第3話 フィールドキッチン

文字数 1,570文字

イヴァン・シーシキンは、戦争の前からロシア料理のシェフだった。モスクワ郊外の森の近くに小さな料理店を営んでいたが、ある夏の夜、子グマがレストランの門の前に迷い込んできた。子グマは猟師に中途半端に撃たれて血を流しており、近くに母グマの姿は見えなかった。おそらく猟師の獲物になったのだろう。
シーシキンは子グマに駆け寄り、抱いて厨房に入り、細身のナイフを火で消毒し、子グマの上に馬乗りになって、子グマの左肩の傷を開き、銃弾を三つ見つけて全部取り去った。アルコールで消毒し、暴れる子グマを押さえつけて薬を塗り、なんとか包帯をすることができた。
子グマはシーシキンの作ったボルシチを食べて日に日に元気になり、ある日シーシキンが目覚めると、厨房に子グマの姿はなかった。
一週間ほどいつものように村の衆に食事を提供していたが、ある日の夕方、料理店の前に立派な鮭が置いてあった。それをレストランで調理して客に出したところ、とても美味しいと喜ばれた。ふと地面を見ると、小さな動物の足跡があった。
北欧の小国ミルトラントと長い冬の戦争になったとき、シーシキンは陸軍の料理人になった。貯蔵していた材料だけでなく、行軍先の村や街で、冬なのに雪の下からベリーや、木の上から実を見つけて、兵士たちが元気に戦えるようにした。
ミルトラントは大国ベナヤ(ミルトラントの言葉でロシアのこと)に対してしぶとく戦ったが、ベナヤの物量で遙かに勝る兵器に負けそうになっていた。ミルトラントはベナヤと停戦交渉に入り、ベナヤは多額の賠償金と領土の割譲を迫っていた。
そんな中、光る金の髪を灰色のスカーフで完全に隠し、ベナヤの司令官を一人倒して森に身を隠した、ミルトラントの狙撃手、スヴェン・イルマリネンが雪中を音もなく歩いていた。糧食はとうに尽きていた。作戦は果たしたが、自国の陣地まで生きて戻れるか分からなかった。
そんなとき、部隊を先に出発させ、ベナヤの陣地に立つフィールドキッチンで、夜戻る兵士たちの食事を仕込んでいたシーシキンをイルマリネンの鋭い目が捕らえた。煙突からけむりが立ち、歴戦のスナイパーもフィールドキッチンから香るかぐわしい白身魚と野菜のスープ、ウハーにはあらがえなかった。あろうことか、スカーフを外し、ポケットに入れ、シーシキンのフィールド・キッチンに吸い寄せられた。
シーシキンは目を丸くして、敵のにぶく金色に光る頭が、降り出した雪の中をやって来るのをとらえた。
「Saanko kupin Uhaa?(ウハーをいただけませんか)」
と言いながら飯ごうを開けて差し出した。ミルトラントに188,000個ほどもある湖のような、水色の目がふたつ、シーシキンを見つめていた。
相手の言葉を知っていたシーシキンはなぜか、言われるままに大きなお玉に巨大な白身魚と野菜の塊を入れて、たっぷりウハーを振る舞った。スコープのないライフルを背中に抱えた細身の狙撃手は一杯食べ、シーシキンはなぜかその飯ごうに二杯目を入れてやった。結局、金の髪のスナイパーは三杯食べ、そこへ戻ってきたベナヤの兵士たちの気配を感じ、シーシキンに深くお辞儀すると音もなく身を隠した。
「条約が締結された。停戦だ。ロシアの勝ちで!」
兵士たちはラジオを聞きながらシーシキンに口々に狂喜して叫んだ。
その声は、ロシア語を解する身を隠したイルマリネンの耳にも届いた。負けてしまったのは悲しいが、腹の中で温かいウハーが停戦の喜びに踊っていた。
これがベナヤの体制に反対して日本に亡命し、ロシア料理店を開き、合唱団でシェフを勤めることになったロシア料理のシェフ、イヴァン・シーシキンと、そのウハーの料理が忘れられずシーシキンをなんと日本まで追ってきた元狙撃手のスヴェン・イルマリネンが、ある日の午後のお茶の時間にメンバーの皆に語った話だった。
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