第5話 エレガントなバス

文字数 1,236文字

日曜日の昼下がり、合唱団の指揮者中村さんの乗用車の隣に、別の車が停まっていた。小型のバスだ。中村さんはその黒いボディに金色の花や草の装飾がされたバスに、一生懸命にホースで水をかけ、ブラシで洗浄していた。
「これ、何ですか?」
と僕は声をかけてみた。
「おう、(さとる)これは合唱団の移動用バスだよ。暇ならこれから中を掃除するから手伝わない?」
今日納期のエンジニアリング案件を納品したばかりだったので、確かに暇だった。初夏で天気も良く、身体を動かすのには最適だった。
昔ここに住んでいた英国貴族のアール・グレイが残していた庭の隅の倉庫に、中村さんの乗用車も、このマイクロバスも入っていた。
僕はハンディクリーナーで座席や背もたれのほこりを吸い込み、ガラスクリーナーで窓を拭いた。中村さんは車内の電気系統を調べていた。天井の照明でときどき点かないところがあったようだ。
マイクロバスのエントランスは藤色の中折れ扉で中央に透明のポリカーボネートがはまっていた。右前に運転席があり、そこは透明の仕切りで囲まれていて、前方左側にはちょっと観光バスガイドっぽい席があった。でもその席は、後ろの二組のペアシートより小さいわけではなく、フロアには青いカーペットが敷かれ、車内のシートには青と紫色のカバーがかかっていた。
掃除が済んで、僕は運転席の後ろのペアシートに座ってみた。マイクロバスだから広々というわけにはいかないが、窮屈な感じはない。中村さんは運転席に座って、中折れ扉を自動で閉じた。
すると、このバスの車内が、合唱団の宿舎、アール・グレイと呼ばれた貴族の館の一階の、夜皆が階段の横で練習するあの場所に似ていると気がついた。
「田舎のキャバレーで、女性たちを安全に送り迎えするためにオーナーが用意した車だったんだけど、コロナや過疎化でお客さんが来なくなり、売り出したんだって」
と、中村さん。それで黒に金色の装飾的な草花、中折れ扉は藤色、紫や青のシートという配色もうなずける。そうそう、合唱団は楽器は持って行かないが、二列目のペアシートの後ろにはたっぷりとした荷物置き場がある。ここにメンバー数人分のスーツケースなどの旅の必要品を収納できると中村さん。
「荷物って、合唱団のコンサートをこの街を出て、どこでやるつもりですか?」
素朴な疑問をぶつけてみた。
「京都」
「へえ、素敵ですね」
「みんなが寂しくならないように、道中は車内でずっと歌っていくんだ」
この合唱団用バスは、アール・グレイの館で毎晩作られる「空気」を、移動中にも作るためのものらしい。
「いきなり京都は遠すぎるから、隣街とか近くから、少しずつ距離を伸ばしていきたい」
というのが中村さんの意向で、秋、京都のコンサートのため宿を仮予約してあった。小さなホールも押さえてあり、皆に反対がなければ、これからプログラムを絞り込んでいきたいと、土曜日午後のお茶の時間に中村さんは皆に打診した。
僕も含めてみんな初めての演奏旅行にワクワクし、反対する人は誰もいなかった。
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