第32話 Ginza

文字数 963文字

 本好きの僕はほんらい文庫本というものを好まないが、昔の小説で、どうしてもその刊行形態でないと手に入らないものというのがある。
 それでその時、僕は銀座の大きな通りを見下ろす、世界的ラグジュアリ・ブランドが経営している気の利いた見晴らしのカフェで文庫本を読んでいた。
 すると本のページにシメサバの光を発する青魚色の3センチほどの平べったい紐のようなものを見出した。
 僕は日本酒をちびちび、シメサバをつまみながら本を読むというタイプの通人ではないので、酔ってシメサバの皮付近の肉を落としたということはマズありえない。それに、その紐の姿形というものが、なにか統合完結した「完全体」の印象をそなえているのも解せなかった。
 いずれにせよ邪魔なものに違いないし、古本屋の不調法で、この本の前所有者の生活物がまぎれているということなのだろうから、中指の爪でハジこうとした。
 しかしそれがへばりついたようにくっついているので、更に力をこめてハジいてみると、それは身をよじったのである!
 総毛立った。
 もう反射的に本を窓めがけて投げつけ、椅子をひっくりかえして立ち上がっていた。
 はっと気がつくと、店内の人々が僕のまわりに集まってきていた。
 しかしそれは僕の空騒ぎに反応してのことではなかった。
 窓外にもっと実質的な騒ぎがもちあがっていたのである。
 外の路上を赤黒い肌をした男女若者が半裸・裸足で全力疾走して、僕がいるこのビルの向かいにあるガラス張りの高層ビル・エントランスを目指していた。
 しかし彼らの前には突如巨大なヘビが現れ、赤黒い人間たちはそれに足をとられて転んでしまった。
 何万人という、その人間たちが転げたのである。将棋倒しとなって何キロもつづく彼らの列へ、天からそこだけに向けて透明に輝く雨がきらきらと降ってきた。雨はうつくしい、やわらかなベールとなって。
 赤黒かったのは何かのペイントだったのだろう。彼らは洗われた。
 立ち上がった彼らは神々しく輝いていた。
 店内に祝福の拍手が自然と湧きおこり、目をうばわれながらも無意識に僕は拍手に参加していた。いいものを見せてもらった。
 と、そのとき僕の右腕をソワソワとなにか這い動くようなのを感じ、なにげに目をやると、外の光景のために忘れきっていたシメサバの皮色の、銀色の虫を見出した――
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