第11話:レストランと孫の米国留学

文字数 2,722文字

 この日は12時からの営業開始と看板を出した。その後レストランの方はレフとエミリアが中心になって料理をしてホールをアリサとソフィアが担当し精算をアンドレに任せた。マキシムも料理上手でレフと交代で料理をした。1987年になり以前、ここでファドレストランをしていた様で以前のファドレストランの関係者の方が店を訪ねてきた。立派な店をオープンしましたねとレフに言い、またファドを地元の人が歌えるようにして下さいと言った。

 その指示に対し了解しましたと言い、何を用意すれば良いですかというと椅子を2~3つ、ギター伴奏者様に用意してと言われた。ギャラはと言うと地元の人でアマチュアですから必要ないと言い食事と飲み物をサービスしてくれれば、それで良いと言った。レフが、それだけで良いですかと聞きなおし、それなら了解です言うと答えた。じゃー、早速、私がこの店でファドを歌えると仲間達に話しておくと言ってくれた。

 もし何か、あれば私に電話してと名刺をくれた。翌日から2名のギター奏者と多くのお客さんが来てくれた。昨日の紳士も来てギター奏者2名に軽い食事だけ、お願いしますと言った。レストランが会場で30分も過ぎた頃、近所の高齢の女性とたまに男性が身振り手振りと独特のファドを歌い出した。店もファドを聴くために静かな雰囲気でだった。ビール、ワイン、カクテル、ウイスキーと料理の注文が増え出した。

 思ったよりも、ゆっくりとした雰囲気で注文もスムーズにこなせる程度で仕事がしやすかった。営業時間は17時開始で24時に閉店とした。その後、お客さん達にはポルトガルにない料理が好まれた。更にリスボンは暖かいので生ビールとサーモン、小エビ、ハム、ソーセージ、サラミ入りの野菜サラダの注文が多かった。寒い日にはロシア仕込みの牛肉、魚の煮込み料理、ボルシチ、ビーフストロガノフ、ピロシキも人気があった。

 レストランも順調な売れ行きで客の入りも増えていった。やがて春になり魚、肉、野菜の市場もわかり、安くて新鮮な食材が手に入り、お酒の格安ルートも教えてもらい原価が下がり、店の利益が増え出した。ソ連時代では考えられない良い材料が格安の値段で手に入った。ただの1つの欠点は、駐車場が屋外で料金が高い事だった。そのため2台持っていた車を1台に減らして、町中は、路面電車、バスを使う様にした。

 少し足を伸ばせば観光地があり周りの環境も良かった。お店の方は家族経営だが人手があるのでモーニングサービスを始めた。珈琲、紅茶とパン、クロワッサンとゆで卵とサーモン、小エビ、ハム、ソーセージ、サラミ入りの野菜サラダのメニューで近所に朝からやってる店がない様で開店初日から大繁盛だった。特に持ち帰りの客が多くプラスチック容器、飲み物カップを用意した。特にロシアン・ティーは評判が良かった。

 最初、朝、7時から9時までと考えていたが、地元や観光客が切れないので従業員を交代しながら、昼まで通しで営業した。その後、最終的には、朝七時~夜十二時まで連続営業する事になり。従業員を途中で交代させ、休ませながら連続営業で、大忙しだった。あっという間に一年が過ぎて1988年を迎えた。その後、電話で注文を受けてバイクで宅配するサービスも始めて店は益々繁盛していきアルバイト従業員六人とコック見習い三人を雇った。

 1990年始めにはリスボンの町中に、もう一店、レフの長男のマキシムを店主に彼の妻のイザベル、レフの長女のソフィアと彼女の夫のアンドレとアルバイト店員3人で開店させた。この店はカフェテリア形式で、サンドイッチ、各種サラダ、珈琲、紅茶に加えて、多くの種類の酒とカクテル、ビール、ワイン、コーラ、炭酸カクテルを用意した。利益の出る製品に絞った店として営業し、持ち帰り、宅配、若者向けの店として考えていた。

 数ヶ月して、そのコンセプトと通り、高収益の店になっていった。この頃には、マキシムとイザベルが給料も貯めてレフ・ファミリーの大所帯のビルから出て新しい生活を始めた。1991年始めに、もう一店、この店から離れたリスボンの新興住宅街にレフの長女のソフィアと夫のアンドレの店をアルバイト従業員4人とコック見習い2人を雇いオープンさせた。マキシムの店と同じ様に高収益の店をめざした。

 1991年の12月にはマキシムとアンドレの店も順調にに売り上げを伸ばしていった。この翌年1992年、祖国、ソ連が解体されソ連邦を構成していた共和国が次々と独立していきヨーロッパの共産主義国家が消え新しい民主主義の時代となった。やがて1994年にアンドレソフィアもマキシムと同様、お金を貯めレフの元から出て別に住むようになった。そのためビルの部屋も2階しか使わなくなったのでレストランの従業員の宿舎として貸した。

 レフはファミリーのために交代で休暇を取る時に楽しめる施設を探し始めた。場所はリスボンかポルトで海の見えくつろげるリゾートが良いと考えて休みの日に女房のアリサとドライブしながら探した。リスボンでは見つからず、ポルトへそこに条件に合うコスタズメラルダというヨットクラブがあった。そこで早速、受付で施設とコテージ、ヨットなど施設のレンタル条件、費用を検討し気にいったので入会金と使用料を支払いメンバーの手続きを取った。

 3つの店の経理をレフが取り仕切った。1992年からコスタズメラルダの会員になってファミリーの休みを月に6日として2回は連続して休みとする様に考えた。人手はアルバイトの数を増やして手当てをした。月に1回ずつでもコスタズメラルダでゆっくり休んめる様にに配慮した。これには若手が喜んでくれレフの孫のブルーナ、セルジオ、アマンダも大喜びだった。その後、仕事へのやる気が上がり一層、仕事に励んでくれた。

 翌年1993年はマキシムの長男ブルーナが米国の高校に留学することが決まり、その後ソフィアの長男・セルジオ、マキシムの長女・アマンダも続けて米国留学する予定をたてだ。1994年1月、スイス・ジュネーブのプライベートバンクPCTのアーロンから電話があり、今年が定年で後任のバートンに、この仕事を引き継ぎますと伝えてきた。

 レフは、アーロンに本当に、ご苦労さんと言い、お世話になったことに感謝を述べた。1994年にはレストランの給料支払後の純利益が300万米ドルとなり臨時ボーナスを出し、盛大なパーティーを開いた。これに対して従業員達は高齢のマリアもベロニカもレフの功績に感謝した。その後、ファミリーの仕事について、あまり無理せず、長く継続する事を考えた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み