名門の光と影 Ⅳ

文字数 1,489文字

 小さな光が一筋部屋に差し込む。寝台で上体を起こしたベルリネッタは、自分の体に手を当てた。首筋と胸、そして手首に新しい痣ができていた。
 サルマートとの交合を終えた朝は、いつも孤独感と虚無感がベルリネッタを襲う。大きく息をついたベルリネッタは、寝台の縁に腰掛けた。
「お嬢様、大丈夫ですか」
 丸く美しい薄紅藤の瞳と、栗色の髪を持っている、廊下でサルマートに声を掛けられていた下女だった。心配そうにベルリネッタを見つめている。
「私は大丈夫です、シエンナ。朝食の前に湯浴びをします」
 少し戸惑ったシエンナだったが、気丈なベルリネッタを見て頷いた。
 ベルリネッタの寝室には浴室が添え付けられている。寝台から立ち上がったベルリネッタは浴室に足を運び、予め用意されていた湯で体を洗う。

『アーウィン、アーウィン⁉ 何故だ、何故お前が…⁉ どうしてこんなことに…』

 ベルリネッタの脳裏に、父マヌエルの慟哭が木霊する。それは長兄、アーウィンが戦死した際のことだった。厳格だが慈愛ある父は、ベルリネッタにとって自慢の父だった。アーウィンもマヌエルの期待に応えるように成長し、周囲からも将来を嘱望される器に育った。
 しかし、アーウィンは戦場で命を落とした。ヴァレリア家の次期当主として功を焦ったアーウィンは、ベルゼブール軍の名将テュールの仕掛けた罠に嵌まってしまった。味方が救援するのも間に合ずに首を討たれ、家族のもとに戻ってきた時は、首から上がない状態であった。
 その後皇都ログレスで政務官として働いていた次兄ウィルバーが、ヴァレリア家の跡継ぎとして呼び戻された。当初からベルリネッタは不安だった。ウィルバーは利発で礼節正しい人柄だったが、アーウィンと比べると臆病で内向的な一面があった。兵法の知識はあったが武術はからきしで、マヌエルが付けた副将も、その及び腰に頭を悩ませるほどだった。
 不安が的中するように、ウィルバーは夜中に戦場から逃亡し王国兵に捕らえられた。前線からの逃亡は死を意味する。ウィルバーは軍議で極刑が決定。首は前線の拠点オラデアの城門に晒されたという。
 戦時であったためにヴァレリア家に対する沙汰は保留となった。汚名と恥を雪ぐべく、マヌエルは自ら兵を指揮してフォルセナ戦争を戦ったが、眼に見えた戦功を挙げることはできなかった。
 国領整理でヴァレリア家の所領が減り、跡目に据えていたチェスターも病死すると、マヌエルは人が変わったようになったのだ。
 それでも、ベルリネッタにとって敬愛する父に変わりはない。だからこそ、心を通じていた婚約者への思いも断ち切り、ヴァレリア家のために自分の身を捧げることにした。
 父や母が抱いた哀しみに比べれば、どうということはない。体にできた痣は、ヴァレリア家を守るための名誉の負傷。ベルリネッタはそう思い定めていた。
 もしもサルマートの機嫌を損ねるようなことがあれば、婚約は破談になる。そうすれば、今度こそヴァレリア家と結ぼうとする貴族や豪族はいなくなる。それは、父の悲願を打ち崩すものだ。
 それでも時折弱音を吐きそうになる。サルマートとの交合は、恥辱的な拘束だけではない。交合の最中に伴う暴力が、ベルリネッタの体に苦痛をもたらす。深夜まで続く悪夢の時間に、ベルリネッタはいつも耐えていた。
 湯を浴びていると、心も体も洗われる気がしていた。自分を苦痛から解放してくれる優しい流れ。それがベルリネッタにとっての湯浴びである。
 頬がむず痒い。ベルリネッタは湯で顔を洗った。
 涙などではない。そう自分に言い聞かせたベルリネッタは、お湯を溜めた浴槽に体を沈めた。
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