第9話 残念ながら

文字数 1,516文字

手術は失敗したと、あの夜の夜勤の職員さんに電話をしたら答えが返ってきた。
「でも、マリカさんはあなたたちのコンサートに行ったのがとても楽しかったと手術前に言っていた」
それは苦くて甘い言葉だった。マリカさんの遺体は、生まれた地、関西に運ばれて荼毘に付されたという。お墓参りができないのも残念だった。
スヴェンと僕は夕食のとき、メンバーのみんなが揃っているところで初めておばあさん、マリカさんという名前だったのか、マリカさんがみんなのいないときここへ来て、スヴェンと僕が話をしたことを打ち明けた。
「そのおばあさんのホームには、彼女の仲間たちがいます。手術の結果は残念だったけど、そこへ行って小さなコンサートをしたらどうかな」
普段、こんな目立つ提案をしないスヴェンがそう言ったので、皆は少なからず驚いた。
「ショッピングセンターと同じで無料でいいと思う。お年寄りが知っている懐かしい日本の歌を歌ったらどうでしょう」
と僕も続けた。
指揮者の中村さんはうなずき、潮見さんとイヴァン・シーシキンの顔を見た。二人ともいいねと言った。中村さんは僕が渡したいきいき園の職員さんの名刺を見て、さっそく電話して打診した…。
一週間後、折しも梅雨の真っ最中で、僕たちは白(スヴェン)、黒(イヴァン)、透明(長尾 (さとる))、緑(中村さん)、紺(潮見さん)と、いろんな色のレインコートと傘でお年寄りたちの前に現れ、子どもに戻った気分で、あめあめ ふれふれから始まり、雨の歌を続けて歌った。
カエルの歌は、中村さんがバッハのフーガ風に編曲してとても難しかったので僕が楽譜アプリで楽譜を作り、楽譜と首っ引きで正確に演奏した。音楽はかなり難しくなったけど、歌詞はあのみんな知っている、クワックワックワックワッ、ケロケロケロケロ、クワックワックワッだから大いに違和感があった。お年寄りたちは幸い手を叩きながらケロケロケロケロクワックワックワッと唱和してくれ、かたつむり、てるてる坊主が続き、あめふりくまのこは、イヴァン・シーシキンが、子グマを助けてお礼に鮭をもらったことがあり思い入れがあったので、中村さんのオルガンに合わせて可愛らしくビロードのようなバリトンで独唱した。
もう一人の外国人スヴェン・イルマリネンは、中村さんのギター伴奏で、日本の昔の若者みたいに、僕は動画サイトでしか聞いたことのない井上陽水の「傘がない」を歌った。

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

スヴェンと僕たち合唱団は庭に続く大きな窓の前に立っていて、窓の向こうには灰色の雲と本降りの雨が降っていた。ときどき雷も閃き効果満点だった。

行かなくちゃ 君に会いに行かなくちゃ
君の町に行かなくちゃ 雨に濡れ…

スヴェンはロックスターみたいに感情を込めて歌ったが、意外にもお年寄りに好評だった。スヴェンは美しい容姿でご婦人にもてたばかりか、大きなお兄さんたちにも熱く受け入れられた。
「あんたの歌には魂がある」
と言われてスヴェンは耳まで真っ赤になった。そうだ、ミルトラントはヘビーメタルの国でもあった。
僕も潮見さんも誰も、スヴェンをねたむ人は誰もいなくて、スヴェンを本当に可愛らしく思い、狙撃手なんて職業は今さらながら、その姿からしても信じられなかった。コンサートの後、僕らはお年寄りたちと一緒にお茶と和菓子をいただいて、スヴェンとイヴァンはその造形にクール・ジャパン!! (日本かっこいい、凄い!)状態に突入したので、僕ら日本人たちはお茶しながらもう一度大笑いした。
再来を約束し、僕たちはいつもの黒に金色草花の装飾のバスで老人ホームを後にした。楽しいひとときだった。
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