名門の光と影 Ⅵ

文字数 2,665文字

 ヴァレリア家の朝食が終わると、館は一先ずの落ち着きを見せる。使用人たちも片づけをしつつ、交代で食事を取る。
 食後、マヌエルは領主としての仕事をこなし、サルマートはいずれヴァレリア家の当主となるための、人脈作りに奔走する。
 ベルリネッタはシエンナと共に、ヒルダのもとへ訪れていた。母の容態を見舞うのは、習慣になっている。ヒルダは寝台で上体を起こして、窓の外を眺めていた。態勢が辛くならないように、毛布などを丸めて背を預けられるようになっている。
「おはようございます。お母様」
 ベルリネッタが声を掛けると、ヒルダは慈愛に満ちた笑みを浮かべた。マヌエルは息子たちを喪ってから変わってしまったが、ベルリネッタにとって、ヒルダはいつまでも昔の母のままだった。
「朝食はしっかり食べましたか、ベルリネッタ?」
 幼い頃、ベルリネッタは朝食を残すことがあった。朝はどうしても食欲が湧かない時があったのだ。母から厳しく躾けられ、それ以来残さず食べるようになった。
「勿論です。お母様。このご時勢、食べたくても食べられない人も大勢いますから」
 ヒルダが満足そうにゆっくりと頷いた。
「そうね。そして、大地の実りに感謝するのです。自然(ナトゥーア)の恵みが、私たち人を生かしてくれているのですから」

「はい」
 ベルリネッタはマヌエルの大きな愛を受けつつ、ヒルダの背を見て育った。ヒルダは勤勉であった。午前は学問や作法の修得に励み、昼食を終えると城郭(まち)の教会に出かけて祈りを捧げ、午後は豪商やギルド長の夫人たちと意見を交換することに費やしていた。
 そうしたヒルダの姿を見ているベルリネッタも、母に倣って一日を過ごしている。そのために、ゆっくり出来るのは夕食の後だけだが、サルマートがいる時はその時間が苦痛のものとなるのだ。
「商人たちの間では、情勢が不穏だという噂が流れています。王国東方では領地争いや異民族の侵入があり、国境でも紛争が起こっているそうです。また、近く参事長閣下が兵を出すとの風聞もあります」
 ヒルダに倣って行動し、その結果得た情報を母に伝えるのは、ベルリネッタの役目であった。
「ローエンドルフ宰相閣下がお亡くなりになってから、この国はずっと荒れたままです。ザクフォン族もローエンドルフ宰相閣下がご存命の際は王国に従順でした。これがいつまで続くのか。このままでは、人も土地も疲弊していくばかりですね」
 窓の外を視線をやりながら、ヒルダがふうと大きく息をついた。せっかく気分を良くしていたところに、暗い話題を提供してしまったと、ベルリネッタは反省した。
 何か別の話題を振ろうと、ベルリネッタは思考を巡らせた。その時、ヒルダの寝台の隣に置いてある、小型の収納棚に眼がいった。棚の上にはいくつもの花瓶が置かれ、花が生けられている。以前よりも増えた。そして、昨日なかったものもある。花だけでなく、珍しいハーブもあった。
「随分と数が増えましたね、お母様」
 ベルリネッタの眼が、生けられている花たちに向く。それに気づいたヒルダが、嬉しそうな笑顔を見せた。
「これはね、ランスロットが摘んできてくれたのよ」
 ヒルダが色とりどりの花に顔を近づける。
 ベルリネッタの頭はしばし停止していた。意外な人物の名がヒルダの口から出たことで、困惑してしまったのだ。
「ランスロット。あの方が、ですか?」
 訝しむような口調で、ベルリネッタが訊ねる。するとベルリネッタの疑念を払うかのように、ヒルダが大きく頷いた。
「ええ。私が外に出ることができないでしょう。一度、私の顔を見にきてくれた時、外でどんな花が色づいているのか、興味があると言ったら、それから毎日のように、花を摘んで私に届けてくれるようになったの。どこで、どんな風に咲いていたか、それも教えてくれるわ。体にいいからと、たまに薬草も摘んできてくれるのよ。ねえ?」
 ヒルダが寝台の側に立つ侍女に言うと、侍女が含み笑いをしつつ頷いた。侍女の笑みが何を意味するのか理解できないベルリネッタとシエンナだけが、顔を見合わせている。
「昨日は顔に擦り傷を作って来たのよ。どうしたのか聞いたら、花が傾斜に咲いていて、採ろうとした際に転げ落ちてしまったと言っていたわ。そこまでしなくてもいい、と言ってのだけど、意外に頑固なのよね。落ち着いていて、冷静な物腰だと思っていたけれど、少年のようなことする一面を見て可笑しくなってしまったの」
 ヒルダと侍女がくすくすと笑う。その時の話が余程面白かったのだろうか。それよりもベルリネッタを驚かせたのは、ヒルダが本当に嬉しそうに話をしていることだった。病に伏せてからのヒルダは、笑っていてもどこか影があり、常に諦念を抱いているように思えたからだ。
「今日はどんな花を摘んできてくれるか。いつも待ち遠しいの。今では私の一番の楽しみだわ」
 ヒルダが元気そうに笑っていることを嬉しく思う反面、ベルリネッタは複雑な気持ちに囚われた。母の精神的な支えになっていたのは自分だと思っていたからだ。しかし、ベルリネッタの話で、ここまでヒルダが笑ったことは一度もない。それが心に引っかかっていた。
「お母様がいつもより元気そうで安心しました。私は部屋に戻ります。ヴァレリアの女として恥じないよう、今日も励みます」
 ヒルダがベルリネッタの瞳を見て頷いた。その眼は、娘を慈しむ母の愛に溢れている。
「ベルリネッタ」
 ベルリネッタが背を向けた時、ヒルダが声を掛けてきた。何か忘れていただろうかと、ベルリネッタは振り返った。
「体を、大事にしなさい」
 胸の奥に響く言葉に、ベルリネッタは一瞬身動きできなくなった。ヒルダは気づいている。ベルリネッタの抱える苦しみに。だが、今はどうすることもできないのだ。
「大丈夫です。お母様。私はお母様が思っているより強いですから」
 ヒルダを心配させまいと、ベルリネッタは努めて明るく振る舞った。母がいてくれれば、どんなことにも耐えられる。そう思っている。
 ヒルダの部屋を出たところで、ベルリネッタは足をぴたりと止めた。後ろについていたシエンナが、怪訝そうにベルリネッタの顔を覗き込む。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
 ベルリネッタがシエンナに顔を向ける。
「シエンナ、私が学びに入っている間、お願いがあります。ランスロット・リンクス、でしたか。あの方のこと、少し知りたいのです」
 察したような面持ちで、シエンナが頭を下げた。
 今まで意識することのなかった存在。それが、ベルリネッタの興味を引いてやまない存在になっていた。
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