11.

文字数 2,086文字

 足を強く握っていた手の力は一瞬で緩み、今度は誰かの手によって橋に引きずりこまれていく。地面に擦れる顔を持ち上げて振り返ると、そこには、頭から、胸から、足から、色鮮やかな血を流した彼の姿があった。彼は眼を見開いたまま笑っていた。
 宇宙船に向かって伸ばされた彼の手は、どんどん遠ざかり小さくなっていく……。だらりと垂れ下がった片方の手で、何とか彼の手に触れようとするが、また、届かなかった。
気付くと、鉄鋼で囲まれた橋にまで引きずりこまれていた。激しい息遣いと一緒に何かを言うヒッチの声が遠くから聞こえる。
「……やっぱり遅かった。俺たちが辿り着くとっくの前に、連中は橋を吹き飛ばしていた……。ひどいじゃねぇか。でも、俺たち頑張ったよな? 確かにできることは精一杯やった。けど、道が断たれていたらどうしようもないだろ……」 
 誰に向けることなく放たれたヒッチの言葉はどこか遠くに飛んでいき、熱に浮かされたように、彼の居場所まで這い蹲ろうとした。彼は待っている、それも満面の笑顔で。橋が壊れたらもう一度立て直せばいいじゃないか。それが難しいなら他の道を見つければいい。だが彼の命は、一度なくなってしまえば二度と戻ることはないのだ。
体が地面を擦れる度に少しずつ、でも確実に、彼の体はだんだんと大きくなっていく。なのに、突然、頭に鈍い痛みが走ったと思うと、彼の姿が視界から消えてしまった。

 仰向けになって広がる光景は、ただ、ただ、白かった。後頭部に鎮座位する鈍い痛みと口の中に広がる鉄の味さえ無ければ、静かで気持ちのいい朝だった。途切れた橋の向こうには太陽がじっくりと我々を見据えている。空には、白色と表現するにも如何わしい、ただ、善そのものが持つ色が広がっている。その空では海鳥が円を描くように飛び回っている。なのに、その下では、目的を失ってしまった者たちが争い、人間の形を失った者が血を流し、生きる理由を忘れてしまった者たちが地面を這いつくばっていた。ひどいじゃないか、と朧げに胸の中でつぶやくが、それでも、この状況に納得することはできなかった。
「あいつは死んだんだ。連中があいつの胸を撃つとっくの前に! 俺たちもだ!」
 ヒッチの悲痛な叫び声が四方から聞こえる。気づくとヒッチはこの眼を覗き込んでいて、ヒッチの眼からはあのときのように涙が溢れていた。ヒッチの涙を顔に受け止めると、やっと、視界に本来の色彩が戻ってきて、音の飛んでくる方向がわかるようになった。
 起き上がりながら地面に倒れた彼に目をやると、彼を中心に、東と西に分かれた連中が、胸に抱えた銃口を互いに向けてなにやら撃ち合いをしていた。それでもこの場所は静寂に包まれている。耳が聴こえなくなったわけではない。この星で流れる時より早く進んだ技術のおかげで、彼らの使う銃は火薬を必要とせず、わざわざ音を放つ必要もなかったのだ。
 これでは、連中がいくら必死の形相をしながら血を流していても、あまりにも滑稽に見えるじゃないか。笑い声が口から漏れるのを必死に堪えていると、「カイ」、と花火を眺めているときのような物悲しい声で名前を呼ばれた。声の方向を辿ると、女たちが目を赤くしながらささやかな笑みと共にこちらを見つめていた。女が口を開く。
「もう、ここまでみたいね。あなたを巻き込んでしまって本当にごめんなさい。死ぬのは私たちだけでよかったのに。こんな安っぽい謝罪も結局、自分のためにあることは分かっているの。だけど、それでも、本当にごめんなさい。私、最後まで、人のためになれなかった……」
 彼女の口から出される泥細工のような言葉はどれも偽物だったけど、それでも、それは、儚くて本当に美しかった。朝日が高く昇り、彼女たちの顔は光の眩しさに包まれて見えなくなる。背後では、海を激しく揺らす波が音を奏でながら太陽の光に応えるように動き、無数のダイヤモンドが一面に敷き詰められたような綺麗な光景を生んでいる。夢のような景色に、つい息が漏れてしまう。
でもここは夢じゃない。後ろを振り返ると、連中が相変わらず静かな撃ち合いをしていた。相変わらず銃声は聴こえなかったが、たまに聞こえる甲高い金属音や男たちの金切り声が、夢のような静寂を破っている。その連中の中央には、赤い水たまりの中に横たわる彼の姿があった。宇宙船に向けて、途絶えてしまった橋に向けて、自分に向けて、だらりと差し伸ばされた彼の手を、また掴むことができなかった。淡い悔いを心に隠しながらオレンジ色に染められた海の方角を再び振り返ろうとした瞬間、彼の見開かれた眼と合った。命の灯火が消えた眼には、はっきりと、青い空を後ろに立ち尽くす自分の姿が映し出しだされていた。
 全身に熱い血が巡り出す。硬く固まっていたあらゆる筋肉が踊り出す。眼をきつく結び、歯が折れんばかりに強く口を食いしばると、最後となる願い事を自分に向けて呟いた。
 お願いです、もう一度だけ、チャンスを下さい……。
 橋にぽかりと空いた穴に向けて駆け抜けながら、女たちを胸に抱えると、橋の下に沈む暗闇の中に連れて飛び込んだ。
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