第5話 エデュカシオン・サンチマンタール

文字数 2,049文字

 「ああ、イクっ。わたしほんとうにイク!」ささやくように云った(輝く目がそう云っているように僕に錯覚されたのかもしれない)。 妻の最期の息が漏らした、最後の声だったと、僕は信じている。
 そして妻は逝った。(享年24)。俗名:杏(あん)。戒名:慈徳院珠光杏杏信女。
 妻と僕のガールフレンドと僕とでthreesome(日本人は一般に3pと呼ぶ)の撮影中のことだった。
 「イクときは逝く」が彼女の口癖だったが、それは彼女にあっては夏目漱石に於ける則天去私に相当するような信条だった。信条の究極的な実現という意味では、僕は漱石よりも彼女を、より高く評価したい。高校の途中で家出して教育のない女だが、なんといっても、(僕には彼女の他にもつきあっていた女がいるとはいえ、そして最期がthreesomeだったとはいえ)彼女は僕の妻だったのだ。
 彼女のラスト・ヴォイスをタイトルとした動画『ああ、イクっ。わたしほんとうにイク!』はFC2でストリーミング公開するまえに、無理やりカンヌ映画祭に持ち込もうと思っている。

 あの、妻を見届けた撮影以来、きわめて珍しい種類のイカだけが発するだろうような、とくべつな臭気が僕を霧のようにおおって逃がさない。医者は精神的なものだと云った。
 そう云われたからといって僕が霧から出られるわけではない。
 もう出られない気がしていた。
「精神的なものですよ。心気症といいます」
「ええ。僕は誰も恨んじゃいません」
「その他に、気になることは?」
「自分のウンコだけ緑色に見えます。他の人のウンコは茶色か黒に見えるのですが」
「まさしく心気症ですよ」
「そういうものなのですね」
「ただし……黒いウンコは、それを排出した人が癌の可能性があります。しかしそれも、あなたが心気症でない場合にだけ注意すればよいことですので……」と云ったあとで医者はなんでもないことのように続けた「わたしは医療過誤を犯すような人間ではないのでその気遣いはないと思いますが、同僚はある患者さんの所見を間違いましてね。その患者さんなのですが、心気症ではなかった。同僚は三流大学の医学部の出身ですから、間違ったのです。その患者さんなのですが、彼の不倫が原因で奥様が自殺と呼ぶのが適切なセックスをマッチング・アプリで知り合った童貞大学生とやるに及んで亡くなったのですが、亡くなった途端、どういうわけか彼の心に奥様を思う気持ちが強すぎるほど強くなって、ワキの下に、奥様の顔が生えたそうです。ガミガミとうるさいタイプの奥様ではないのですが、それだからといって、奥様の顔がワキの下にあったら、通常の生活はできませんからね……」
 僕はもう一ヶ月ほども悩んでいることがあったので、思い切って尋ねてみた。
「ワキに奥さんの顔が生えたという例のことを挙げられましたが、体の一部が妻の顔に置き換わるというようなことはあるのでしょうか? 例えば陰嚢のようなところが? 医学的にありえるのでしょうか?」
「ありえませんね。もしそのようにあなたが感じているとしたら間違いなくそれも心気症の症状です。なのでここで陰嚢を出してお見せになることはございませんよ」僕の手の動きを見て、手をにらみながら医者は云った。
 僕はパンツに手をかけたところだった。ズボンはもう踝(くるぶし)まで下げていたのである。
 そこへ大袈裟な音を立てて窓ガラスを割って真っ黒い悪魔が診察室に入り込んだのだった。恐慌状態で立ち上がり、逃げるために走ろうとしたがズボンが高性能の足枷(あしかせ)のように踝にまつわりついて僕は顔面から転んだ。

 悪魔は脳震盪下の僕の混濁した意識の先の方で、僕にあんなにも親切だった医者を喰い尽くした。そして僕のもっとも私的な部分の一つ、つまり陰嚢を引っぱって奪い、窓の外の冬空へと、まるで白昼夢のように消え去った。

 僕は途方に暮れた。陰嚢を失った以上、それが妻の顔と置き換わっていたかの検証がますます困難になったのだから。だからといって人倫を外れるわけにはいかない。僕を心気症だと断定して僕の陰嚢の診察を拒み、その問診の空隙を縫って出現した悪魔に喰われてしまった医者に恨みを持つ筋合いではないし、むしろ弔いの便宜をはかってやるのが人倫というものだろう。
 しかし医者は身に着けていた衣服もふくめて、一切の痕跡を残さないまでに食い尽くされていた。
 僕は立ち上がってズボンのチャックを上げ、ホックボタンを留め、ベルトのバックルを締めるとポケットから財布を出し、その中から常時携行しているコンドームを出し、パッケージから取り出して、医者が最後に存在していた辺りの空気を可能な限り集めると、コンドームの口を結んだ。そうしながらもこんなことを考えた。
「持ち去られた陰嚢を捜すことは、すなわち亡くなった妻を捜すことではないのか? 妻を捜さないでは人倫に背くことになるのではないのか?」
 陰嚢の欠落があるばかりで陰部には傷も痛みも皆無だったが、僕の感情は哀切と恐怖でいっぱいだった。
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