名門の光と影 Ⅷ

文字数 2,866文字

 陽が傾きはじめた頃、ベルリネッタは館への帰路についた。カブリオレに乗車すると、シエンナが御者台に座る。
「それでは参ります。よろしいでしょうか?」
「ええ、お願い」
 カブリオレが発車する。通りにも家路につく人々が歩いていた。ベルリネッタが幼少期を過ごしたのは、アークス州の州都セレスティアだった。まだヴァレリア家が栄華を誇っていた時期で、セレスティアの街並みは荘厳で美しくありながら、活況に満ちていたものだった。
 セリアは昔ながらの古都という印象だが、セレスティアほどの盛況はない。建物や通りはセレスティアに似ているところがある。マヌエルはまだかつての栄光を忘れられずにいるのだと、ベルリネッタは察していた。
 館に到着すると、すでに夕食の支度が始まっていて、煙突からは煙のぼっていた。
 ベルリネッタは部屋に戻ると、ゆったりとしたチュニックに着替えた。シエンナは夕食の支度のために、一階に下りていった。
 夕食が出来るまで、ベルリネッタはぼんやりとしていることが多かった。いつもゆっくり出来るのは夕刻からである。今日はマヌエルもサルマートも不在のために、気兼ねなく過ごすことができる。
 ふと池のコイが気になったベルリネッタは、外へと足を運んだ。夕陽が射し、空を美しく染め上げている。その情景に眼を奪われていたベルリネッタは、しばし館の前で佇んでいた。
 ベルリネッタが立ち尽くしていると、門の方角からランスロットが歩いて来た。館の前まで来たランスロットが立ち止まり、ベルリネッタに一礼する。
 ベルリネッタはランスロットの姿をじっと見つめた。兵の教練を終えた後なのだろう。土埃があちこちに付着している。そして、その手には藤紫色の花が握られていた。もしかしたら、土埃は花を摘む時に付いたのかもしれない、とベルリネッタは考えた。
「お帰りなさい。今日もご苦労様でした。母に渡す花を摘んできてくれたのですね」
 ランスロットは意外なことのように、眼をしばたたかせていた。ベルリネッタが花のことを知っているとは思わなかったのだろう。
「はい。外出できないことを嘆いておられたので、ささやかではありますが、これならば外の世界を感じることができるかと思ったのです」
 藤紫色の花を見つめるランスロットの眼が、やけに優しいことにベルリネッタは気づいた。こんな顔をすることもあるのか、と思わず眼を瞠ってしまった。
「綺麗な花ですね。母も喜ぶと思います」
 ランスロットが少しはにかんだように頷いた。普段目にすることのないランスロットの表情に、ベルリネッタの心音がわずかに高鳴る。
「ベルリネッタ様はいかがなさいました。日課であるコイの餌やりでしょうか?」
 ランスロットは真面目に聞いたのだろう。しかし、ベルリネッタにとっては、それが可笑しな物言いに聴こえ、思わず吹き出してしまっていた。
「日課だなんて。あれは気まぐれですよ。でも、ちょうど今、様子を見にいこうと思っていたところです」
「そうですか。それならば、ご一緒致しましょう」
 ベルリネッタは外庭にある池に向かって歩きはじめた。その後ろをランスロットが付いて来る。
「花以外にも持ってきてくれる、と母が言っていました」
「ええ。体にいいとされるものもたまにありますから。兵の教練を終えた後、ひとりで出かけています」
「ひとりで、ですか。危険もあるでしょう?」
「いえ、この辺りは魔物の生息圏も遠いのですよ。出るとすれば野生の動物ですね。それもそこまで危険ではありません」
 池が夕陽に照らされていた。口を開閉させながら、コイはのんびりと泳いでいる。すでに餌を与えられているようで、ベルリネッタとランスロットの姿を見ても集まってくることはなかった。
「貴方が花を摘んできてくれて、どこに、どんな風に咲いていたか話してくれる。母がそう言っていました。とても嬉しそうに語るものだから、私も驚いていたのです。私の話はいつも淡々と聞いているというのに」
 自嘲気味に語ったベルリネッタは、水面に眼を落とした。
「コイの話は、奥方様にしていますか?」
 予想になかったランスロットの質問に、ベルリネッタは少し戸惑った。ランスロットの意図が読めず、思わずその顔をじっと見つめてしまう。
城郭(まち)の様子や世情をお伝えするのも良いと思いますが、時には何気ない話題を話して差し上げれば、奥方様もお喜びになると思います」
 思い返してみれば、ベルリネッタはヒルダに世情のことしか報告していなかった。それが母の役割であったから、自分が伝えることは義務だと思っていたところがある。しかし、ランスロットが言うのは、ベルリネッタ自身がどう感じたかを伝えるべきだという意味だろう。
 何故ヒルダがランスロットの話を楽しそうにしていたのか。あの笑顔は自分たちが幼い頃、子供たちの話を聞いていた母の顔だったと、ベルリネッタは今更ながらに気づいたのだ。
 しゃがみ込んだベルリネッタは、じっとコイを見つめた。水面とコイの鱗がきらきらと照り返す。夕陽色と相まって、この世のものとは思えない美しさだ。
 ベルリネッタにとって、池もコイも、気分を紛らわすものにしか過ぎなかった。鬱屈したものを吐き出す場所だった。だからこそ、ヒルダに聞かせようとは思わなかったのだ。
「貴方は不思議な人ですね、ランスロット。私の心を見透かしているようです」
 ぼんやりと過ごすいつもの時間よりも、安らいだものだということを、ベルリネッタは実感していた。それほど心も体も穏やかなっている。
「そんな大それたことなど出来ません。ですが、私が奥方様と話した時、ベルリネッタ様がいつも気を張って思いつめていると耳にしたのです。おそらくではありますが、いつもお聞きになる話に、ベルリネッタ様の感情がこもってなかったからではないかと思ったまでです」
 苦笑したベルリネッタは、ゆっくりと腰をあげた。ランスロットのほうに向き直ると、ランスロットが藤紫色の花を差し出している。
 突然の出来事で、ベルリネッタは眼を丸くした。ランスロットが何をしたいのか、皆目見当もつかないのだ。
「この花は、ムーンダストというそうです。城郭(まち)の薬師に聞いたのですが、とても珍しい花とのことでした。奥方様に献上しようかと思っていましたが、これはベルリネッタ様が受け取ってください」
 初めは躊躇っていたベルリネッタだったが、おずおずと手を差し伸べる。ランスロットとベルリネッタの手が、わずかに触れる。その時、ベルリネッタの指先がぴくりと動いた。
「この花は、貴女にこそ相応しい」
 ベルリネッタがムーンダストを手に取る。橙色の光が二人の影を映し出す。お互いに見つめ合う中、視線を外したランスロットが背を向けた。
「また、夕食の時にお会いしましょう」
 ランスロットは館の正面玄関へと去っていた。
 ベルリネッタは両手でムーンダストを持った。花の香りが鼻腔をくすぐる。ベルリネッタの顔に、小さな笑みが漏れていた。それは柔和でありながらも、はっとするほどの優美な面持ちだった。
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