第29話

文字数 4,563文字

 「…あら、寿さん…お元気?…」

 と、ユリコが、言う…

 まさに、王者の風格だった…

 余裕の笑みだった…

 きっと、私を追い込んだ自信からだろう…

 この私、寿綾乃を追い込んだ自信からだろう…

 兵糧攻め…

 この私に力を貸す人間を、私から、遠ざける…

 藤原ナオキも、諏訪野伸明も、遠ざける…」
 
 それが、できたと、思ったのだろう…

 そして、それができた今、私の周りに、援助者は、誰もいない…

 私、寿綾乃に手を差し出す者は、誰もいない…

 だから、時間が経てば、私が、自滅する…

 それが、わかっているから、勝ち誇った顔をしているのだろう…

 それに、気付くと、余計に、悔しくなった…

 なにが、あっても、この女にだけは、負けまいと、誓った…

 なにが、あっても、この女にだけは、頭を下げまいと、誓った…

 だから、

 「…おかげさまで、元気です…」

 と、精一杯の笑顔で、言い返した…

 ホントは、さっきまで、体調が悪かったが、それが、ウソのように、良くなった…

 一瞬だが、この女にだけは、負けまい…

 この女にだけは、どんなことがあっても、弱みを見せまいと、誓ったからだ…

 だから、この一瞬だけは、元気になった…

 体中に、アドレナリンが、駆け巡った…

 私の怒りが、駆け巡った…

 だから、元気になった…

 あっちが、痛い…

 こっちが、痛い…

 と、いつも、泣きを入れていた自分が、ウソのようだった…

 まるで、ウソのように、痛みが、消えた…

 と、までは、言わないが、気にしなくなったというのが、正しい…

 私は、精一杯の笑みを浮かべ、目の前のユリコを見た…

 見たのだ…

 が、

 ユリコは、そんな私の心の内を見透かしたのか、

 「…あら…それは、良かった…」

 と、笑顔で、返した…

 余裕の笑みだった…

 「…さすが、寿さん、しぶといわね…」

 と、これも、笑顔で、付け加えた…

 「…しぶとい? …どういう意味ですか?…」

 「…だって、寿さん、カラダが、悪いんでしょ?…」

 この質問には、答えなかった…

 答えたくなかったからだ…

 私が、答えないのを、見て、

 「…図星ね…」

 と、笑った…

 が、

 私は、当たり前だが、笑えなかった…

 それから、ユリコが、

 「…世の中には、報いというものは、たしかに、あるものね…」

 と、しんみりした口調で、言った…

 「…報い? …どういう意味ですか?…」

 「…私の夫と息子を、私から、奪った報い…」

 ユリコが、わざと、ゆっくりと、言った…

 薄ら笑いを浮かべながら、言った…

 が、

 目は、全然、笑ってなかった…

 当たり前だが、怒っていた…

 メラメラと怒っていた…

 私は、それを、見て、むしろ、嬉しかった…

 ユリコは、策士…

 だから、滅多に、素直に、感情を出さない…

 ユリコが、私を憎んでいるのは、わかっている…

 が、

 私の目の前で、怒りを露わにすることは、滅多になかった…

 それが、今、ハッキリと、怒りを現した…

 だから、嬉しかった…

 それは、おそらく、自分が、勝ったと、思ったからだろう…

 私を、十分、追い込んだと、思ったからだろう…

 事実、その通りだが、それを、認めるわけには、いかなかった…

 断じて、認めるわけには、いかなかった…

 だから、

 「…その節は、申し訳ありませんでした…」

 と、言って、ゆっくりと、頭を下げた…

 そして、ゆっくりと、頭を上げた…

 それから、

 「…でも、世間では、夫が、不倫をすると、必ず、妻が、可哀そうという風に、言われますが、どうでしょうか? …」

 と、言ってやった…

 途端に、ユリコの形相が、変わった…

 「…どういう意味?…」

 と、鬼のような形相に変わった…

 「…いえ、奥様に、問題は、なかったのか?と…」

 わざと、言ってやった…

 ユリコの表情が、凍り付いた…

 まるで、表情が、面白いように、凍り付いた…

 だから、さらに、追い打ちをかけるように、

 「…いえ、これは、あくまで、一般論です…決して、特定の人物を言っているわけでは、ありません…」

 と、付け加えた…

 が、

 その話は、誰が聞いても、ウソ…

 ウソだった…

 誰が、聞いても、ユリコの話をしていると、思ったに、違いない…

 当たり前だが、ユリコも、すぐに、気付いた…

 が、

 怒鳴ることは、できなかった…

 なにしろ、スーパーだ…

 周囲に、それなりに、ひとがいる…

 それが、わかっているのに、怒鳴るバカは、
いなかった…

 まして、ユリコは、バカではない…

 だから、怒鳴ることは、ない…

 それが、わかっているから、今、ユリコに、反撃したのだ…

 ユリコが、この場で、私を攻撃できないと、わかっているから、攻撃したのだ…

 我ながら、卑怯…

 卑怯、極まりなかった(苦笑)…

 ユリコは、大声で、怒鳴りたかったに、違いない…

 が、

 それは、できない…

 周囲の目があるからだ…

 だから、拳を力一杯握り締め、グッと、唾を飲み込んだ…

 必死になって、自分の感情を抑え込んだ…

 それから、

 「…だから、癌にかかるのよ!…」

 と、一言、捨て台詞を吐いて、私の元から、立ち去った…

 急いで、駆け去った…

 さすがに、この場で、ケンカは、できないからだ…

 できるのは、せいぜい、皮肉を言うことぐらい…

 こちらも、それが、わかっているから、わざと、嫌味を言った…

 だから、考えてみれば、私は、ズルい…

 ズルい女だった(苦笑)…

 が、

 気が、スッキリしたのは、事実だった…

 本当なら、誰が、考えても、私が、悪い…

 たしかに、あのユリコから、夫のナオキや、息子のジュン君を盗った、私が悪いに決まっている…

 が、

 どうしても、あのユリコに頭を下げるのは、嫌だった…

 おおげさに言えば、それは、ユリコも、同じだったに違いない…

 夫や息子が、私に盗られた…

 そんなことは、なんの関係もなく、私が嫌い…

 ただ、嫌い…

 私の存在自体が、許せない…

 そういうことだ…

 これは、世の中、私に限らず、誰もが、いる可能性が高い…

 天敵がいる可能性が高い…

 ただ、それが、私にとっては、ユリコ…

 ユリコにとっては、私だったというだけだ(笑)…

 ともに天を戴くことはない…

 そういう仲だ…

 決して、同じ部屋の空気を吸うことはない…

 そういう仲だ…

 互いに、互いの存在が許せない…

 そういう仲だった(苦笑)…


 結局、その日は、ユリコと、別れてから、スーパーで、買い物をして、自宅のマンションに、戻った…

 実は、ユリコと、言い合いになりかけたときに、数人の客が、私とユリコのやりとりに、気付いた様子だった…

 明らかに、関心を持って、私とユリコを見ていた…

 決して、大きな声は、出していない…

 しかしながら、その内容は、誰が見ても、ケンカ…

 ケンカに他ならないからだった…

 だから、私とユリコが、争っているのに、気付いて、見た…

 当たり前のことだ…

 そして、ユリコも、また、私同様、数人の客が、私とユリコのやりとりに、気付いて、見ていたことに、気付いたに違いない…

 抜け目のない、あのユリコのことだ…

 どんなときも、周囲の目を気にしている…

 自分が、いつも、どういうふうに、見られるか?

 考えているからだ…

 だから、人の目を異常なまでに、気にする…

 そんなユリコが、他人の視線の前で、自分の感情を爆発させるわけは、なかった…

 いかに、悔しくても、自分の感情を素直に、爆発させるわけが、なかった…

 もし、素直に、感情を爆発させるので、あれば、周囲に誰も、いないとき…

 私とユリコだけのとき…

 あるいは、周囲に、ひとが、いても、感情を、素直に、爆発させるのは、自分が、有利になるとき…

 自分が、誰かと、言い争いになったとき、周囲の人間が、皆、自分の味方になると、確信したとき…

 そのときだけだ…

 つまりは、どんなときも、自分が、不利になると、考えれば、決して、素直に感情を爆発させない…

 ある意味、役者に近い…

 常に、自分が、周囲から、どう見られているか?

 考えている…

 それを、常に、念頭に入れて、行動する…

 が、

 そこまで、考えて、ハタと、気付いた…

 私は、これまで、常に、そんな行動を取る、ユリコをただ、計算高い女と見ていたが、そうでは、ないかも、しれない…

 そう、気付いた…

 案外、気が小さいのかも、しれない…

 そう、気付いた…

 なぜなら、気が小さいゆえに、常に周囲の目を気にする…

 常に、自分が周囲から、どう見られているか?

 気にする…

 そういうことだからだ…

 だから、普通の人間なら、気にならないことも、気になる…

 ある意味、ナーバス…

 ナーバス=神経質と、言い換えても、いい…

 が、

 他人が、気にしないことを、気にするということは、どうだろう?

 やはり、神経質というより、気が小さいと、いう言葉が、正しいのではないか?

 私は、思った…

 そして、そう、思ったとき、思わぬ、可能性に気付いた…

 ずっと、以前、ユリコが、夫のナオキと、息子のジュン君を捨てて、失踪した件だ…

 あのとき、なぜ、ユリコが、突然、失踪したのか?

 今もって、わからない…

 ユリコが、真相を語らないからだ…

 が、

 もしかしたら?

 もしかしたら、ユリコは、ナオキと、ジュン君を見捨てたのではないか?

 ふと、その可能性に、気付いた…

 つまりは、ナオキは、決して、成功しないと、思ったのでは、ないか?

 ナオキが、事業を始める上で、当然のことながら、借金をしている…

 銀行から、多額の借金をしている…

 それが、返せないと、思ったのではないか?

 だから、それに、巻き込まれることを、避けるために、逃げ出した…

 その可能性がある…

 結果的には、ナオキは、失敗どころか、大成功をした…

 テレビにも、出演して、世間にも、一定の知名度を得た…

 しかしながら、それは、あくまで、結果…

 会社を創業当時のナオキは、成功どころか。日々のやりくりで、精一杯だった…

 ただ、好きなことを、仕事に、しているだけ…

 それだけだった…

 その先に、成功が、待っているとは、とても、思えなかった…

 ただ、いつかは、会社を大きくして、成功したい…

 そんな夢を持っているに、過ぎなかった…

 だから、とても、成功した現在の姿は、当時、想像すら、できなかった…

 それを、見て、渦中のユリコは、とても、成功どころではないと、考えたのかも、しれない…

 それゆえ、逃げ出した…

 逃げ出した=失踪したのかも、しれない…

 そういう見方も、できる…

 そして、あの当時、ユリコにとって、大切なのは、ジュン君だけ…

 そのジュン君は、私になついていた…

 おまけに、当時、私は、ナオキと男女の関係にあった…

 だから、私を憎んだに違いないが、同時に、簡単に、ナオキと別れるきっかけに、なったのかも、しれない…

 ナオキは、他人…

 いつでも、別れることが、できる…

 問題は、ジュン君だけ…

 そのジュン君は、私になついているから、自分が、失踪すれば、私が、面倒を見ると、考えたのかも、しれない…

 だから、もしかしたら、あのとき、ユリコが、失踪したのは、ただのリスク回避…

 ナオキが、失敗するのを、見越して、ナオキとジュン君を見捨てて、ただ、逃げただけ…

 それが、真相だったのかも、しれなかった…

               

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