第8話 両開きのドアを開けて入ってきたのは

文字数 1,961文字

少し腰の曲がった小さなおばあさんだった。
家族の年長者、それも特に女性を敬う習慣のあったスヴェン・イルマリネンは、驚いて狙いをつけていたライフル銃を降ろした。
おばあさんは、70、80、いや90より歳を取っているように見えた。なぜなら手や顔にあるしわよりも、全体的に身体の水分が少なく見え、それで縮んで子供のように背が低かったから。
スヴェン・イルマリネンは銃をテーブルに置き、またもや身振りで僕に見張っているように伝えた。僕は素直にその重そうな武器の監視を始めた。
おばあさんは、どこかにお出かけするような晴れ着を着ていた。紫の葡萄色のワンピースに首周りには手作りで編んだような生成りのレースを付け、お花の形の銀のペンダントを下げ、靴はぺったんこだったけど同じ葡萄色で、前にやはり編んだベリー系の飾りが付いていた。頬には紅を薄く塗り、口紅も薄い赤だった。髪にはくり色のかつらをかぶり、いや、とても自然だったのでもしかしてかつら? と思っただけだが、イヤリングはおとなしめのパールを着けていた。僕はとってもおしゃれだと思い、頭の中で満点の札を出した。
スヴェンは小さなおばあさんの前にひざまずいて、こんばんはと言った。
おばあさんはレディーのようにこんばんはと返事した。おばあさんの水分の少ない首から手に視線を移すと、なんとその手には先日僕たちがショッピングセンターのステージで行った無料コンサートの二つ折りのプログラムがあった。コンピュータは(さとる)担当ということで、僭越ながら僕がWordで作らせていただき、銀座の老舗文具店で購入した薄萌葱色の紙に黒で印刷させていただいた。スヴェンもそれに気づいた。
「僕たちのコンサートに来てくださったんですね」
スヴェンは優しく老婆、スオミ語で言えばrouvaご夫人の身体に手を回した。うーん、こんなことを自然にできるのは、スカンジナビアと異なり、北欧民族と系統の違うウラル語族のスオミ語を話すスヴェンだが、やはりヨーロッパ人だった。
「私はあなたの声が一番好きだった、姿形も」
とおばあさんははにかみながら少女のように告白した。
「私は老人ホームに入っていて、お金はそこそこあって、明日手術を受けることになってるんだ。でも医者が言うには成功率は五分五分。だから、もしかして死ぬ前にやりたいことをやろうと思ったんだよ」
僕は心の中で喝采した。おばあさんの一番やりたいことは、つまり、今風に言えば推しの追っかけをして、握手をしてもらうことだった。なんて可愛らしいんだ! スヴェン・イルマリネンはずっとおばあさんの前にひざをついて、スコープなしのライフル銃を握り、幾多の敵の重要人物を倒した両手でおばあさんの水気のない両手をおおっていた。
「ああ、あんたの目はなんてきれいな水色なんだろう! そして髪の毛は、私の聖書に挟んであるしおりの天使さまみたいに黄金だ」
おばあさんは言った。そして不意にテーブルの脇で、おばあさんと狙撃手スヴェン・イルマリネンの武器を代わる代わる見ていた僕に気がついて
「ああ、あんたも歌手のひとりだ」
と言い、手招きされた僕は左手をスヴェンは右手を握ってひざまずいた。
おばあさんの顔にさらに紅が差し、水気のないと思っていたしわだらけの手と首が生き生きしている。僕たち二人は何も言わずにおばあさんを見つめ、ずっと手を握っていたが、壁の上のカチコチ言わないスイープ・セカンドの掛け時計は、12時少し前を指していた。ああ、おばあさんが現れたのは、アール・グレイの館にあの空気が宿る時間で、音楽の専門家でない僕たちは、無言でその空気を作っているらしかった。
おばあさんが満足してニッコリ笑うと、僕はポケットの携帯電話でおばあさんに聞いた老人ホームの番号に電話をし(実は一度目の番号は間違えていたので、こんな夜中にとかなり怒られた済みません)、夜勤の人に迎えに来てもらった。その女性もおばあさんに何も文句は言わず、行方不明になってテンテコマイなホームから来たのに、よかったあと言って涙を流していた。おばあさんはちょっと済まなそうな顔をした。僕たちは、ホームのクルマ「いきいき園」の女性職員が運転席に乗り込み、おばあさんを後部座席に乗せて出発するのを見送った。スヴェンはおばあさんの手を握って言った。
「手術はきっと成功します。つらくなったら、僕らが手を握って応援していると思ってください」
僕もおばあさんの手を握って
「そうですよ。手術が終わって良くなったらまたコンサートに来てください。あのショッピングセンターにまた歌いに行きますから」
そして僕は職員さんに名刺をもらい、スヴェンは中村さんに相談して、ホームに出張演奏会に行くのもいいねと言った。
僕たちは手を離し、車中のおばあさんに永いこと手を振りながら見送った。
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