6.

文字数 3,478文字

 目が覚めたのは、太陽が西の方から顔を覗こうとする、夜明けのころだった。目覚めては繰り返す新しい朝はとても寒かった。無垢な肌は赤くなり、その柔らかな皮膚は触れるだけで傷ついてしまうほど無防備だった。朝を迎えたばかりの、こんな早い時間に起きたのは、外の鳥があまりにもうるさかったからだ。人の気も知らず、互いを励まし合うように鳴き続ける鳥たちを憎く思ったが、窓の外を見ると、そんな気持ちはいとも簡単に消え去ってしまった。窓は白く結露していて、下には小さな水溜りができている。昨日の鬱陶しくて蒸し暑い天気はどこへ行ってしまったのか。空は、安い油絵で塗られたように不自然なほど真っ青で、幸せになれと言わんばかりにこちらを睨んでくる。なんて無責任な天気なんだ、とつくづく思う。部屋は眩しい太陽の光で満たされていたが、それでも枕横には置いてあった輝く石からは、それが放つ青い光を捉えることができた。ふと、いつもなら絶えず聞こえるはずの、車の喧騒なエンジン音が聞こえないことに気づいた。窓から外を見ると車だけではなく、人の姿も全く見えない。風が吹いていないのか、道を飾る並木の葉も微塵と動かず、鳥たちの鳴き声だけが時間が正しく流れていることを感じさせた。もう少し、この時間の感じない世界か夢の世界に浸ろうと思ったのだが、家主さんの大きい声が今にも飛んできそうで、なんとかベッドから立ち上がる。鋭い悲鳴を上げながら階段を降りると、居間は静かで、家主さんの姿は見当たらなかった。昨日の様子を見るに、家主さんは疲れた様子だったからまだ寝ているのかもしれない。
 家主さんを待つ間、外で時間を潰すことにした。宿の前にある階段に座って無機質な空気を吸ったり吐いたりしていると、目に入る光景は本当に時間が止まってしまったかのようだった。人の姿はなく、外の空気は異常に冷たい。家主さんが降りてくるまで、外で散歩でもしようと考えたが、あまりの寒さに耐えきれず、体を震わせながら宿に戻った。
 家主さんはまだ降りてきてなかった。昨日は聞き逃してしまった占いでも聞こうと、テーブルの端に置いてあったラジオの電源をつける。すると、静かだが凜とした、女性の声が聞こえてきた。
「……繰り返します。こちらはシステマラジオ局です。本日、現最高指導者であるサイオコール・チャレンジャー様の健康上の理由により、指導者の職務を果たせないと判断されたことから、最高指導者の権限がサマーラ・ソユーズ外務大臣に移りました。システマ指導部は声明を発表し、その中でシステマ星全域に無期限の非常事態が宣言されたことを指摘しました。星の全域が無条件で、システマ軍の支配下に置かれ、戒厳令が発令されます。また、星の管理と非常事態体制の効果的な実現のため、システマ星非常事態委員会が作られました……」
 遠くから、いくつもの鳥が一斉に、翼をはばたかす音が聞こえた。
 大事な何かを失った瞬間のように頭が真っ白になる。ラジオから聞こえる女性は依然はっきりと喋っているが、心臓の音でかき消されて何も聞こえない。彼女の言葉の意味がわからなかった。最高指導者、非常事態、戒厳令。知ってはいるが、一度も聞いたことがない言葉が頭の中で反響する。奇妙で不愉快な言葉達が脳内で円状の波を生み出し、複雑に互いに干渉し合う。そして、残酷にも、認めたくない言葉が頭に浮かび上がった。
 クーデター。事態を把握するのに必死だった頭は、「非国民」という言葉が聞こえて、意識が目の前の世界に戻った。
「観光客を含む、星内全域の非国民もまた、同委員会の決定を厳密に遂行する義務を負います。なお、星内の秩序の達成を果たすため、同日より未定、星外への移動が禁止となります、また、市民の安全を確保するため、無許可の外出が同日のみ禁止となります。システマ星非常事態委員会は、システマ市民に向けたアピールを発表しました。アピールは次のように呼びかけています」
 ペースを乱さず、一句一句に丁寧に言葉を綴る女性の声は、よく聞くと、微かだが震えていた。彼女も恐れているのだ、この『非常事態』に。
 そう思うと、事態の異常性にやっと気づくことができた。クーデターがきっと起きたんだ。あの女は、一週間後に大規模なテロが各地で起きると言っていたが、きっと彼女は騙されていたんだ。彼女を信用するんじゃなかった。とにかく、この星を今すぐ出ないとまずいのではないか。漠然とした考えだけが頭に浮かび、荷物をまとめるために急いで部屋へ向かった。
 大きな音を立てながら部屋の扉を勢いよく開けると、慌ててボストンバッグに荷物を入れ始めた。半袖二枚、薄いコート一枚、下着三着、金属製のID、わずかに残った現金とカードが入ったポーチ、使い方の知らない護身用レボルバー。旅に必要な最低限の物をバッグに無造作に入れていると、後ろからドアが開く音がした。
 ドアの方を振り向くと、家主さんが立っていた。震える手にはラジオを握っている。
「あなた、どこへ行くの?」
「やっと起きたんですね。ラジオ聞きましたか? クーデターですよ。早くこの星を出ないと、二度とここを離れることができないかもしれない」
「クーデターって何よ。ラジオの話聞いたでしょ。健康上の理由だって。戒厳令だって、そうやってパニックになった人たちを落ち着かせるために、宣言されたのよ」
「いや、ですから……」
 本当は何が起こっているのか説明しようとすると、家主さんの眼を見て、止めてしまった。
 彼女の眼は微かだが赤く充血し、薄く赤くなった頰には涙を流した跡がある。いつも綺麗にまとめられた黒色の髪は無造作に絡まり合い、彼女が取り乱していたのは明らかだった。
 当たり前だ。長い時間をかけて、作り上げた平和。たとえそれが幻影だったとしても、ここの人は、この平和を受け入れていたのだ。それがある日、突然、霧のように姿を消してしまったら、現実を受け入れろと言われても無理があるのかもしれない。それでも……、受け入れないと。
「奥さん、辛いことなのは深く理解できます。本当です。ですが、現実を受け入れないと。とにかく、自分は行かないといけません」家主さんの返事はない。彼女の表情を見るのが怖くて、俯きながら彼女の横を通りすぎる。ドアノブを掴み、彼女に背を向けたまま別れを言おうとした。
「……お気をつけて。では、もうおいとまさせて頂き……」
「だから、なんなのよ!」
 大きく叫ばれた彼女の声は、一瞬誰のか分からなかった。一人の女性の叫び声は、宇宙一平和と謳われた星をひっくり返してしまうようなクーデターなんかより恐ろしく、恐怖で手はドアノブから離せずにいた。沈黙に包まれた部屋の空気を、女性の震えた声が切り裂く。でもそんな声は頭がぼんやりとして、何倍も遅く聞こえる。
「政治上の冒険主義者は、自国民の現在も不幸も、また、市民の未来についても考えていない。市民が、社会体制がどのようなものであるかを決めるべきだ」
 彼女がもう枯れてしまった声で阻もうとする。
「うるさい!」でも、彼女の声はラジオの向こうに座る女性に聞こえるはずなく、声明は残酷にも続く。
「法の戦争と中央から離れていく傾向が拡大したことから、数十年に渡り蓄積されてきた統一された国民経済のメカニズムが崩壊に……」突然、ラジオから放たれる冷酷で震えた声は、より大きな、もう今にも壊れそうな声にかき消された。
「うるさい! 行きたいなら勝手に行けばいいじゃない!そうやってあなたは、自分にとって都合のいい世界を永遠に追い求めて彷徨うの。誰のためにも生きることができないで、誰も知らないところで、きっと死ぬのよ!」
 彼女はそう叫ぶと、小さな手でしわくちゃな顔を覆い、しばらくの間、嗚咽の混じった涕泣を止めなかった。生まれたばかりの赤子のように泣く姿は、とても触れることができず、けれど見捨てることもできず、その姿をただ呆然と眺める。
 濁った雲が空を覆い、涙を流す気力すら消えたころ、一人の女性は窓の前に立つと、遠くの雲を光の消えた眼でみつめた。もう、彼女の体は震えていない。部屋には、女性のたまに鼻をすする音と、ラジオから聞こえる冷たい女性の声だけが残る。耐えられなかった。バックの中にある青く輝く石を掴み、その温もりを感じると、背を向けて彼女に別れを告げた。
「さようなら」
 部屋を出て扉を閉める直前、扉の隙間から、今にも消えてしまいそうな弱々しい女性の声が耳に入ってきた気がした。
「ああ……、もしも、私に勇気があったら……」
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