第12話 歌うことの

文字数 1,984文字

身体的意味を中村さんは良く理解していた。オペラの歌唱とか聞いていると、その圧倒的高音や強さに驚愕する。ドイツ歌曲でもシェイクスピア時代の英国の歌でも、その詩が文豪ゲーテの作だったり、世界文学史にその名をとどろかせるシェイクスピア謹製だったりすると、まず歌詞に注意が行く。しかし専門的な音楽教育を受け、高校で子供たちに音楽を教える中、われわれ素人の合唱団に「歌」を教える中村さんの教授法は大変分かりやすかった。
歌うことは、まず第一にとても身体的で、楽器のように、自らの身体を使うことだった。つまり、肩幅くらいに脚を開いて背筋を真っ直ぐに床に立ち、自分の体幹を空気が通り抜けていくのを感じることだったのだ。
歌うことは息をすること。腹式呼吸という普通の人でも知っている専門用語? さえ使わずに、コールユーブンゲン(ドイツ語でそのまんま合唱練習という名の合唱の練習曲集、ピアノで言えばハノンに当たるかな)や、ソルフェージュなどの正統的教授法も中村さんはときおり取り入れたが、あんまり楽しいと思っていないふしがあり、それよりももっと動物的なアプローチを採用して、最終的に僕たちは全員、横から見ると腹をあからさまに上下させるという腹式呼吸を身につけた。それは曲を練習する前に、いつもちょっと遊びみたいに行われ、昔大学で合唱の経験があった潮見さんとは違い、あらゆるコンピュータ言語や、システム統合をラックに取り付いて行っていても、引っ込みがちで誰かに向かって大きな声を出す習慣のない僕でも、ひと月同じことをやっていたら、いつの間にかできた。できないとき、中村さんは僕を決して責めなかった。僕が毎日毎日それを何度も繰り返し、自然に習得し、もう振り払うことさえ叶わない習慣になるまで、根気強く繰り返し説明してくれた。みんなも黙って真剣に我がごととして聞いていた。それはあるときはみんなで寄せ木細工の床に寝転がって、手を腹部に当てて深く息をすることだったり、中村さんが取り付けた鏡に横を向いてお腹を動かすことだったりした。
僕は潮見さんのように、チームや、部下、100人超えの聴衆や、社長や重役などのトップマネージメントに向かって話すことはやってこなかった。僕の相手はあるときはさまざまなタンパク質や、病気の原因になる化学物質だったし、大昔藤沢さんが僕の教育のために教えた工場の生産プロセスを制御する、ハシゴの形に似ているためラダー・ロジックと呼ばれるプログラミングだったり、とにかく人間相手ではなかった。システムを構築するときは、それは考慮すべきパラメータ(変数)だったり、実際に組み立てるときは、僕の相手はどこまで行っても人間ではなく、電気ケーブルや、サーバを収納するラックや、回路基板やはんだ付けだった。それでも、
「大丈夫、歌うことは、まあ演奏会になれば人間相手だが、まず第一に物理的なこと、それも一等身近な自分の身体のことなんだよ」と指揮者の中村さんは理系の僕でも理解できるようにかみ砕いて言った。
腹から身体のあらゆる場所へ空気を抜けるようになったら、中村さんはまず歌詞をゆっくり読んでそのリズムを感じ、それから水彩画家が下絵に少しずつ色を付けていくように、ピアノで示した音をだんだん出していくよう指導した。
「ゆっくり、大きな波が揺れるのを想像して歌って」
と中村さんは指示した。すると、腹から作り出される空気に詩と歌が乗っかって、今までにない大きな声や、伸びやかな声、そして驚いたことに高い声が苦労なく出た。声は身体のどこにも突っかからずに、外に向かって放散した。
中村さんは、アール・グレイの館のチャント時間、すなわち夜の11時から夜中の12時に、その声を増幅する実証実験を行った。
被験者はカウンターテナー、普通のテノールより高い、女声のアルトくらいの声のスヴェン・イルマリネンと僕、長尾 (さとる)だった。後で考えたら、それはバロック時代の、イタリアはナポリ生まれの、去勢されて少年のようで女性のような高い声を保ったカストラート歌手の楽曲だった。その一番技巧的で何度も反復される難しいパッセージを、声の強さと輝きが必要とされる見せ場をスヴェンと僕は一緒に歌った。
【私を怪物と戦わせよ、ギリシャの化け物に】とイタリア語の歌詞を訳せばそれだけなのだが、このアリアは「私を戦わせよ」という歌詞を延々と繰り返す。そしてそこが去勢手術で高い声を保ったカストラート歌手の見せ場で、声は何度繰り返しても強く、輝かしく、そして中村さんの指示で速さを増して行った。それをやっているのが、元狙撃手と元製薬会社の研究開発者というまったく専門違いのズブの素人であるところがミソだ。11時から始めて12時少し前に音量と速度と音高が最高度に達し、高いところにある小さなステンドグラスがパリンと鳴って割れ、床に落ちた。
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