5.

文字数 6,436文字

 宿に着くと、空は相変わらずオレンジ色に染まっていた。家主さんは本当に疲れている様子で、シャワーを浴びて寝る、と言い残すと、階段の奥に姿を消した。家主さんの体調を少し気に思ったが、その心配はあっという間に風に吹かれた塵のように心から消えてしまう。玄関に一人残されると、早速、花火大会を見に行くことにした。確か新聞には日没と同時に開始すると書いていた。時計の針を見ると、まだ一時間ほどあったが、少し早めに出発することにした。
 扉を開くと、空の色は相変わらず変わっておらず、空を飛んでいたカラスだけがいなくなっていた。家主さんに教えてもらった海までの道は、今朝通った暗い路地のちょうど反対側にあった。湿気で籠ったあの薄暗い道とは違って、海まで続く路地は等間隔に置かれたガス灯によって明るく照らされていて、たまに駆け回る海風が肌をなでて心地いい。海までの道のりは思ったより短く、たまに横切る海風を辿っているとあっという間についた。
 海岸沿いの道路に出ると、目の前には波のない海があたり一面を覆っていた。微塵も動かない海面にはオレンジ色に染まった空が鏡のように反射して、線対称の風景を作っている。その中央には鈍い太陽が座るように海面の上を漂い、海の表面をキラキラと輝かせていた。道の端にある柵から下を見下ろすと、海の上に人工的に作られた広場のような場所に大勢の人が集まっているのが見えた。いくつもの影が忙しく動き、たまに交差する影がより濃い影を作ったりしている。
 そんな光景を上からしばらく眺めていると、突然、舞台の照明が消えたかのように空が影に覆われ、あたりが一瞬で闇に包まれた。思わず、「あ……」と情けない声が漏れる。
 太陽が、落ちたのだ。地平線に乗っていた夕日がまるで滑り落ちてしまったかのように、一度に海の中へ落ちていくのを確かに見た。オレンジ色だった空は赤や紫色を通りこし、空を一瞬で黒く染めてしまった。それなのに誰も驚いている様子は全くない。太陽があのように一度で沈むのは当たり前のことなのか、それともただの気のせいか……。
 ただ、唖然と、何も見えなくなった黒い空を見つめていると、火の玉が彼方にある対岸から打ち上げられた。始まったのだ、花火大会が。
 始めて観た花火は想像以上に派手だった。花火というのは繊細に計算された上に、夜空に光の花を舞いあげる芸術の一種だと思っていたが、豪快な音と共に乱暴に打ち上がるこの花火にはそのようなものを感じ取れなかった。それでも、色とりどりの光が真っ黒な空を飾る光景には一種の感動を抱かずにはいられずに、思わず息を飲む。
 ピアノの音楽と共鳴するように花火はその後も次々と打ち上げられる。テンポが遅くなり、小さな花火が尾を引きながら左右に打ち上げられたと思うと、突然クライマックスを迎えたのか、幾つもの巨大な花火が重なるように打ち上げられた。夜空が、光の海、というよりは火の海になる。その火の海に照らされる人々を見ると、彼らは空をうっとりとした目で見つめていた。家族らは身を互いに寄せ合い、老夫婦は肩を抱き合い、恋人たちは結んだ愛を確かめ合うように強く手を握り合っている。
 いっさいの光が消え、夜空が灰色の煙で霞んでもなお、人々は静かに上を見上げていた。その場に立ち尽くしていると、夜空にパラパラと比較的小さな花火が打ち上がり、同時にクラシック調のゆっくりとした音楽が流れ始めた。花火とはやはりこういうものだろう。一度も見たことないのに、脳裏に想像していた花火の幻想と照らし合わしていると、下の広場から少し騒がしい声が聞こえてきた。どうしたのだろうと彼らを柵から見下ろすと、彼らは皆、空を見上げていた。彼らの視線を追うと、分厚い雲が花火に近づいているのが目に入った。その雲は眼で捉えることができるほど凄まじい速さで移動し、ついに花火を覆ってしまう。
 すると、どこかから「あーあぁー」と一人の女性が甲高い声を上げるのが聞こえた。
 それを境に、周りの人も彼女に倣うように文句や残念な声を上げ始めた。感染していくかのように他の者も次々に落胆の声をあげた。ついには、広場にいるみんなが同じように夜の街を低い声で轟かせてしまう。彼らのじっとりとした声はあまりにも煩わしく、懸命に空を舞う花火の音さえも掻き消してしまうほど脳内に響き渡る。
 なぜだろうか。彼らの蛙のような合唱を前に、しばらく感じたことないほどに心は怒りに燃えていた。それは、周りの人の迷惑を気にしない彼らに対する正義感でも、楽しみにしていた花火が台無しにされた悲痛な気持ちのせいでもない。おそらく、それは、彼らがいかにも残念そうな声を上げることで、悲痛な気持ちを周りに強要しようとしている理不尽に対する怒りだった。この花火を楽しみにしていた。光が雲に隠されても楽しもうとしていた。それなのに、彼らはそれさえも許さない……。あまりにも些細でしょうもないことに対して、心臓を激しく鳴らす姿を冷たい眼で見る自分がどこかに見えた気がしたが、それ以上に心はとにかく怒りで燃えていた。
 熱に浮かされたように頭は朦朧としていた。鼓動の加速は止まらなかった。ありったけの声を振り絞って、同じような顔をした連中に向かって叫ぼうとする。だが、息を肺一杯に吸った瞬間に突然背後から知らない女性に名前を呼ばれたことで、それはついに叶わなかった。
「あなたが、スミスさん、ですか」
 後ろを勢いよく振り返ると、可憐な声をした女は、海風のよく通るあの路地に立って、道路越しにこちらを見つめていた。ドーン、と派手な音が遠くから聞こえるが、すでに雲に隠されてしまったのか、彼女の顔は花火の明かりに照らされることなく、黒い陰に隠れてよく見えない。
「どうして俺の名前を知っているんですか」この星でこの名前を知っている人は、家主さんとあの薄汚い店にいた男以外知らないはずだ。知り合いもいるはずない。影に隠された女に向かって、少し緊張して尋ねると、女は海に向かってゆっくりと歩きながら喋りだした。
「自分は、あのSAM’ SHOPという店で働いていた者です。今日、あの店を訪れましたよね。そのあと、あなたを追って、急いで追いかけてきたんです」
 女は路地を抜けて道に出ると、青白く照らす電灯に晒され、彼女の顔を見ることができた。その儚さに思わず息を飲み、呆然と彼女を眺める。目、鼻、耳、口、どれも控えめに、互いの美しさを際立たせるように顔に収まり、頰にはほんわかと赤みが差している。大きな眼や肩ほどしか伸びてない黒髪はまだ成人を迎えていない幼さを感じさせたが、丁寧な喋り方や黒で統一された服装からは、大人びた雰囲気も感じさせていた。
 彼女は当たり前のように自然と横に立つと、錆びた柵に身を乗せて、雲に隠されてしまった花火を眺めだした。ふと、彼女のことをまだ一つも知らないことを思い出して、警戒心を取り戻し、少し強気になって質問する。
「俺に何の用ですか」
 女は優しく悲しげな眼で遠くを見つめると、あまりにも突然で、非現実的なことを語り出した。
「それは、一つ伝えないといけないことがあって……。実は、あの店は、この星で一番大きい反政府組織に大量の武器を売っていて、あらゆるテロ行為の協力をしているんです。ここ最近起きているテロも、その大半はSAM’S SHOPが関わっていました。これまでのテロは国民の不安を助長するための小さな破壊工作が主だったけど、七日後には、人の命も奪いかねない大きなテロを行う予定だと聞きます。私は、このことを政府に明日知らせるつもりです。けれど、もしあなたがあの店と関わりがあると政府に知られたら、あなたも巻き込んでしまうかもしれない。だから、それまでに早くこの星を離れて欲しいんです」
 彼女の言葉を疑うのも煩わしくて、話を逸らすように尋ねる。
「でもなんで、俺にそんな大事なことを教えてくれるんですか」
すると、女は驚きの表情を浮かばせて言った。「信じてくれるんですか?」
「信じないこともない、程度ですけど。どちらにしろ、明日にはこの星を離れるつもりだったから俺には関係ないし」咄嗟にそう言ったことが本心だったのかもしれない。彼女の言うことを信じるつもりは毛頭もなかったが信じない理由も特になく、何よりも俺には関係ないことだった。相変わらず鳴り響く花火の音を遮るように女が空を見上げながら言う。
「そうですか……。私があなたを助けようとしたのに特に理由はないです。ただ、あなたが泊まっている宿の地図をたまたま拾ったから、いちおう教えてあげようと思って。宿の方に聞いたら、あなたが花火を観に行ったと聞いたので、ついでに伝えに来ただけです。それに、私もあの店をすぐに辞めてこの星を出るつもりなので、あなたに助言して何かを失うということもないし、人助けをすれば、自分の心も安らぐものですから」
「そう……」花火の音は相変わらずうるさく響いているが、ここに光が届くことはない。
 彼女は続ける。「知っていますか……」その声には物哀しげな響きがあった。
「この空を飾る花火は全部、プロジェクターで映されているだけ。音だってそう、本物じゃないんですよ。この星の天気のことは知っているでしょ、いつも政府が都合のいいように操作しているんです。どこかの農作物が不作だったら雨を少し降らしたり、大事な行事のときは晴れにしてみたり、優先順位に沿って、常に天気を作ってるんです。あの夕陽だってそう、夕陽に照らされる物はなんだって美しくなれるから。そう、あの雲だって」彼女は夜空を指差すと続けた。「少し経ったら、きっとすぐに晴れて、クライマックスの感動を作り出すんです」
 少しすると、彼女の言う通り、花火を隠していた雲が凄まじい速度で遠くに流れ、ついに消えてしまった。すると、音楽のテンポがだんだんと速くなり、あらゆる楽器が重なって激しく美しい音を奏でる。さらに花火が次々と打ち上がり、互いに重なり合い、夜空はもはや昼の明かりで満たされた。落胆の声は感嘆へと変わり、人々は大きな溜め息を漏らす。
「あなたは、この花火が綺麗だと思えますか?」少し考えて答える。
「さあな、別に綺麗なんじゃないかな」
 女はガラス玉のような眼を大きく開き、驚いた表情をすると、呟くように言った。
「それは……、いいことですね」彼女の横顔を見ると、顔は花火の方を向いているのに、その眼には花火は映っていなかった。

 花火が終わると、広場にいた人々はだんだんと帰路へついたが、彼女はまだ柵に身を乗り出して煙のない空を見つめていた。海風は冷たく、早く宿に帰りたかったのだが、彼女を一人に置いていく訳にもいかなかった。一人にすると海に飛び込んでしまうのではないか、彼女の遠くを見つめる眼を見るとそう思わずにいられなかったのだ。
 彼女との間を浮遊する嫌な沈黙を埋めるように、少し気になっていた質問をする。
「あなたは、どうしてあの店で働くことにしたんですか」
SAM’s SHOPは立派な非合法組織だ。それも、彼女の言うことが本当なら、長い歳月をかけてついに叶えられた平和の脅威になるような組織である。いったいどんな理由があったら、あんなところで働くことになるのか。彼女は下唇を弱く噛むと、今にも消えてしまいそうな声で教えてくれた。
「なんでかな……、自分が何処にいるのか分からなくなった、というか、宙を浮かんでいる感覚がずっと離れないというか。息苦しいというか、自己険悪というか……、バカですよね、こんな綺麗で便利な星にいるのに、勝手に自分とかと戦っちゃって。だから、あの組織に入ってこの星を壊してやろうと思ったんです。でも、そんなことを続けていると、本当に自分の居場所がなくなってしまったような感じがして、あの店を辞めることにしたのかな……。言葉にすると本当に馬鹿に聞こえるでしょ」
 身を完全にゆだねていた場所を自ら破壊する女。脆弱、無責任、自業自得。彼女にはどの言葉にも当てはまりそうだったが、どの社会にも属さず、無責任に宇宙を放浪している者から放てる言葉は見つからなかった。海風が収まり、気まずい空気が再び停滞すると、いよいよ宿に帰りたくなってきた。なんせ彼女は、人生相談なんてものを世界一するべきじゃない人を相手にしている。だが、彼女に別れを言おうとすると、彼女の方から先に「もう、帰りましょうか」と切り出されてしまった。当然のように後ろを付いてくる彼女に不信感を抱かずにはいられなかったが、女性に夜道を一人で帰れとは言えず、宿までの道を一緒に歩く。
 夜道は相変わらず電灯によって均等に照らされている。道全体を包み込む沈黙が憂鬱で、後ろにいるはずの、女に向かって覚悟を決めて話しかける。
「俺は、君のことを何も知らないし、君も納得しないと思うけど、そういう気持ちを抱くのは多分正しいことだよ。きっと、そういう気持ちを君が感じているのは、君がそれを必要としてるからだ。息苦しさを感じるのは、全く間違ってないし、それもそれで大事なことだから、もう少し自分を肯定してもいいんじゃないかな」すると間髪入れずに彼女が言った。
「でも、それではただ……、自分の気持ちに無責任だと思うんです」その口調は判然としていたが、俯きながら喋っているからか彼女の声は少し低く歯切れが悪かった。彼女の態度はある意味、健全なのかもしれない。けど、その思春期特有の未熟な心と誠実さに、苛立ちを覚えずにいられず、続けて意地悪な質問をしてしまう。
「こんなこと答えにくいと思うけどさ……、君は、世の中に絶望したからあの組織に入ったの?」
「絶望だなんて……。そこまで私、自分に自惚れていませんよ。希望もなければ、ただ、絶望もないだけ」
海で彼女の話を聞いていたときの心遣いはどこへ行ってしまったのだろうか。もうそのころには、高慢、青二才、自業地獄、の三つの言葉が彼女にお似合いだと感じていた。けれど、反論する気にもなれず、「そう……」とだけ呟く。
 ふと上を見ると、電灯にぶら下がった夜行性の鳥が、黒い身を夜空に身を隠しながら黄色く光る目で女たちを睨んでいた。

「明日にはこの星を出ると、約束してくださいね」
「もちろん」
 彼女は安心した表情をすると、踵を返し、街まで続くあの広い道の端を歩いていった。気休め程度に見送り、宿の扉を開けると、家主さんがもう寝てしまったのか宿は真っ暗だった。
 部屋に戻ると、疲れ切った体を少し休めるため、半ば無意識に、硬いベッドの上でうつ伏せになる。目をつぶり、闇の中を蕭々と響かす雨音に耳を傾けると、今日起きた出来事が次々と頭に現れたり消えたりしていった。だが、夕方にすれ違ったあの男たちのことはいつまでも頭の奥から消えなかった。彼らはどこへ向かっていたのだろうか。あの様子だと、やはり警察や兵隊だろうが、それではあのポスターにあった男の顔が彼らの着ていた服にあった理由がわからない……。あの女なら、もしかして知っていただろうか、せっかくなら聞いとけばよかった……。そんなことを朦朧と考えながら頭を横に向けると、椅子にかけてあるコートのポケットから溢れる青色に輝く光が目に入った。ポケットから今朝買ったその石を取り出すと、青く輝く石は四方に光を放ち、雲に反射した街の明かりを消し去るほど、この部屋を淡い青色で染めた。手で強く握ると、石から溢れんばかりに出るエネルギーは、冷え切った手を暖め、手の中を流れる真っ赤な血管が透き通って見えた。体に流れていく、あまたに枝分かれした赤い血をじっと見つめていると、次第に妙な気持ちに襲われ、視界がどんどん狭まり暗くなっていく。
 あぁ、もうむりだ……
 幻想的な何かに導かれるように、意識が次第とあやふやになる。ささやかな抵抗も虚しく、底のない眠りに沈んでいった。
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