7.

文字数 4,824文字

 コートを身にまとい、扉を開くと、雨雲はすでに遠くへ移動していて、雲の隙間から顔を覗かす太陽が水たまりを照らしていた。空を綺麗な青空だったが、空が持つ色は決して青ではなかった。青、というよりは、白。いや、その色は光が本来に持つ、善そのものの色だった。どの色にも当てはまらない、ただの光そのものが持つ色。そんな色が空一面に広がり、街に散らばる一滴一滴の水をいろいろな風に輝かせている。外はまるで冬至のように寒く、突然の寒さに居場所を失った熱が白い霞となって街を濃く覆っていた。腰を低くして歩く道々は、夢のように静かで、寒く、眩しく、もしかしたらさっき見た光景は、あの長い夢の続きなんじゃないか、と思わせるほどの神秘的な光景だった。
 そんなことを感じながら、昨日の夕暮れに通った道を辿っていると、あたりから乾いた空気を轟かすいくつもの足音が聞こえてきた。慌てて、昨日通った市場への路地に身を隠す。
 暗い路地からさっきまでいた場所を覗くと、表情を失った兵士が、道の真ん中を這いずるように行進していた。氷のように冷たくなったはずの彼らも、口から白い息を出し、寒さに耐えるように肩をすくめている。彼らが政府の兵士なのか、クーデターを起こした兵士なのか掴めなかったが、どちらにせよ、無許可で外を出歩いている者に敵意があるのは間違いなかった。
 早くこの星を出ないと。そう思うたびに、鼓動は加速し、息は荒くなる。
 だが、肝心の宇宙船は街の端にある飛行場に置いてあった。飛行場といっても、人の手によって海の上にコンクリートが広大に敷かれているだけだったが、そこは、星と宇宙を繋ぐのに唯一使われていた最も果敢な場所であり、最も警戒されているはずの場所であった。そこまで大体十キロ、とてもこの状況で歩いて向かえる場所じゃない。宿を一刻も離れたい一心でここまで歩いてきたが、特に計画があるわけではなかった。必死に頭を使って考えようとするが、焦りと苛立ちのせいで、思考がまとまらない。その場に立ち尽くしてからしばらく経つと、足元には太陽の光がすぐそこまでやってきていて、忍び寄る光から逃げるために暗闇の中へと足を急がせた。
 水たまりを踏みつけなが必死に頭を働かせていると、ピチャン、ピチャン、といくつもの嫌な音が前方から聞こえてくることに気づいた。昼夜関係なく、明かりを灯していた電灯の光はなぜか消えていて、光から隠されたこの道を照らすものはなく、音を鳴らしている者たちの正体が少しも見えない。どんどん近づいてくる足元に耳を傾けていると、市場から宿に向かっていたときのことが頭によぎった。昨日、この道を通った際に、兵士のような格好をした男たちとすれ違ったのだった。彼らがクーデターを起こした組織の一員だったに違いない。あまりにも明らかな事実に、この瞬間まで忘れていた自分を責めたくなる。急いで元の道を引き返そうと思ったが、足元は水で覆われていて、音を残さずにその場を去るのは不可能だった。
 諦めと似た覚悟を決めると、その場でゆっくりと座り込んだ。全身の力を抜いて物乞いのふりをしようと考えたが、あまりの緊張のせいで身体中の筋肉が強張っていて、より一層奇妙な格好になってしまう。体勢を変えて、せめて恐怖に満ちた顔だけでも隠そうと思ったが、足跡はもうすぐそこまできていて、何もできることがなくなってしまう。
 ドボン、ドボン。三人ほどいるだろうか。足音の主達が目の前をひしひしと歩いている。見える世界は真っ暗なのに、彼らの突き刺さるような疑念の視線を肌で感じる。激しく音を鳴らす心臓を手で塞ぎたくなるほど、あたりは水の跳ねる音以外は、静寂に包まれている。
「スミス?」
 突然、彼らの一人から声をかけられた。一瞬で全身の血が引き、鼓動の速度が一気に加速する。首がもげんばかりの勢いで、顔を上に上げると、そこには昨日の夜に会った女がいた。彼女は困惑の表情をしながら、哀れな捨て犬を見るような目で見下ろしている。
「スミス、こんな薄汚い道に座って何をしているの?」心臓は相変わらず激しく鳴っていたが、知った顔を久しぶりに見たからか、全身から力が徐々に抜けていくのを感じた。
「いや、クーデターが起きたって知って、急いで逃げてきたんだ」水たまりに浸かった腰を上げながら、吐き捨てるように言う。
「だからって、こんな汚いところで拗ねることもないんじゃない?」
「いや、拗ねてなんかないよ。君が兵隊か何かかと思って、浮浪者のふりをしようとしていただけなんだ」
 一生懸命に説明しようとするほど、言い訳がましく聞こえるのはなぜだろう。「とにかくな」と一方的に話を中断させると、彼女に何が起きているのか尋ねた。
「それで、いったい何が起きているんだ」すると、彼女が申し訳なさそうに言った。
「まず、スミスに謝らないといけないわ。昨日は、間違った情報を伝えてごめんなさい。クーデターのことは軍の一部の人たちしか知らなくて、SAM’s SHOPの職員も全員、嘘の情報を信じ込んでいたの。多分、あのSAMっていう男しかこのことを知らなかったと思う。SAM’SHOPに駆け込んだときには店はすでに空っぽで、行き場がなくなった私たちは、いったんこの人気のない道に迷い込んだの」
「他の職員達はどうしたんだ。百人は軽く超えていただろ」
「わからないけど、多分、家でじっとしているはずよ。あの人たちはSAMの指示がないと、何をしたらいいかもわからないから」
 彼女の説明がいったん終わると、後ろからじっと様子を見届けていた男が突然喋りかけてきた。
「これから君はどうするんだい」垢のついた髪を肩まで伸ばしたその男は、その風貌に見合わないような整った顔立ちをしていた。その変貌についまじまじと見てしまい、手を差し伸ばされていることに気づくと、勢いで思わず握手してしまう。
「僕はヒッチ。君の名前は」
「ああ、俺の名前はスミスだ」
「それで、君はこれからどうする予定なんだい」
「どうするって……」
「だから、これから何をするつもりなんだ」彼の質問に答えるべきか少し迷ったが、彼らに協力してもらえないかという調子のいい期待をして言った。
「いや、具体的なことはまだなにも決めてないけど、とりあえずこの星を早く出たい。そうだ、俺の宇宙船を街の近くにある飛行場に置いてきたんだ。そこまで行きたいんだけど、どうすれば連中にばれずに辿り着けると思う?」
「うーん、そうだな……」ヒッチと名乗った男は、いきなりの質問にも真剣に悩んでくれて、腕を組みながら黙り込んでしまった。
「本当なら排水トンネルを通るのが筋なんだが、多分、と言うか絶対、監視カメラとか赤外線センサーで監視されていると思う」
「この星には、スピーダーとかスピナーは無いのか」さりげなく聞くと、後ろで黙り込んでいた二人の男が信じられないといった顔をして奇異の眼で見つめてきた。
「そんなのが本当に存在するのか?」そのうちの眼鏡をした一人が、好奇心に満ちた目を輝かせて聞いてきた。
「そりゃもちろん。むしろ、こっちに来てからまだ一つも見てないから疑問に感じていたくらいだよ」
 すると、その場の少し暖かくなった空気を切り裂くように、女が怒った様子で言った。
「そんなもの、文明統一の一環であるわけないでしょ。大体、そのあなたのコートの模様だって、本当なら警察に没収されたっておかしくないわ。チャック柄なんて、この星に来て違和感を感じなかったわけ? そんな物、本当はあっちゃいけないの。別にどの星に行くのもあなたの勝手だけど、その星の掟ってものを守りなさいよ」
文明統一。初めて聞いた言葉だった。意味は言葉の通りなのだろうけど、知らないことがバレたら、女がさらに怒りそうで、ただ「悪かった」と言って彼女の顔を見た。彼女は意外にも、本心から怒っていたそうで、耳は赤くなり、荒く呼吸をしている。ただ、彼女の怒りは恐怖から来ていることが、蒼く引きついた表情を見ると明らかで、それが何よりも不安にさせた。
 さきほどまで眼を輝かせていた男を見ると、あの輝きはどこへ行ってしまったのだろうか。彼は灰色をした失望の、いや、諦めの表情をしていた。そんな彼に何か励ましの言葉でもかけようとすると、ヒッチが話の話題を変えるように、というよりは戻すように質問してきた。
「さっき、自分の宇宙船があるって言ってたけど、悪いが、今の状況じゃどの会社も燃料を売ったりしてくれないぜ。クーデターが収まるまで待てないのか?」
 確かに膨大なエネルギーを要する宇宙船には、それだけのエネルギーを持つ燃料が必要だった。それも、電気や油なんかと比べ物にならないほどの燃料を蓄えた物質。通常、そういった貴重な物質は宇宙国際連合が管理していて、法外な値段がつけられていた。だからこそ、一般の人々は宇宙エレベーターを使って宇宙を移動していたのだが、この状況ではもちろん宇宙エレベーターを使えるわけもなく、いつもなら政府から買い付けて、ずる賢く商品を売りつける商人達もこのときばかりは店を閉じているに違いなかった。だが、この事態を予想していたわけではないが、その燃料を、あらかじめ別のルートを通して手にしていたのだ。
「いや、それならもう持ってる」と言い、ポケットから青く光る石を彼に見せる。普通ならお目にかかることのできないこの石を見て、彼の驚く反応を期待したのだが、彼が見せた表情はその逆だった。あの女に負けないほど彼の顔は真っ青になり、限りなく小さくなった瞳孔と少しだけ開いた口は、真の恐怖という名にふさわしい形相をしていた。
「お前……、それをどこで手に入れた?」それは、質問というよりは、まるで尋問のようで、答えるのにいささか抵抗があったが、彼の恐怖に満ちた表情を見ると正直に答える他なかった。
「いや、普通にさ、お前らが働いているSAM’SHOPって場所で買ったんだよ。ちょっと高過ぎだったと思うけどな。他で手に入れる場所がさ、なか……」
 そう言い終えようとした瞬間、彼に胸ぐらを勢いよく掴まれたせいで、最後まで答えられなかった。何が起きているのかわからず、ただ間抜けに、コンクリートの壁に押し付けられながら彼の顔を見下ろす。
息が苦しい。彼が眼を赤くしながら、何かを言っている。
「……やっぱ、こいつは邪魔だ。こいつは放っといて、さっさと飛行場に向かおう。どうしてだ。どうして、お前がそんな物を買えた。くそ、どうして俺たちを放っといてくれないんだ」
彼の眼には怒りのようなものは篭っていなかったが、そのかわりに、非力な涙が溢れていた。その様子はまるでこの路地のどこかにある、いや、目の前にある、あの涙を流している男のポスターと完全に重なり合っていた。
 感情がなぜか全く存在しないように見える表情。喜び、怒り、哀しみ、楽しみ、どの感情もあるようで、どこか足りない表情。でも、彼は泣いている。目から流れる涙の軌跡は頰まで続いている。その姿はあまりにも哀れで、同情なんてしたこともないのに、思わず手を差し出してしまいたくなる……。けれど、この手が、彼に届くはずはない。だんだんと、世界が色褪せながら曖昧になっていく……。
「やめて、ヒッチ! 放してあげて。彼、息が出来てないみたい……」微かな声で女が言うと、男の腕をその弱々しい力で引き離してくれた。
 すると、息ができてなかったことをたった今、脳が思い出したかのように、必死に酸素を求めて何度も激しく呼吸を繰り返す。酸素が頭に回らないせいか、急な興奮のせいか、頭がうまく回らない。
 いや、ずっと、そうだった。この星に降りたときから、ずっとそうだ。息が苦しい。頭が回らない。物事がうまく進まない。新しい朝が嫌になる。
 やはり……、この星は出よう。
 そう心に決めた瞬間、視界が一度に狭まり、その場の汚水の張った地面に倒れた。
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