5.

文字数 3,725文字

 帰り道は赤い落ち葉を辿るだけでした。朝を生きているのか、夜を生きているのか、知るすべはありません。それでも住人にとっての新たな一日は訪れたようで、人の影がちらほら見えてきました。ですが、人気のない街を孤独に歩いていると胸に広がっていた不安の影は、彼ら住人の姿を目に捉えたことでより色濃くなっていました。それは、彼らの異様な光景のせいでした。彼らは列になって道に横たわる落ち葉の上を歩いていました。それも裸足で、葉を潰す音を立てながら。私は通常に道の中央を歩いていましたが、自分以外の影が道の端に並べられた木々の真下を歩いていると、まるで私が奇妙なのではないかと勘違いしてしまいます。それでも彼らの傷ついた肌を見ると、彼らの奇怪な儀式に交わる気にはなりませんでした。遠くの足元を見ると、自然の気まぐれによって生まれた枝の凹凸や葉っぱの棘を踏みつけた皮膚から赤い血が流れていて、私の目には、彼らから溢れる鮮血が綺麗に敷かれた落ち葉を赤色に染めているようにしか映りませんでした。自ら身を傷つけるその様子は、まるで、過剰に反応した体内の細胞が自身を攻撃しているような、どうしようもない悲痛な叫びを放っていました。身を置く環境が清潔過ぎると体の免疫反応が狂ってしまうように、彼らもまた、外に敵を失った心が内に敵を求めているのかもしれません。
 宿に着き、部屋に戻ると女が気持ちよさそうに寝ていました。彼女を起こさないように扉をそっと閉めると、彼女の顔がまず目に入りました。天窓から斜めに射し込んだ星明かりに顔が照らされ、白い肌から伸びた産毛が漂っています。静かに二段ベッドの階段を上ると、小さな声がしました。
「カイ」
 起こしてしまったようです。
「悪い、起こしちゃったか」
「ううん。半分しか寝てなかったから大丈夫」
「コロッケ食べるか、お腹すいてるだろ」
 階段に足を乗せたままポケットから三つの袋を取り出すと、それらは意外にも温まっていました。一緒に入れていた青い石が熱を放っていたのでしょう。女は頭上から差し出された袋を手に持つと、「温かい」と呟きますが、残念ながらその中身はそれほど温まっていませんでした。それでも食べ終えると、いつからか失っていた体力が戻ってきます。物足りなさは感じましたが、それでもお腹は十分に満たされ、倒れこむようにベッドに横になりました。
 仰向けになって天窓から見える星を眺めていると、すでに寝たと思っていた彼女が口を開きます。
「そうだ、カイ。私をここまで連れてきてくれてありがとう」
 突然の感謝に、私はどのように答えるべきか迷いました。彼女は自らの意思ではなく、私の意思に頼ってあの星を離れたのです。そのようなことを私がしてしまってよかったのでしょうか。今でもこの悩みは頭から離れませんが、彼女の感謝を無視するわけにもいきませんので、私は「もちろん」だとか意味のないことをそっけなく言いました。
 それでも彼女は続けます。
「私があなたに迷惑をかけていたら、お願いだから正直に言ってね。私、一人でもどうにかやっていくから」
 彼女がどれくらい本気で言っていたのかわかりません。その言葉の響きはとても必死だったので、その真意を疑うのはとてもはばかれますが、私には彼女が一人で生きていくなど想像もできませんでした。彼女も同じだったはずです。ですが、彼女が私の存在を必要としていたように、私もまた、彼女がいなければ次の一日を生きていける自信がありませんでした。私たちは互いの背中に依存して支え合っていたため、どちらかが倒れてしまえばもう片方も倒れる運命にあったのです。彼女を失うなど当時の私には頭の片隅にもよぎることはなく、私は確か、「気にするな」とか「大丈夫」など適当なことを言いました。
 次の日、新しい朝を迎えると、彼女が悶えるように体を縮めていました。額に手を乗せると、思わず手を離してしまうほど肌は燃えるように熱くなっています。それなのに彼女は「寒い」と訴えています。明らかに体を壊していました。
 慌てて部屋を出ると、私は昨日見かけた若者たちの元まで駆け抜けました。走る必要などなかったのですが、目を離す間に彼女の体が蒸発して消えてしまうかもしれない、という考えが、頭から離れなかったのです。馬鹿な考えだとは思いますが、それほど彼女の体は燃えるように熱くなっていました。
「誰かいませんか」
 大きな部屋に足を踏み出した私は、誰がいるかも確認せずに、大きく張り詰めた声をあげました。一瞬の沈黙が空くと、懐かしいような昨日初めて交わした声が聞こえます。
「どうしたの、そんな慌てて」
 思い出したように顔を見上げると、昨日に、一度だけ声を交わしたリーダーらしき人が心配な目で私の恐怖の顔を見つめていました。彼の背後を飾る若者たちも困惑と心配の混じった目で私を見ています。私の一心不乱な様子には少しばかり演技も含まれていたかもしれません。それでも私は、下手な役者なりに必死に声を荒げて助けを求めました。
「誰か助けを貸してくれないか。俺の同行人が熱を出したんだ」
 そう言い終えたところで、彼女が何を必要としているのか私は初めて考えされました。薬でしょうか。ですが病気であるかも定かではないのですから、どんな薬が適切なのかなど分かりません。それなら医者でも呼ぶべきでしょうか。それもただの疲労による体調不良でしたら医者を呼んで何か変わることも期待できないでしょう。やはり、時間の流れに全てを任せるしかないのでしょうか。
 結局、彼らに彼女の体調を簡単に説明すると、快く氷の入った袋から食事まで用意してくれました。
 二人取り残された部屋から見える空は相変わらず真っ暗です。
「一人でどうにかできる、って誇らかに宣言したばかりなのにだって思っているんでしょう」
 全くその通りです、私はただ口元を少し上げるだけでしたが。
「昔から体が弱いの。あの星を出てから溜まっていた疲労が体を崩しちゃったみたい」
 彼女は一段目のベッドに横たわり、私は階段に腰を下ろしました。彼女の側から一刻も離れない私の姿は、他の目から見たら理想的な恋人や心温かな家族に見えたかもしれません。ですがその正体は、全てを投げやってでも女を道連れにしようとする悪魔そのものでした。
 やがて彼女は眠りに落ち、緊張が溶けたその顔を安心して眺めていると、突然、扉が嫌な音を立てながら開きました。
「お嬢さんは大丈夫ですか」
 扉には額に脂汗を流すスーツ姿の老人が立っていました。老人の顔には私と違って演技ではなく心の底から溢れる感情が表れています。二人の時間しか流れない部屋に名も知らない他人が足を踏み入れたことに、私に流れる血は頭蓋骨に隠れた脳味噌を覗き見されたような激しい羞恥心と怒りに支配されました。ですが私の気持ちなど知れない哀れな老人には心の声を押し殺してゆっくりと本物の声を放ってあげました。
「ええ、彼女はすぐに大丈夫になります。どうやら疲労が原因で体を壊したようでして」
 老人は安心する素振りも見せることなく執拗に声を掛けます。
「何かありましたら私にすぐ声をかけてくださいね」
「ええ、ありがとうございます」
 感謝を告げると唐突に、明日この星を出ようという考えが頭に浮かびました。しばらくはこの星に滞在するつもりだったので、そのような考えが突然浮かんだことに自分自身も驚きましたが、目的の石も手に入れたことですし、あながち悪い思い付きではないかもしれません。
「そうだ、言わないといけないことがあります。明日この星を離れるつもりなのですが、何か宿を出る前に必要な手続きとかありますか」
 告げた瞬間、老人の目に失望の色が宿ったのを私は見逃しませんでした。咄嗟に口にした一言が彼を絶望の淵に追いやってしまったことに私は驚きましたが、それと同時に、どうして老人の気に障ったのか不思議に感じました。
「一体どうして!」
 老人の咆哮は後ろに眠る彼女を起こします。
 布が擦れる音の方向を向くと彼女がその大きな目で私達を見つめています。次第に二人だけの止まった時間が再び戻ってくると私は彼女の目から体を微塵も動かせなくなりました。風の音は止み、星の流れは動かず、鼓動さえも遠くに聞こえます。
 扉が叩かれる音を聞くと心臓が跳ね飛びました。
 老人が慌てて部屋を飛び出てしまったようです。老人の行方を追うよりも私は彼女の姿を目で追いました。目が合うと彼女はゆっくりと口を開きました。
「あの人は誰」
 彼女は私と同じように困惑している様子です。
「俺もよくわからない。いや、この宿の従業員だと思う。明日この星を出るって言ったら、なぜか怒って部屋から出て行った」
 彼女は小さく笑って言います。
「なにそれ、まあ、あなたにも分からないなら何度聞いてもしょうがないわね」
 私も応えるように小さく笑って言います。
「明日、星を出る前に会ったら聞いてみるよ」
 そう言いながらも心のどこかで、私は老人の失望と恐怖の正体に気付いていたと思います。結局は、私も老人もどうしようもない半端者だったというだけです。
 空のない街は今日も真っ暗なままです。
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