便宜上はペットな花嫁
文字数 3,281文字
夕ご飯は……
品川の家で。
上野は長過ぎるテーブルに対面する母子の中間の席に座らされていた。
今晩の夕食のオードブルはオマールエビのテリーヌである。
「…………」
「……。……」
一言も話さない品川親子。
音を立てずにナイフとフォークを使って器用に食事する品川の母・浅海の周囲からは静かな怒りのオーラが感じられる。だが、彼女から口を開く事は無かった。
対面の位置に座っている品川は平然を装っているのか無表情で沈黙を守りながら食事をしている。
品川親子は暫く冷戦状態が続いていた。
親子の中間の席でガチャガチャと音を立てて悪戦苦闘しながら何とかテリーヌを食べようと頑張っている上野がそもそもの原因らしい。
チャリーン 上野がフォークを床に落とした。
静寂の中の不協和音が急に緊迫した様子に変わる。
「拓海さん」
沈黙に耐えかねた浅海が先に口を開いた。
「血統のわからぬ駄犬を食卓に上げるなんて聞いておりませんよ」
「母上、上野君は犬ではありません」
品川が使っていたフォークをテーブルに置いた。顔は無表情のままだが、母親の発言にカチンときたのだろう。
「では拓海さん、コレ(上野の事)をペットだと言い張って連れて来たのは何故です? お友達は赤の他人ではありませんか。家族以外に同席を許した覚えはありませんよ」
「彼は家族の一員になるべき人だと考えています」
「拓海さん、人間のペットを飼うなどと、お母様は許しませんよ。この間もお父様がベンガル虎を買い与えたばかりではありませんの。なのに拓海さんは我侭ばかりおっしゃってもう!」
長テーブルの向こうで金髪の縦ロールをブンブンと揺らし、プンスカ怒る浅海の表情はおたふくのように頬が膨らんでいて面白かったが、品川は笑いもせず真剣な顔で向こう側にいる母親の顔を見つめている。
が、中間にいた赤の他人の上野は我慢できずにテリーヌを頬張ったまま噴出してしまった。
「ぶほっ! うげらぇっ」
噛み砕いたエビが上野のまん前にあった白薔薇の生けてあった花瓶に汚らしく張り付いた。
「拓海さん!」
テーブルマナーの悪い上野に堪り兼ねた浅海が席を立ち上がる。
「どうなさいました母上?」
上品に皿を綺麗にした品川が口元をナプキンで拭いながら尋ねる。
「コレ(上野を指して)はあなたのお気に入りだか何だか存じませんが、とにかく駄犬を飼うのだけはお母様許しませんからね!」
浅海は上野を睨み付けながら品川を一喝するも、怒鳴り散らされた本人は全く動じもせずにただ上品な姿勢で佇んでいる。母の落ち着きの無さと違い、将来は大物になるに違いない風格を携えている。
「食欲が失せましたわ。部屋に戻ります」
怒りを露にした浅海は近くにいた支給に告げると席を立ってだだっ広いダイニングルームを不機嫌に出て行った。
どうやら品川の母は息子の遅い反抗期にどうしたら良いのか分からなくてヒステリーを起こしたようだった。
「おい、品川……」
母親が立ち去った後の品川は目を見開いたまま、今まで洗練されて気品の塊だった母の反応に驚きを隠せずに座っていた。
新しい皿に出されたローストビーフにはフォークもナイフも付けていない。
上野は構わず、出された豪華な食事を頬張るのみだ。
「ところで何で俺はずっと犬呼ばわりされなきゃなんねんだ?」
理不尽な出会いから今まで、この品川家で上野は犬やペット等と呼称されている。友達だと握手した筈なのに、2度目の来訪ではまたペットに戻っている始末だ。
「それはね、……花嫁を連れて来ると母上に申したら寝込んでしまうかも知れないからだ」
品川は上野の事を『花嫁』と呼ぶ時にちょっとだけ頬を紅潮させた。
「は、花嫁だぁ? だ、誰の事だよ?」
上野はまさか自分の事だとは思いたくなかった。ましてや自分は男であり、花婿の間違いだろうと思っているが、相手の品川も男であり、何が何だか分からなくなりそうだ。
「上野君、君しかいないよ」
品川の表情は真剣そのものである。
気まずい上野は目を逸らしてローストビーフを頬張るしかなかった。
しばし沈黙し、上野がクチャクチャとローストビーフを噛む音だけが静謐な室内に響き渡る。
ローストビーフを嚥下する。
「何で俺がお前の花嫁になんなきゃならねーんだよ?」
食べる事で落ち着きを取り戻した上野が、品川が冗談を言ったと思って突っ込む。
「君は忘れたのか? 幼い頃に交わした約束を」
「は?」
上野の記憶では幼い頃に品川らしき金持ちと出会って花嫁になる約束をしていた覚えは無い。
「……まあいいよ、あれは僅かなひと時だったのだから忘れるのは無理も無いか」
「よくわかんねーよ。いつだったか教えてくれよ」
「君が思い出すまで話さないよ」
品川はそれだけ言うと、食事を再開して花嫁についての話は一切口に出さなくなった。
どうやら上野が約束を忘れていたと実感して気を悪くしたようだ。
「し、しかしまーよく自分家に帰る気になったよな」
上野は話題を変えて不機嫌そうな品川に話しかける。
「いつまでも駄々を捏ねていては母上の心は離れていくばかりだと気が付いてね、私が折れる事にしたんだ」
品川は意外と明るい口調で上野に返答した。
「全っ然折れてる気がしねーぞ。喧嘩の原因を作った俺を無理やり連れて来るなんて子供臭え真似してるしよ」
「子供ねぇ……。そうだよ、私は子供だ」
あっさりと認めた品川はにっこりと微笑む。
そして、話題を変えた二人は楽しく食事を続けるのだった。
上野のテーブルマナーについては誰も咎める事を今はしなかったのは、品川の気遣いの他は無い。
上野は久しぶりに一人になり、品川邸から帰宅すると早速不良に絡まれる。
が、自分は野球部員であり、問題を起こすと高野連から試合出場停止を喰らってしまう恐れがある為に我慢をして殴られて逃げた。
ボロボロになって自宅に帰宅すると……。
昨日まで幅を利かせていた品川の荷物が一切消えており、家財道具一式が無くなり、がらんどうとした部屋だけが残されていた。
「な、なんだとー!?」
急転した事態に陥り、ボロボロの体でパニックを起こしかける。
口をパクパクしながら考えた事は、
あの大きな家具を回収して行ったのは品川の母親だという事だ。
なぜ、自分が品川のペットだか花嫁になったのかはよく分からないが、品川の母親は自分をよく思っていない事だけは夕飯の席ではっきりしていた。
上野は仕方なく、拾ってきた新聞を布団代わりにして殺風景になった部屋で就寝した。
朝起きると殴られた傷口が傷む。
畳敷きの新聞紙を敷いただけの床が硬い……。
上野はのっそりと起き上がると、物静かな自宅内を見回した。
昨日の朝までの品川が泊まっていた風景は何だったのか?
昨夜に自分が『花嫁』だと言われていた割には特に何もされておらず、体を大切にされているようだった。
品川とは男同士だと考えると、異様に背筋が寒くなってくる。
「だーっ! あいつ俺の事を花嫁だとか何だよ?」
静まり返る室内で答えは返って来ない。何も無い室内に響いたのは上野の声だけだった。
考えても馬鹿らしくなったので、朝食を摂ろうとコンビニに行くのに確認をするのに財布を取り出すが、小銭入れには40円しか入っていなかった。
空腹で腹が立ったので小銭入れを床に叩き付ける。
途端に虚しさが襲ってくる。
仕方が無いので朝練に行って品川から金を借りるなり食事を恵んでもらうなりして飢えを凌ごうと思う。
この時、上野は品川に施しを受けるのは当たり前になってきて感覚が麻痺していた。
施しの看返りは何であるのか予想するなど忘れている。