第30話 ピーター・グリーナウェイのレシピ

文字数 748文字

 アントニオ猪木がThe Okura Tokyoでカツカレーを特注して食べていたように、高級なレストランで、通常出さないような料理を注文して自分の好きなものを食べる人たちがいる。僕の共同経営者もその種の人間だ。
 きょう彼はメニューにはないコーンスープをオーダーした。

 僕はむかし、草原を駆ける馬を見るのが好きだった。その姿が、自由とは何かを理解させてくれるような気がしたのだ。自由とは手綱や頚木(くびき)から解放されて、純粋に物理法則の奴隷となることなのだと。
 咲良(さくら)と僕はずっといっしょに育った。幼いころは蛙をつかまえれば空き缶で茹でて、食べ終われば、食事で汚れた指をお互い舐めあって、笑いあったものだ。
 10代になると馬を駆って二人で遠くまでいった。世界の果てをめざして。
 ある日、彼女は馬ごと遙か崖下に落ちた。彼女の頭部は皮が破れた。それは悪魔の仕業だ。他の部位は、神が味方して打撲だけですんだ。世界の果てで適切な治療は施せない。草を集め、草を固めて粗雑なシェルターで日射しをさけたが雨は防げなかった。何日かが過ぎ、傷を負った咲良の頭は、酢をいれたコーンスープのような匂いをたてはじめた。意識を失った彼女をのこして、僕は馬を駆り、廃村となった辺境で針と糸をみつけた。
 もどった僕は彼女の頭皮に針で糸をとおし、彼女の絶叫に精神を締め上げられた脂汗をにじませながら破れ目を縫った。彼女と僕の汗がまじりあって指がすべり、彼女の涙に心が痛んだが、喘ぎ震えながらも僕は縫いあげた。縫合した傷の上を、そこに擦り込んだ馬糞で固めて塞いだ。

 二十代になり、僕たちはいま別々の世界で暮らしている。
 ときどき彼女を思い出す。今日のように、六本木のグランド・ハイアットでコーンスープを口にしたときなどに。
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