第87話

文字数 4,653文字

 そして、私が、そんなことを、考えていると、

 「…いや、おしゃべりが過ぎました…」

 と、眼前の長谷川センセイが、告げた…

 その言葉で、私は、現実に返ったというか…

 現実に、引き戻された気がした…

 「…診察を始めましょう…服を脱いでください…」

 「…ハイ…わかりました…」

 それから、診察が始まった…

 いつもと、同じく診察が始まった…


 そして、診察が終わると、

 「…問題は、ありませんでした…」

 と、長谷川センセイが、短く言った…

 ぶっきらぼうに、言った…

 私は、その言い方に、疑問を持った…

 なんだか、怒っているような…

 そんな感じがしたからだ…

 だから、

 「…センセイ…なにを、怒っているんですか?…」

 と、聞いた…

 聞かずには、いられなかった…

 すると、長谷川センセイは、動揺したというか…

 当惑した表情になった…

 それから、ちょっと、間を置いて、

 「…怒っているのは、自分自身に、です…」

 と、ぶっきらぼうに、言った…

 恥ずかしそうに、言った…

 「…自分自身…」

 思いも、よらない言葉だった…

 「…どうして、自分自身に、怒っているんですか?…」

 「…しゃべり過ぎました…」

 「…エッ?…」

 「…寿さんが、美人だから、つい…」

 と、長谷川センセイが、顔を赤らめて、釈明する…

 私は、一瞬、どう対応しようか、悩んだが、

 「…センセイ、お上手ですね…」

 と、言った…

 「…お上手って?…」

 「…もうすぐ、33歳になる、オバサンを持ちあげても、なにも、ありませんよ…もっと、若い女を、口説かなきゃ…」

 私が、言うと、長谷川センセイが、面食らった表情になった…

 だから、

 「…でも、それを、言えば、私も同じです…センセイと同じです…」

 と、告げた…

 「…どう同じなんですか?…」

 「…若い男に、弱い…」

 私が、笑いながら、言うと、長谷川センセイが、呆気に取られた表情になった…

 「…歳を取れば、誰でも、同じですよ…センセイ…」

 「…同じ…ですか?…」

 「…自分にないものを、相手に求めます…若さを求めます…」

 「…」

 「…背が低い男が、モデルのような背の高い女に、憧れたり、真逆に、背の低い女が、背の高い男に憧れたり…誰もが、自分にないものを、相手に、求める…それと、同じです…」

 私は、笑った…

 すると、長谷川センセイは、呆気に取られた表情をしていたが、すぐに、

 「…そうですね…寿さんが、おっしゃる通りですね…」

 と、笑った…

 それを、見て、

 「…お互い、歳を取りたくないものです…」

 と、続けた…

 「…確かに…」

 笑いながら、長谷川センセイが、応じる…

 「…では、これで、失礼します…」

 私は、椅子から、立ち上がった…

 「…ハイ…今日は、ご苦労様でした…」

 長谷川センセイが、告げる…

 が、

 診察室を出ながら、

 …ホントにそうか?…

 と、思った…

 思わざるを得なかった…

 なにが、

 …ホントに、そうなのか?…

 当たり前だが、私が、美人だから、つい、おしゃべりした…

 そんな話が信じられるわけがなかった…

 むしろ、わざと、五井家の話をした…

 わざと、五井家の内部の事情を私に話した…

 そう、考えるのが、正しいのでは、ないか?

 そして、そのおしゃべりが、過ぎた…

 つい、言っては、いけないことを、言ってしまった…

 しゃべり過ぎて、しまった…

 それに、気付いたから、長谷川センセイは、

 「…おしゃべりが、過ぎた…」

 と、自嘲気味に言ったのでは、ないか?

 そう、思った…

 もちろん、確信はない…

 単なる憶測に過ぎない…

 が、

 私は、そう、思った…

 そう、思ったのだ…


 そして、家に帰った…

 全力で帰った…

 全力で、帰ると、言うと、おおげさに聞こえるかも、しれないが、事実だった…

 私は、癌持ち患者…

 体調が、いいときは、なんら、問題がない…

 健常者と同じ…

 健常者=普通のひとと、同じだ…

 が、

 悪いときは、とんでもないことになる…

 さすがに、オーストラリアで、癌の治療を行ってから、だいぶ、調子は、良くなったが、それでも、全快したわけではない…

 癌が、小さくなっただけ…

 それだけのことだ…

 だから、全力で、帰った…

 全力で、家に帰った…

 そうしなければ、自宅に帰れないというか…

 あくまで、気持ちの問題だが、事実、そうだった…

 これは、誰もが、病気になってみれば、わかる…

 あるいは、歳を取れば、わかる…

 私のように、三十代前半ぐらいなら、普通は、なんの問題が、ないが、五十代の後半、あるいは、六十歳以上になれば、男女を問わず、なんらかのカラダの不調を抱えているものが、多い…

 そんなカラダに不調を抱えているものは、皆、ちょっとしたことで、カラダの調子がおかしくなると、

 「…アレ? …大丈夫か?…」

 とか、

 「…このままで、行けるか?…」

 とか、考える…

 それは、ちょうど、故障しがちな古いクルマに乗っているのと、いっしょ…

 いつも、ちょっとしたことで、クルマが、壊れる…

 それと、いっしょ…

 実に、似ている…

 そして、クルマの場合は、買い替えれば、いいが、自分のカラダとなると、そうは、いかない(苦笑)…

 いつ、おかしくなるか?

 内心、怯えながら、過ごすことになる…

 内心、ビクビクしながら、過ごすことになる…

 晩年の母が、そうだった…

 死ぬ前の母が、そうだった…

 病床で、母は、そんな話を私に何度もしたが、まだ十代半ばの私は、ピンとこなかった…

 さすがに、若すぎたからだ…

 もちろん、母の言うことは、わかる…

 が、

 実感がない…

 経験してないからだ…

 これが、経験してくれば、違ってくる…

 今の私のように、経験してくれば、違ってくる…

 そういうことだ…

 これは、誰でも、同じ…

 どんなことも、同じだ…

 経験してみなければ、わからない…

 ホントに、そんなことが、この世の中にあるのか?

 と、思うことが、実は、この世の中には、無数にある…

 至るところにある…

 そういった話は、世間に、無数にある…

 その一つが、生前、母が、話してくれたバブル時代のこと…

 そのときは、日本中が好景気で、日本中が、賑わっていた…

 すると、母の勤めていた会社でも、明らかに、社員の質が、落ちたそうだ…

 バブル時代に入社した人間と、それ以前に入社した人間とは、一目で、社員のレベルが、違ったと、言っていた…

 レベルというのは、偏差値…

 具体的に言えば、最低でも、大学は、偏差値60以上の大学でないと、採用しなかったのが、偏差値50でも、採用したり…

 そして、その数もまた、それまでの、入社年次の人間の2倍、3倍と多く、入社したらしい…

 要するに、景気が、いいからだ…

 だから、どこの会社も、多くのひとを採用する…

 すると、どうだ?

 これまでの採用基準では、ひとが、採れない…

 ひとが、採用できない…

 どこの会社も、多くのひとを、採用するからだ…

 だから、結局、入社の基準を下げる…

 偏差値60では、採用できないから、偏差値50に下げて、ひとを募集する…

 そういうことだ…

 そして、それを、見れば、一目見て、この会社の採用レベルが下がったな、と、気付くものも、いれば、それが、さっぱり、わからないものも、またいる…

 そして、それが、わからないものの大半は、他でもない、バブル入社組…

 つまり、景気がいいときに入って来た当事者たちだった…

 母は、それを、見て、生まれて初めて、おおげさに言えば、人間のレベルというか…

 はっきり言えば、持って生まれた能力の違いを実感したそうだ…

 これまでは、能力といえば、どこそこの高校を出た…

 どこそこの大学を出た…

 それで、あの男は、凄い…

 あるいは、あの女は、すごいと、単純に思っていたそうだ…

 これは、学校のクラスでも、そう…

 クラスでも、同じだ…

 要するに、そのクラスで、成績がいいから、頭がいい…

 そのクラスで、成績が悪いから、頭が悪い…

 と、その程度の認識だったそうだ…

 が、

 バブル時代に、入社した人間は、それまで、会った人間とは、まったく、違ったそうだ…
 
 頭が、悪いのに、上昇志向が、強い…

 おまけに、性格も悪い…

 そんな人間たちが多かったそうだ…

 もちろん、全員が、そうではないが、なにしろ、それまでの入社年次の2倍、3倍と、入社している…

 だから、数が多いから、嫌が王にも目立つ…

 そういうことだ…

 そして、母は、ことあるごとに、幼い私に、そんなことを、言って聞かせた…

 今、振り返ってみれば、母は、随分前から、自分の寿命が長くないことを、知っていたのかも、しれない…

 もちろん、当時は、健康体…

 病気のびょの字もなかった…

 が、

 人間には、第六感というものがある…

 確証はないが、なんとなくわかるということがある…

 虫の知らせというか…

 母自身は、気付いてないかも、しれないが、自分の命が長くないから、私といる時間が短い…

 だから、少しでも、自分の経験を、私に伝えたかったのではないか?

 今になってみれば、そう、思う…

 母と私は、当たり前だが、別の人間…

 当然、同じくらい長く生きても、育った環境が、違う…

 育った時代が、違う…

 が、

 人間の本質は変わらない…

 人間の本質が、時代や環境で、変わるものでは、ないからだ…

 だから、私に伝えたかった…

 少しでも、自分の経験を伝えたかった…

 そういうことだろう…

 そして、その母のアドバイスは、役に立った…

 とりわけ、FK興産で、事実上、ナオキといっしょに、会社を運営しているときに、役に立った…

 FK興産は、今は、従業員千人だが、最初は、数人程度…

 吹けば飛ぶようなチンケな会社だった(笑)…

 だから、最初は、入社してくる人間のレベルも低い…

 大きな会社ではないのだから、優秀な人間は、見向きもしないからだ…

 だから、どんな人間か、観察する…

 学歴は、高くなくても、仕事は、どうだ?

 とか、いう話ではなく、人間性を、チェックした…

 それが、母の教えだったからだ…

 頭の良し悪し、ルックスの良し悪しは、誰にもあるが、人間性が、劣悪では、ダメ…

 どこの職場でも、嫌われる…

 それが、母の口癖だった…

 だから、私は、人間性をチェックした…

 仕事は、そこそこ、できても、常にひとの悪口を言っていたり、成果は出せても、陰でなにをやっているか、わからない人間は、ダメ!

 人間性に問題があるからだ…

 そんな人間を入社させれば、最初は、いいが、いずれ、問題を起こす…

 それが、母の口癖だった…

 だから、私は、その母の口癖で、ひとを、見た…

 人間性を見た…

 そういうことだ…

 そして、たぶん、そのおかげで、FK興産は、急成長した…

 仮に、そんな人間が、入社しても、うまく、辞めさせていたからだ…

 社長のナオキに、それとなく、仄めかして、辞めてもらった…

 そのおかげで、会社に、そんな人間はいつかなかった…

 きっと、それが、FK興産の成長の秘密だろう…

 誰が見ても、嫌な人間は、誰もが嫌…

 そんな人間を社員として、会社で、雇っていれば、真面目な人間は、辞めてしまう…

 そういうことだ…

 だから、良かった…

 母の教えに従って良かった…

 今、振り返れば、つくづく、そう思う…

 そう、思うのだ…

 そして、そんなことを、考えながら、自宅のマンションに戻ると、マンションのエントランスに、見知った顔の女性がいた…

 菊池リンだった…

               

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