向けて、美しく常に変化していく。
 空を貫く自分たちを、あらゆる場所で不毛な戦いをする連中が、街に散らばった花火を観ていた人々が、涙も喉も枯れてしまった家主さんが、きっと、呆然と見上げているに違いないと思った。空を見上げた彼らは、胸に抱えた悩みや、心をゆっくりと侵食する辛い気持ちが、くだらないと感じるに違いない。そして、何億という人々が、日々、自身と同じように同じように地を這っていること思い出したりして、すべてを諦めたりしてしまうのだろう。
 空の色が真っ黒な色に近づき、星の中心から伸びる見えない力からも逃れようとした瞬間、ふらふらと漂う三つの機体を遠くに捉えた。三つの機体は灰色の軌跡を残しながら、なんとか世の中の束縛から逃れようとしている。
 あともう少し、と思った次の瞬間、中央を舞っていた機体が横に一度傾いたと思うと、三つの機体がほとんど同時に、何度も回転をしながら炎に包まれて落ちていった。機体を覆っていたマグネシウムが、多色な閃光を放ちながら爛れ落ちていき、まるで彗星のように、美しく、眩しく、儚く、その姿を小さくしながら輝いている。その輝きは自分さえも飲み込み、真っ白な光が視界を飲み込んで思わず声が漏れる。
 それは、この世界のだとは思えないほど、ただひたすらに、美しかった。それらが三人の命が燃え落ちていく瞬間だと気づいていても、心の中に渦巻く感動を抑えられない。どんどん下に、下に落ちていく彼らの姿をこの眼に焼き付けたくて振り返ると、後ろには、涙の軌跡を頬まで続かせた女の姿があった。女は泣いていた。けれど、それは、悲しみや恐怖のためではなく、憧れや羨望のために流された涙だった。すぐ隣で燃え落ちていく命に届こうと、だらりと、片腕を指し伸ばしている。
 脅迫するように女に向けて叫ぶ。
「俺のためだ。だから、諦めないでくれ!」
 もはや静寂にしか感じられないこの空間で、この言葉が届いたのか分からないけれど、確かに女の眼には、この眼と合うと同時にわずかな輝きが灯った。けれど、その灯火すらもすぐに暗くなり、女の姿がどんどん、暗闇に包まれていく。

「カイ、起きて、カイ」
 わずかに開いた眼には、錆びついた空き缶が映っていた。あらゆる差異もなくなった空間で、それらはふわふわと宙を漂っている。そのうちの一つにはブリキ缶があった。まだ綺麗な銀色を保ち続けているその表面には、何事もなかったように青く輝き続ける星が映っている。その星の様子は最初に訪れたときに比べて僅かに変わっていることに気づいた。
 ブリキ缶には女も映っていた。驚いて上を見上げると、そこには、他の空き缶に混じって宙を浮遊する女がいた。女はなんだか蛙のように手足を広げている。
 女に手を貸そうとしていると、声を失ってしまった。驚愕したわけでも、絶望したわけでもなく、大切な何かに裏切られて心が空っぽになってしまったような感覚。感情が溢れる。
 女の後ろにはこの世のだとは思えないような、あまりにも壮大な光景が描かれていた。
 どうすればいいと言うのだろうか。幾千にも広がる星の湖の中に私がいたとして、私たちはどこへ向かえばいいと言うのだ。知らなかった。宇宙にはこんなにも星が広がっているなんて。いや、こんなにも長い間をかけて旅をしているのだから、気づかないわけないのに、きっと見るのが怖かったのだろう。この星で過ごした時間が想定以上に楽しくて忘れてしまっていた。口に出していたかは分からない。そうか……、そうか……、一人で呟いていると、どこか遥か遠くで無音の爆発が起きた。名前も知らない星が生死のどちらかを迎えたのだ。だが爆発の光は少しの間しか目に届かない。堪えていた涙が溢れてしまった。だが、重力の無い世界では涙を溢すことすらさえ許されない。
「カイ、ほら、カイってば!」
 輪郭のぼやけた女に呼び起こされた。女が繰り返し名前を呼んでいたことから、心のかなり奥に浸っていたらしい。わざとらしく怒ったように続ける。
「ただ見てないで、手を貸してよ」
「ああ、そうだったな。悪い」
 女が意味もなく宙を彷徨っているのは、少なからず意識を失った自分のことを心配してくれたからだろう。何気なく目を服でこすると、片方の手で取手を握りながら、もう片方の手を女に向かって差しのばした。女は、少しためらいの様子を見せながらも、しっかりとこの手を握りしめてくれた。その手はひどく冷たかった。一瞬だけ女と眼が合うと、女は眼をそらせるように窓の向こうを見つめた。それは照れ隠しではなかった。けど女は何かを隠していた。それを暴く権利も責任もないと言い聞かせていると、女が宙に浮かびながら切なげな響きを含ませながら言った。
「星はただ青く、私たちにできることはない」
 女の言う通りだった。青い星から抜け出した者たちは、なすべきもなく、無情にも青く輝き続ける星を前に、ただ漂うことしかできなかった。
「これは、遠い昔の人が残した言葉よ」
「いい言葉じゃないか」そんな軽い言葉をこぼすと、唾を飲み込む繊細な音が聞こえた。続くように女はためらいながら言う。
「私はこの言葉が嫌いよ」
「どうして」
「だって、そんなの、……あんまりじゃない」
 女はそう言い残すと、まるで溺れていく子供のように手足をバタバタと動かしながら、壁や天井にぶつかりながらも、なんとか自分の席に戻っていった。その後ろ姿を眺めていると、とても悲しい気持ちに襲われた。彼女の姿は滑稽だろうか、醜いだろうか、それとも、きれいだろうか。そのときの私には、答える勇気がなかった。
 サイドミラーを見ると、鏡に反射した星はすでに遥か遠くを漂い、青く光る粒だけが残っていた。その粒をわずかな力で振り絞りつかもうとするが、それは手のひらを通り抜け、大きく広げた手のひらには何も残らない。例の青い光はまるで何かを見せつけたいかのように、まだ目の前を漂っている。青い粒を無気力な目で捉えていると、この一日に起きたあらゆる出来事に実感が湧かなくて思わず口にしてしまう。
「まるで長い夢を見ているみたいだ」
 恐ろしいことを口にしてしまった気がして、慌てて訂正しようとするが、女が間おかずに言ったせいで間に合わなかった。
「わからない。何の違いがあるのかしら」
 開かされてしまった女の問いに答えることができないまま、真っ暗に広がる窓の外を眺めていると女が続けた。
「私たちがあの星を抜け出しても、それでも、星は回り続けるのね」
 いつまでも小言を漏らす女に腹を立てて、窓に映る自分に挑戦するかのように言う。
「そうさ。それでも星は回り続けるし、世の中は回り続けるし、日々も回り続ける。なんだよ、それだと満足できないのか」
 女の反応を待ったが、結局、女がその内なる思いを明かすことなかった。その後も女と共に過ごしたのは、女が自分の代わりにその答えを見つけてくれるかもしれないと、密かに期待していたからなのかもしれない。けれど、それを探すことは、闇に伸びる自分の影を捉えようとするのと似て愚かなことで、結局見つかることはなかった。
 そして外の空気がすっかり寒くなったある日、女はいとも簡単に死んでしまった。ただ、理由もなく、意味もなく。
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