名門の光と影 Ⅱ

文字数 2,524文字

 ヴァレリア邸の中は静寂に満ちていた。それは単なる静寂ではなく、異様な雰囲気を醸し出すものだった。
 館の廊下を行き来する使用人たちにも、緊迫した空気が伝わっている。普段は涼しい顔をして雑務をこなしているが、今日は強張った表情をしている。
 館の三階はヴァレリア家当主の領分である。ひと際静かで、清潔感が保たれている。所用を終えた下女が下階に戻ろうとした時、階段からサルマートが姿を現した。下女は慌てて端に退き、腰を折って頭を下げた。サルマートが下女の前で足を止めた。下女の体が、それとわかるほどに硬くなる。
義父上(ちちうえ)は執務室であるか?」
 サルマートが下女に視線を向ける。
「はい。お部屋で本日のお勤めに励んでおられます」
 下女は頭を下げたまま返答する。その声がわずかに震えていた。
 しばし時を置いて、サルマートは下女に歩み寄った。首を垂れたままの下女の頬に手を当てる。
「面を上げよ」
 それでも下女は顔を上げなかった。しびれを切らしたサルマートが、下女の顎を強引に持ち上げた。サルマートの口もとが、歪んだように吊り上がる。
 下女は艶のある綺麗な肌と、丸く美しい緑色の薄紅藤の瞳を持っていた。肌の色はやや浅黒いが、それが栗色の髪と合わさって、独特な魅惑を放っていた。
「美しい眼だ。名はなんという?」
 しかし下女は答えない。身を小さくして、その場をなんとかやり過ごそうとしている。そんな下女の頑なな態度が一層気にいったのか、サルマートは満足そうに笑みを浮かべ、下女に顔を近づけた。
「私の側室となれ。いくらでも贅沢をさせてやるぞ」
 下女の体が小刻みに震えている。それはサルマートに対する拒否感に他ならなかったが、サルマートにとってはこの上ない愉悦であった。
「サルマート殿」
 その場に突如割って入った言葉。サルマートが気を取られた隙に、下女が頭を下げて階段へと身を引いた。
 舌打ちをしたサルマートが、声のしたほうを睨みつける。そこに立っていたのは、慇懃な態度で一礼をしたマシューであった。
「お館様がお待ちであります。執務室へどうぞ」
 サルマートの機嫌を損ねたマシューであったが、意にも介さない仕草で執務室へと誘導する。憤概したような面持ちのまま、サルマートは執務室へ向かった。
 執務室ではマヌエルが領内から上がってきた報告書に眼を通していた。サルマートが入ってきたことに気づくと、白々しいような笑いを見せた。
 マヌエルとサルマートが、応接セットの椅子に腰掛ける。マシューが手際よくお茶と菓子を用意し、卓の上に置いた。
「よく戻られた婿殿。父君と兄君は息災であったかな?」
 サルマートはメリアガンス家の三男である。メリアガンス家の領地は、アークス州サフォーク郡のデュルトルにあった。メリアガンス家は尚武の気風を強く持つ豪族で、その勢威を年々力を増している。
「相変わらず気力に溢れておりました。アークス州の太守、パスカル卿と揉めておりましたが、それも落ち着きました。今はゆったりと領地の経営に励んでおります」
「そうか。それは何より。私もログレスから戻り、今は不在時の庶務に追われておる。戦いが続いていて、物の動きが鈍いな」
「どこも似たようなものですよ。一部の商人は潤っていますから、そうしたところから税を徴収するしかありませんな。上に立つ我らが困窮してしまえば、世はさらに乱れます。取れるところから取るべきでしょうね」
 マヌエルが幾度か頷いた。二人とも茶を飲んで、菓子に手を伸ばす。和気藹々とした様子はない。ただ淡々と報告義務を果たすだけ、といった印象だ。
 もともとマヌエルはメリアガンス家に好感を持っていない。尚武の気風を持つメリアガンス家は、時の権力者に逆らったり、或いは靡いたりと、時勢を読んで上手く生き延びて、勢力を維持してきた。時には混乱期に勢力拡大を図ることもあり、そうした手段を選ばぬやり方が、マヌエルからすれば野蛮と映るのだ。
 しかし、古き名家たるホーンド家との縁談を破談にしたことで、ヴァレリア家に見向きする貴族がいなくなった。ヴァレリアの血筋と名跡を後世に残すことは、マヌエルにとっての使命である。宰相であったウーゼルが倒れ、混沌とした世相になった今、斜陽のヴァレリア家と婚姻関係を結ぼうという貴族や豪族はいなかった。皆、力のある者と結ぼうとするのは当然のことである。近隣で唯一縁談の話に応じたのが、メリアガンス家であった。
 あらゆる方面に縁談を断られたマヌエルからすれば、メリアガンス家は救い主のようである。だがそれでも、肚の底では成り上がりのメリアガンス家に対する蔑視を消せなかった。
 そうしたマヌエルの心中を、サルマートはすべて察していた。察した上で敢えて気づかないふりをして接している。同時に、争乱の世で生き抜く能力のないマヌエルに冷笑を向けていた。
「ところで義父上(ちちうえ)にお話があります。領地のことです」
 サルマートが話を切り出すと、マヌエルの眉がぴくりと動いた。領地、という言葉にあからさまな反応を見せたのだ。
 アスランティア郡の経営が上手くいっていないことを、サルマートはすでに掴んでいた。以前はアークス州全体が領地であったため、地の利によって領内は潤った。今はアスランティア郡だけが領地で、領内の富はほとんどがアークス州の州都セレスティアに集められるからだ。
「今は戦乱の時代。太守が争い、領地を奪うなどよくあることです。それはこのアスランティア郡も例外ではない。いつ戦いを仕掛けられるか、わかったものではありませんからな」
 薄ら笑いを浮かべるサルマートに対し、マヌエルは苛立つように口をへの字に曲げた。サルマートの真意が掴めずに、困惑してもいるのだろう。額からは汗が一筋流れ落ちた。
「心配なさらずとも、義父上(ちちうえ)はただどっしりと構えて見ていてくださればよい。私の思いは義父上(ちちうえ)と同じでございます。この栄えあるヴァレリア家に、かつての栄光をと考えております」
 光が消えたように、室内が暗くなったようになる。実際には部屋に充分な光が満ちているのに、この部屋だけが灯りのない夜のようになっていた。
 暗く冷たいサルマートの闇が、執務室を覆い尽くしていた。
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