第19話

文字数 1,715文字

作品20 作品名 
『私』

『テクノロジーの進化により、人類誕生以来の苦しみから解放された。光に満ちた我々の未来は約束されたのだ。完』

 よしと。原稿を編集局に送信して、一休みするか。息抜きに少し歩くかな。

 青い空を自由に泳ぐ白い雲に誘われて久しぶりに街に出た。
 街の広告塔は私を認識すると、すぐにアプローチをかけてくる。グルメ、旅行、映画、、、、。次々に溢れ出す商品は私の興味をひこうと、現れては消えていく。
 きっと、私の手前を歩く、あの年配の御婦人には、私と違う街の風景が見えているのだろう。
 街の広告塔のアプロ―チは的確に消費者のニーズに触れる商品を選択する。人間の数だけ違う街の風景がある。

 街の外れに近づくと、道端で骨董市のフリー・マーケットが開催されていた。
 何気なく覗くと、年代物の使い古した万年筆がある。
 私は物書きを生業(なりわい)としているが、毎日、キーボードをたたき、コンピューターのディスプレイを眺める生活だ。万年筆なんて持った事も無い。

 街の広告塔のアプローチが無かったせいかもしれない。
 私は役にも立たない万年筆と原稿用紙を購入した。

 帰宅すると、もう陽が傾きかけ、長い影法師が現れた。

 私は、お気に入りの紅茶の薫りを書斎で楽しんだ。
 そうだ。今夜は昔の文豪を気取って、万年筆で原稿を書くとするか。今から書けば、妻が夕飯の支度を終える頃には仕上がるだろう。
 私は骨董市で購入した万年筆を持ち、原稿用紙に文字を書いた。
 あっ。いいぞ。うん。何だか。イイ。うん。私の文章が生きている。
 んっ。うーん。
 だが、私は行き詰った。私は自分でも執筆は早い方だと自負していたが、今夜は、なかなか筆が進まない。
『私は、気づいてしまった。普段、私がうつ、キーボードに、瞬時に反応するコンピューターが私の意図を先読みして、文字を変換しているのだ。
 いや、コンピューターの変換した文字に反応して、私が思考しているのか。
 だが、今夜の私は万年筆に憑りつかれたかのように原稿用紙にむかった。
 夕食も食べず、妻の小言にも耳をかさずに一晩中、筆を走らせた。
 それは、私が初めて文章を書いた時の感覚で新鮮なものだった。
 ひとたび、私の思考が迷走を始めると、孤独な格闘家の如く、苦しみが押し寄せる。
 だが、私の身体の中を熱い血潮が流れているのを感じる事が出来る。
 これだ。いいぞ。
 私の筆は、一晩中止まる事無く、書き続けた。
 真夜中。ゴーストタウンのような街。星の瞬きも音はしない。
 ただ、私の書斎の中に万年筆の走る音が続く。
 漆黒の空が紫がかり、オレンヂ色の光が顔を出した頃、ようやく平穏な時間が訪れた。
 素晴らしい。達成感と手応えを感じる。
 終わった。ついにやり遂げた。
 私は原稿を完成させ、データー化すると編集局に送信した。
 ブッ―ッ。ヴォーン。
 あっあぁ。私のコンピューターがシャットダウンした。
 何だろう。私の文章は、何処に行ったのだ。
 ジィーリリィ。ジィーリリィ。ジィーリリィ。
 ん。電話。何だ、今頃。
「はい」
 編集局からだった。
「先生。大丈夫ですか。先生のコンピューターがハッキングされた可能性があると、局のセキュリティ・システムが作動したんです。何者かが先生に成りすまし、先生の名前で、変な文章を送ったらしいです」
「なぁにぃ。変な文章だと」
 私は既に、私で無くなっていたのだ。
 私は、世界の歯車でしかなかった。
 私の知る私と、世間が知る私。その世界の囲いの中で、夢遊病患者のように漂い。時折、私は、知的に振る舞ってみせて、私の知らない私と、世間が知る私。
 その世界を探り、客観視してみせる。
 そして、私の知る私と、世間が知らない私。
 その世界に浸り、満足していた。
 だが、私の本当の魂は、私の知らない私と、世間が知らない私。
 その世界にこそ、あったのだ。
 私は、万年筆を手に取り、自分の文字を書き記し、自分の魂と語り合う事で本当の自分を見付けた。
 それは私が、この世界の歯車から外された事を意味する。完』

(了)

1601文字
※あらすじ
現在の方向性だと、未来は、本当の自分に気付かずに、社会の歯車になるだけの世界になってしまう。
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