第6話 しつこく聞く者 上

文字数 1,926文字

土曜日午後2時から、隣街のショッピングモールの広場のステージで、僕らは住んでいる洋館にちなんで、いくつか英国の歌を歌った。
「ばらより香しい」、「つかの間の音楽」そして毎晩歌っている「魅惑の一夜」、「おお!愛の強い力」など、メンバーが全員男性であるため、中村さんの恋愛アリアやソングのプログラミングによって、僕たちは酷くロマンティックな集団に見られるらしかった。
聴衆の善男善女に深くお辞儀をして、モール裏口の駐車場から、来たときと同じように黒いボディに金色の草花が飾られたマイクロバスに乗り込んで、やはり行きと同じように演奏した曲をみんなで歌ってアール・グレイの屋敷を目指した。
邸からいつもより多くの距離があったので、みんな少し頼りない思いをしていた。夕方屋敷に着いて、イヴァン・シーシキンがたくさん作って用意してくれていたブリヌイ(ロシア風パンケーキ)をみんなで食堂で一緒に食べた。ブリヌイにはフルーツやクリームが入ったデザート系も、野菜や肉、魚が入った食事系もあって、どれも個性的でおいしかった。イヴァンのお店で女性や子供、お年寄りに人気とのことだったが、僕ら男性が食べても十分満足した。みんなイヴァンに美味しかったと心から感謝し、はにかむイヴァンも一緒に皆でお皿を洗ってテーブルを拭いた。いつものように楽しい夕食だった。
そして夜11時から夜中の12時までみんなで強く静かにチャントすると、全員がすっかり安心して、まるでアール・グレイの家から遠く離れなかったかのように、満足してそれぞれの部屋に引き上げた。
潮見さんは、おやすみと言って僕の手を軽く握り、僕もおやすみなさいと答えて頭を下げた。潮見さんの大きな手がマイクロ秒、僕の頭の上にそっと置かれた。そしてそれぞれ隣り合わせの部屋に別々に入った。
翌日からは珍しく皆がそれぞれ仕事やプライベートで、二日から三日、家を空けることになっていた。潮見さんもスイス、ジュネーヴの巨大製薬会社を社長と歴訪する出張が入っていたし、イヴァンも東京のホテルに泊まり込みで富裕層のお客に料理を提供していた。高校教師の中村さんは、数人の同僚と夏の修学旅行の下見で京都へ行くことになっていた。
食べ物は、温めれば食べられる料理やスープをイヴァンがたくさん冷凍して、ギッシリ冷凍庫に保存してくれていた。
僕はときどき下のキッチンへ降りて、食べ物を温めて部屋に持ち帰り、コンピュータに向かって仕事のプログラミングをして過ごした。大きな窓からはフレッシュグリーンがキラキラと光り、夕方になるにつれて空の色が昔のカメラのフィルムのように白い雲を染めながらピンク色から濃い紫になり、すっかりあたりが暗くなると3電球スタンドライトの1つだけを点けて、またコンピュータに向かってコードを入力した。

午後10時過ぎ、今日の納品分をクライアントのサーバーに上げてから、下でゆっくり食事をしたくなり、空の皿を持って、踊り場のある大きな階段を降りて行った。そのとき、ああ、珍しく今夜は誰もいないんだな、といつも歌うために立つ階段の脇を見ながら、お皿を洗うため厨房に入った。
そしたら先客があった。
スヴェン・イルマリネンだった。鈍い金色の頭と、水色の目がこっちを見た。ここへ来てもう4か月にもなるのに、スヴェンとは何か話をした記憶がまったくなかった。真面目で、練習時間にはきっかり姿を現し、美しい高めの声で歌い(たぶんカウンターテナー)、穏やかな表情が金の髪と相まって天使そのものだった。ええと、職業は元狙撃手?! 狙撃手ってスナイパー? 劇画の東郷さんことゴルゴサーティーンしか知らないよ。
「こんばんは」
僕は細くて、それでも体幹がしっかりした、小柄なスヴェンに声をかけた。そしたらわずかに口角を上げて
「こんばんは」
と返した。スヴェンも部屋で食事を取ったのだろう、お皿を洗っていた。僕は順番を待っていた。僕が何か言う前に、スヴェンは僕の汚れた皿をさっと取って、洗剤のついたスポンジで手際よく洗って、洗いかごに入れた。
「あっ、どうもすみません」
僕は恐縮して頭を下げた。まだ青年と言っていい年で、指揮者の中村さんは確か22歳と言っていたが、潮見さんと同じくらいの身長で、つまり僕より頭一つぶんは確かに背が高かった。
スヴェン・イルマリネンは、厨房のコーヒーマシンでコーヒーを作っていた。そうそう聞いたことがある。ミルトラントの国民は大のコーヒー好きで、その年間消費量はケーキにはティーでなく必ずコーヒーと決まったドイツ人に負けず劣らず多いと言う。
「ちょっと多めに作っているから、君も飲まないか?」
とスヴェンはコーヒーマシンを指して誘ってくれた。夢中でうなずいた。




ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み