第6話 正夢

文字数 1,938文字

 乙姫さまと魚介の乱舞、か。
 不意にそんなことを思いつきながら、Kは病院の廊下を声もたてずに笑いながら歩いていった。診察室までは遠く、廊下や待合スペースは老人や子供でいつもどおりいっぱいだったが今日は妙にひっそりとして感じられた。動き回ったり泣いたり、一所懸命にお母さんに話しかけたりしている幼児たち。咳をしたり虚空をみつめたり不意に微笑を浮かべたりしている老人たち。行き交う看護師や来院者の様子はいつもとかわらないのに、印象がひどくひっそりとしている。
 Kがそんなことを思いながら歩いているうちに彼はひとりぼっちになり、前につづく長い廊下だけが残された。驚いてKは立ち止まった。どうしたというのだろう? と、前方遠くの闇に何か金属体がリノリウムの床にはずむ音がした。なにも見通せない闇が待っていることにKは初めて気づいた。恐ろしくて立ちすくんでいると、球体がKにむかって傾斜があるとも思えない廊下を転がってくる。さっきの音の正体がこれだな、とKは思った。近づいてくる球体は直径10センチくらいのものなのに、何トンもありそうな、ひどく重そうな感じをまとっていた。
 球体はちょうどKの足元で止まった。
 それは眼球だった。それはその重量で不安に時空を歪めていた。
「なんで病院にきたのだ?」眼球は口もないのに声を出してKに訊いた。
 Kは戸惑ってこたえられなかった。なぜ来たのだ? どうしても思い出せなかった。かといって、思い出せないなどとこたえたら、Kには何が待ち受けているのだろう? 
「奥さんが待っているのではないのかね?」眼球はそう云って、存在しない口でからからと笑った。
 ひどく気味がわるくて堪えきれない。しかし動こうにもKの足はリノリウムの廊下に同化してしまっていて、その変化は徐々に脚へとひろがってきていた。なんとかしなければとKはあせるが動けない。リノリウム? 病院の廊下はカーペットが敷いてあったはずではないか?
 眼球が、存在もしない口でからからと笑っている。Kは耳をおおったが、眼球の笑い声はいまや雷鳴のように轟いてKの体を震わせ、ついには病院全体を揺るがせた――

 そこでKは目が覚めた。
 ソファでうたた寝をしてしまったらしい。日曜日のリビングは休日らしい昼間の光にあふれていて、テレビがつけっぱなしだった。妻はどこにいったのだろう? Kはソファの上に身を起こしながらそんなことを思った。
 テレビでは、あの例の甲高い感じの声でテレビ・ショッピングが展開されていた。中年の男が紹介していたのは、
「テレビをご覧のみなさん、きょうご紹介するのは夢の商品です。
蜘蛛の糸! 極楽へまっしぐら、年末の寒い時期にぴったりの商品です。ああ極楽、極楽。糸に手をかけたら最後、ハッピー・エンド保証付き! いまだ返品なし。さらに! 願うだけでお嫌いなご近所さんも一瞬で始末できる優れものです。おつらい人生を歩んできたなら必ずお役にたつ商品ですよね! 思い出クリアランス! ただより高いものはない。そう云いますよね! ご心配ご無用。なので、3980円でのご提供とさせていただきます。ただし! 今回だけご購入には条件がございます。目を覚まさないこと! 目を覚ましたら手に入れることはできません。目を覚ますも覚まさないもご選択はお客さま次第! 夢の商品、3980円、3980円でのご提供! お電話番号は――」
 俺は目が覚めてしまっているではないかとKは思った。ばかばかしい。そもそも目が覚めていなければこのテレビ・ショッピングだって見られているはずがない。視聴者をばかにしているのだろうか? 抗議するためだけにでもコール・センターに電話してやろうか。そんなことを考えているうちにKはやっとあることに気づいた。テレビ・ショッピングは公正な宣伝を放送していたのだ。3980円出せば、《実際に》これを買えるのだ。しかしテレビの中年男が恥ずかしげもなく甲高い声でまくしたてていたように、それは俺の選択にかかっている。目を覚ますか覚まさないか。
 Kはまたリビングをみわたした。妻はいない。妻がいないと世界はガランとして、さびしかった。
 妻に会いたかった。
 そう思うか思わないかに、目を開けていた。
 Kが横たわるベッドの傍らで、Kの顔を心配そうに一心にのぞきこんでいた妻の顔が泣きくずれそうな笑顔で輝いた。
「よかった。よかった」妻が顔をおおった手の指のあいだから涙がKの顔にこぼれおちた。

 12月29日。現実のKは、病院の個室のベッドで依然として昏睡状態にあり、妻は彼の傍らでKの意識の回復を祈りつづけている。
 しかし、これが12月31日から1月1日にかけてKがみるはずの夢であり、また、正夢であるはずだ。
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