第90話

文字数 4,114文字

 そして、私が、そんなことを、考えていると、

 「…綾乃さんは、悔しくないんですか?…」

 と、目の前の菊池リンが、繰り返した…

 怒った表情で、繰り返した…

 私は、驚いたが、ここで、怒るわけには、いかない…

 頭に血が上っている相手に、怒るわけには、いかない…

 それでは、火に油を注ぐようなもの…

 相手が、怒っていればこそ、こちらは、冷静に対応しなければ、ならないからだ…

 そうしなければ、怒鳴り合い…

 言葉の応酬になりかねないからだ…

 だから、

 「…悔しいもなにも、私は、ただの雇われ人…FK興産は、私の会社でも、なんでもないのよ…」

 と、言った…

 笑って、言った…

 すると、彼女は、驚いた…

 またも、呆気に取られた表情になった…

 それから、すぐに、

 「…でも…でも…」

 と、繰り返した…

 「…でも、なに?…」

 「…綾乃さんと社長は、恋人同士じゃ…」

 菊池リンが、言った…

 初めて、私とナオキの仲に言及した…

 私は、わざと、笑いながら、

 「…昔はね…」

 と、言った…

 「…昔?…」

 「…ちょうど、今のアナタぐらいの年齢のときはね…」

 「…」

 「…でも、今は違う…」

 「…違う? …どう、違うんですか?…」

 「…おおげさに言えば、同士というか…昔から、いっしょに会社をやって来た仲間…まだ小さかったFK興産の前身の会社のときから、いっしょに働いた仲間…」

 私が説明すると、彼女が、ニヤッと笑った…

 罠にかかったと、思ったのだ…

 「…だったら、その同士の藤原さんが、持ち株の半分を五井に売却したのを、どう思うんですか?…」

 彼女が、笑いながら、聞いた…

 意地の悪い表情で、聞いた…

 「…それは、残念だわ…」

 私は、言った…

 「…残念…」

 「…それは、そうでしょう…私だって、本音では、五井に株を売らず、ナオキに、社長として、会社の経営再建を果たしてもらいたかった…でも、現実は、そんなに、甘くない…」

 「…甘くない?…」

 「…会社の経営が、うまくいかなくなれば、株を売ったり、あるいは、会社を売却したり、とにかく、なんとかして、現状を変えなければ、ならない…菊池さんも、子供ではないのだから、わかるでしょ?…」

 「…」

 「…だから、それを、思えば、親交のある、五井に、ナオキの持ち株の半分の株を売却して、経営指導してもらえるというのは、ベストな選択じゃなかったのかな?…」

 「…ベストな選択?…」

 「…だって、ナオキと伸明さんは、顔見知り…それまで、全然、見たことも、会ったこともない人間に、株を売却して、ズカズカと、会社に入って来られるより、全然マシでしょ?…」

 私は、笑って言った…

 すると、どうだ?

 菊池リンは、

 「…」

 と、黙った…

 「…」

 と、黙ったまま、悔しそうに、私を見た…

 実に、悔しそうに、私を見た…

 私の言い分に反論できないのが、悔しいのだろう…

 彼女は、お嬢様…

 五井家のお嬢様だ…

 生まれも育ちも、一流の生粋のお嬢様だ…

 だから、基本、他人に、言い負かされたりしたことがないに違いない…

 だから、気が強くなる…

 だから、傲慢になる…

 他人に、貶められたことがないからだ…

 さらにいえば、この菊池リンは、ルックスがいい…

 しかも、そのルックスは、私のような美人ではなく、愛くるしい…

 正直、その方が、私のような美人より、周囲に好かれる…

 いわゆる、ツンとすました美人より、愛くるしいルックスの方が、周囲から好かれるものだからだ…

 おまけに、その方が、敵が少ない…

 正直、美人は、大変…

 自分が、なにもしなくても、敵ができる…

 美人であることを、許せない女が、いるのだ…

 人間は嫉妬の生き物…

 勉強でも、ルックスでも、家柄でも、なんでもいい…

 自分より、優れた人間の存在を、許せない人間が、必ず、一定数いるものだ…

 正直、それは、その人間たちのコンプレックス=劣等感に他ならないのだが、彼ら、彼女らが、それに気づいているのか、否かは、わからない…

 ただ、それが、現実だ…

 が、

 おそらく、そんなコンプレックス=劣等感の塊のような人間たちですら、この菊池リンには、スルーするに、違いない…

 なぜなら、彼女の愛くるしい笑顔は、敵を作りにくいからだ…

 どうしても、可愛らしい相手には、怒ることは、できない…

 憎むことは、できない…

 これは、例えば、動物に例えれば、わかりやすい…

 誰もが、かわいらしいと思う動物…

 例えば、それが、ライオンでも、まだ生まれたてのライオンなら、小さくて、かわいらしい…

 そういうことだ…

 と、私が、そんなことを、考えていると、

 「…でも…でも、ですよ…綾乃さん…」

 と、目の前の菊池リンが、続けた…

 「…でも、なに?…」

 「…でも、もし、それで、藤原さんが、会社を追い出されるようなことが、あったら…」

 彼女が、言いにくそうに言った…

 ずばり、本音を言った…

 正直、この本音は、想定内…

 実に、想定内の質問だった…

 五井が、FK興産の株を買い取る…

 すると、正直、この後、大抵は、FK興産を完全子会社にする未来が、見えている…

 最初は、経営指導…

 FK興産の株の一部を買い取って、FK興産の経営に参加する…

 そして、いずれは、完全に自分のものにする…

 自分=五井の傘下に組み込む…

 それが、常套手段だからだ…

 だから、驚きは、なかった…

 なかったのだ…

 だから、

 「…もし、そうなれば、それは、それで、仕方がないわ…」

 と、私は、言った…

 「…仕方ない?…」

 「…弱いから、強いものの力を借りる…その結果、会社を乗っ取られる…言い方は、悪いけれども、軒先を貸して母屋を取られるのは、ありがちなこと…油断した自分が、悪いのよ…」

 私が、言うと、彼女は呆気に取られた…

 実に、呆気に取られた表情で、私を見た…

 それから、突然、

 「…それで、いいんですか? …綾乃さん?…」

 と、強い口調で、私に食ってかかった…

 思わず、私が、たじろぐほどだった…

 物凄い勢いで、私に食ってかかった…

 が、

 私は、彼女のペースに乗るわけには、いかなかった…

 彼女が、勢いづけば、勢いづくほど、私は、冷静にならなければ、ならない…

 そう、私は、肝に銘じた…

 そうしなければ、彼女のペースに巻き込まれるからだ…

 だから、気をつけなければ、ならない…

 余計に、注意深く行動しなければ、ならない…

 だから、

 「…それは、よくはないわ…」

 と、私は、冷静に言った…

 至極、落ち着いた口調で言った…

 「…でも、私風情が、どう言おうと、どうにか、なるわけじゃない…でしょ?…」

 私が、笑いながら言うと、彼女は、黙った…

 「…」

 と、黙って、ジッと、私を睨んだ…

 物凄い形相で、睨んだ…

 それから、

 「…綾乃さんは、冷たいんですね?…」

 と、言った…

 実に、強い口調で、言った…

 「…冷たい? …どういう意味?…」

 「…だって、もし、藤原さんが、追放でも、されたら、目も当てられないじゃないですか? …なんとか、しようとは、思わないんですか?…」

 「…それは、思うわ…」

 「…でしょ?…」

 「…でも、それは、思うだけ…」

 「…思うだけ?…」

 「…そう、思うだけ…だって、私が、どうにか、できるわけないでしょ?…」

 「…」

 「…だから、思うだけ…」

 私が、言うと、彼女は、黙った…

 「…」

 と、黙った…

 さすがに、彼女も、これ以上、どういっていいか、わからなかったに違いない…

 私は、そう、思った…

 これ以上、なにを言っても、私の心を、動かすことは、できない…

 そう、彼女は、確信したと、思ったからだ…

 が、

 そうでは、なかった…

 彼女は、奥の手を持っていた…

 切り札を持っていた…

 彼女は、一転、笑みを浮かべながら、

 「…そう言えば、綾乃さんは、藤原さんに会ってますか?…」

 と、いきなり、聞いた…

 私が、思っても、みないことを、聞いた…

 私は、即座に、

 「…会ってないわ…」

 と、答えた…

 彼女の罠にかかった瞬間だった…

 私のその返答を聞くと、

 「…それは、おかしいですね…」

 と、彼女は、私をからかうように、笑った…

 私は、彼女の物言いに、カチンときた…

 だから、つい、ケンカを買うように、

 「…おかしい? …なにが、おかしいの?…」

 と、言ってしまった…

 つい、彼女の誘った罠に、乗ってしまった…

 「…だって、社長と綾乃さんは、恋人同士だったんでしょ? …それが、連絡がないなんて…」

 彼女が、痛いところを突いた…

 彼女、菊池リンが、痛いところを突いた…

 私が、もっとも、気にすることを、突いた…

 それから、さらに、彼女、菊池リンが、

 「…でも、綾乃さん…」

 と、聞いてきた…

 「…なに、菊池さん?…」

 「…綾乃さん…社長と仲が良いなら、当然、社長が持つ、FK興産の株を売却する際に、社長から、相談されたんでしょ?…」

 彼女が、笑いながら、聞く…

 これは、想定外…

 まさに、想定外の質問だった…

 そして、それは、さらに、私の傷口に塩を塗る行為でもあった…

 ナオキが、自分の持つ、FK興産の株を五井に、売却した後も、私に、一切の連絡がない…

 さらに、株を売却する際にも、事前の相談もない…

 これは、痛い…

 私は、おおげさに言えば、ナオキと、一心同体…

 FK興産を創業してから、ずっと、この十年以上、ナオキと私は、二人三脚で、やって来た…

 FK興産を運営してきた…

 そんな自負がある…

 が、

 それらの行為は、その自負を踏みにじむ行為だった…

 私に、一切ナオキが、連絡をよこさないのは、私のこれまでの行為を、おおげさに、言えば、認めない行為だった…

 私を否定する行為だった…

 少なくても、私は、そう見た…

 だから、それを、他人に指摘されるのは、痛かった…

 とりわけ、この菊池リンに指摘されるのは、痛かった…

 なぜなら、彼女は、敵…

 この寿綾乃の敵に違いないからだ…

 その敵に、自分の痛いところを、突かれるのは、まるで、傷口に塩を塗るようなもの…

 これまで、隠してきた傷口に、塩を塗るようなものだった…

               
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