第8話

文字数 2,516文字



「畜生、魚め!」

「おい、久太郎。そんなにカリカリしているから魚に馬鹿にされるんだ。それにこれからお前に釣られてやろう、と思っている魚がいても、殺気を感じて逃げちゃうぞ。もしあんな奴に釣られたら食べられてしまうかも、と思って」

 久明は笑った。

「もう! 父ちゃんまで!」

「ははは。でも、もっとのんびり構えていた方がいいぞ。どうせこの時間帯はあまり釣れないものなんだよ」

「でも超初心者のジャイアンまで釣っちゃったんだよ。悔しいじゃん」

「僕のは魚が勝手にくっついちゃったから、やっぱりビギナーズラックだったんだよ」

「隼人君は謙虚だねえ。久太郎だったら、オレは何をやっても上手いからな、って自慢しそうだ」

「あーあ、オレにもジャイアンに釣られたような超間抜けな魚が来ないかな……。って、来た!」

 突然やってきたアタリに、久太郎は慌てて竿をあおった。ハリ掛かりした魚がパシャパシャとはかない抵抗をする。リールを巻くとあっけなく寄ってきた。

「釣れたぜ! 小さいけど……」

 久太郎は苦笑いしながら、二十センチ程の大きさで細身のブラックバスを水中から抜き上げ、二人に見せた。

「写真でも撮るか?」

 スマートフォンを取り出しながら、久明は久太郎に訊いた。

「うーん、なんかこんなの写真に撮ったら恥ずかしいからやめておく」

 久太郎は獲物のブラックバスの口から鈎を外してやり、

「バイバイ、大きくなったらまた釣れてくれよ」

 と言いながら、両手でそのバスを水の中に浸けて逃がしてやった。

「これでみんな一匹ずつ釣ったわけだね。良かった、良かった」

 久太郎も釣れて、隼人は少しほっとした。

「うーん、オレのはメダカみたいな奴だけどね」

 久太郎は帽子をとって、情けなさそうに坊主頭を掻いた。

「一匹は一匹だよ。でももう一匹釣りたいな、今度はちゃんと、水の中で魚釣りらしく」

「よし、ジャイアン。どっちが先に釣るか、勝負だ!」

「待て待て。実はこの奥にちょっとした滝があるんだ。お前たちが勝負を始める前に、見に行ってみよう」

 そう言いながら、久明は舟を動かし始めた。



 しばらく消音室の中のように静まり返っている渓谷を進むと、十メートルほどの高さの滝が現れた。梅雨明けしてからずっと晴天続きで降水量がゼロなので、滝から落ちる水はないに等しく、苔の生えた岩肌をかろうじて濡らしている程度である。小さな滝壺では、ハヤの稚魚とおぼしき小魚が数匹泳いでいる。

「これが滝? すっごいチョロチョロ。ほら、崖がちょっと濡れてるだけじゃん」

 久太郎は華厳の滝のように豪壮なものを想像していたらしく、失望した声を出した。隼人も態度には出さないが、無言で滝を眺めているところを見ると、久太郎と同感なのであろう。

「ここのところずっと雨が降っていないからなあ。普段は結構水量も多くて、なかなか迫力があるんだけど、残念だな」

 久明も少しがっかりした。せっかく子供たちに面白いものを見せてやろうと思っていたのだが。

「あ、あんな所にルアーが引っ掛かってる!」

 久太郎が叫んで指差した方には、滝の脇に生えた一株の草があり、それに黄緑色のルアーが一つ引っ掛かっている。

「ねえ、父ちゃん。あれ取れないかなあ」

「あの高さじゃ無理だろう」

「無理かなあ。でもなんであんな所に引っ掛けたんだろう。もしかしてオレより下手クソな奴だったのかな」

「それより、おじさん、あれ。ずいぶん変な雲が出てきた」

 隼人は滝の上に生える木の隙間を指差した。

 谷間から見える狭い空には、いつの間にかさっきまでの青空は消え失せて、怪しげな灰色っぽい雲が拡がりつつあった。

「ああ、怪しい雲が出てきたね。今朝の天気予報では、降水確率は十パーセントでにわか雨の可能性は低いと言っていたのだが」

「そういえば、さっき白い入道雲は出てたけど……。雨になるのかな」

 久太郎も空を見上げて、少し不安そうな声を出した。

 久明はスマートフォンを取り出し、気象庁のアプリを起動した。ドップラーレーダーの画面を見ると、亀山湖の西方にある高宕山の辺りが赤くなっている。どうやらその辺りで小さな雨雲が発生しているらしい。

「西の方でちょっと降り出しているようだ。みんな釣れたことだし、もう引き揚げた方が良さそうだ」

 久明は他人の子を預かっているので、常よりも慎重になっていた。もしも自分ひとりであったなら、この男は多少の暴風雨にあたったくらいで釣りを止めたりはしないだろう。

「勝負はこれからなんだけどな。でもしょうがない、濡れるのも嫌だし、また今度にするか」

 久太郎は残念そうな顔をして、隼人に言った。

 押切沢を出て本湖に入ると、灰色の雲は空一面に拡がっているのが分かった。

 雲は急速に厚みを増しているらしく、色は白っぽい灰色から鉛色に変わり、辺りも見る見る薄暗くなってきた。

「これは来るな」

 久明は大気が急速に湿ってきたのを感じ取った。風は今までの熱風が嘘のように冷たくなり、遠雷も聞こえ始めた。

「早めに気が付いて良かったね」

 久太郎は、雷の鳴る方角を見極めようとして首を回しながら言った。

 ほどなくボートハウス松本の桟橋に着いた。桟橋には、出航した時に残っていたものの倍以上のボートが係留されている。その時にはなかった白鳥ボートも戻ってきている。

「よし、着いた。さっさと荷物を片付けてしまおう」

 久明は体に冷たい風を感じながら子供達に言った。軽いものは二人に任せて、船外機やバッテリーなどの重量物も、備え付けのウインチで引き上げるなどという悠長なことはせずに、一度に担いで階段を一気に駆け上がる。危急の際には馬鹿力が出る。

 事務所前の駐車場に停まっていた釣り客の車は、すでにほとんどなくなっていた。残っているのは久明のステップワゴンと、隣の乱暴な停め方をしている黒いオフロード車だけである。

 撤収作業が完了してボート屋の事務所に挨拶に行き、マスターがくれたサービス品の缶ジュースを抱えて車に乗り込んだ時に、ポツリと一粒の雨がフロントガラスに落ちた。

「間に合った」

 と、全員が思った時、稲妻が光り轟音が鳴り響いて、それを合図に天と地が引っくり返るような勢いで大量の雨が落ちてきた。


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