第14話

文字数 2,390文字


 その喚声が止まぬうちに、龍崎五郎太が三人張りの強弓を微かな仰角を付けてキリキリと引き絞り、ひょい、と矢を放った。

 まだ若年ながらすでに熟練の射手である五郎太が放った矢は、シューッと音を立てて一町余りも飛んでいき、馬上で采配を振り指揮していた部隊長風の武者の首筋に当たった。仰天した表情で(やがら)を掴んだまま落馬したその武者は、両脇を従者に担がれて後方に搬送されていく。

 敵は柵に熊手を引っ掛けて引き倒そうともしたが、矢や礫の集中攻撃を受けて死傷者が続出し、上手くはいかない。久明はかねてから城下の職人に作らせておいた、巨大な弓のような巨石用の投石器も投入した。発射された大石は唸りを上げて敵兵の群れを目がけて飛んでいき、土煙を上げて敵陣に落下して、十数人を負傷させた。

 そのころには背後の本城から続々と援軍が到着し、義堯の館や久明の屋敷の周りに取り付いている敵兵に向けて矢を雨のように射始める。太陽が西の稜線に落ち始めた頃に館の搦め手から逆襲部隊が出撃して、ようやく敵は退却した。

 一刻あまりの攻防で、味方で浅手を負った者は若干名出たが、死者はいない。久明の鎧には流れ矢が数本刺さっているがいずれも刺さりは浅く、怪我はない。

 城兵が放った矢や礫に当たって戦死した敵兵は、そのまま置き去りになっている。城兵は武器を奪い武具を剥ぎとった後、下帯だけになった数十の戦死体を川原に持っていき、そこに捨てた。夜になれば敵が回収するだろう。



 その後も北條軍は連日のように攻撃を仕掛けてきた。氏康は景虎が関東に現れる前に、なんとか片を付けてしまいたいと思っているのであろう。

 丘陵の背後に大きく迂回して久留里城の北側の崖に取りつき、尾根に登って搦め手を攻めようとする部隊もあるが、大堀切や切岸に行く手を阻まれて効果がない。敵が発する矢や鉄炮玉は城兵を傷付ける前に力を失い、むなしく谷底に落下していく。敵は時おり義堯館などに夜襲もかけてくるが、その都度撃退されて自陣に退却する。

 敵が攻撃を開始してから十日が過ぎたころ、防戦に余念のない久明のもとに本営から使番が降りてきた。越後へ送った使者が帰還したので、これから軍議を催すという。

 采配を五郎太に預け、久明が実城の本営に登ると、そこには城内の主要部将の他に、小田喜城主の正木大膳亮時茂や小糸城主の秋元小次郎義久、千本城で籠城中の里見太郎義舜がいた。

「越後にやっていた者が先ほどたち帰った。長尾景虎は、八月二十九日をもって麾下八千を率いて関東に向け出陣すると決めたようじゃ」

 義堯は一同をぐるりと見渡した。参加者の中からは、「八千……」、という声とため息が漏れた。数万、といううわさが流れていた割に存外少ないな、ということであろう。

 久明は、失望の色を顔に出している部将たちに言った。

「越軍八千というのは、少ないようでその実少ない数字ではありません。景虎は関東管領上杉憲政殿を伴っていますから、上州の上杉家家臣たちもこれに合流するに違いありません。さすれば、これは何万もの兵力に膨れ上がることは間違いありません」

「そうか。それなら話は別じゃ」

 久明は軍議の参加者から漏れる安堵の声を聞きながら、別のことを考えた。

(ここまでは後世に伝わる史実通りに事は進んでいる。しかし問題はここからだ。今後の対応次第で歴史は変わる)

 今回の籠城戦や北條軍の撤退時に、大規模な戦闘が発生したかどうかは分からない。

 一部の軍記物にはそれと思わせる記述がないこともないが、令和時代まで残っている一次史料にはそのような記録はなく、合戦の後に大名が手柄を立てた家臣に対して発行する感状の類も、この戦に関しては発見されていないようである。

 おそらく小競り合い程度の戦闘はあっただろうが、戦力に劣る里見家は籠城戦に徹し、北條軍の退却時にも総力を挙げて追い打ちをかける、ということはしなかったのだろう。

 しかし今の義堯は、史料上で窺える消極的な義堯の姿とは違う。

「おっつけ敵陣にも景虎出陣の知らせは入るであろう。すれば氏康は兵を退いて武蔵へ転進する。この時こそが、か奴の運が尽きる時となろう」

 義堯は、例の低いがよく通る声で静かに語った。全員無言で頷き、次の言葉を待った。

「今から安房の各将と上総の勝浦や万木に陣触れを出す。千葉や原の一党と長柄郡内で対峙しておる長南武田には、千葉等が退き次第こちらに転戦するよう命ずる。南は小糸、西は小田喜に集結し、総員集まったらかねてより申し合わせておる場所で待機せよ。旗を巻いて身を伏せ、くれぐれも敵の物見などに察知されぬよう気をつけよ。氏康撤退の気配が濃厚になった時、合図の狼煙を上げる」

 義堯は、小田喜城の城主と小糸城の主将が十分に理解したかを確認するために、言葉を切った。

「狼煙が上がったら、我ら小田喜と勝浦、万木が受け持つ右翼軍は末吉から賀恵渕(かえぶち)に押し出す。安房と小糸衆の左翼軍は法木から戸崎じゃな」

 正木時茂は、壇上に広げてある絵図を見ながら言った。

「さよう──」

 義堯は目で頷き、絵図の中央に置いてある、中軍と書かれた木片を扇子で打った。

「恐らく氏康は中軍の中ほどにおる。大膳と小次郎は、敵の前軍後尾から中軍の頭あたりをめがけて突き進め」

 左右両翼の司令官となるはずの正木時茂と秋元小次郎はゆっくりと、しかし大きく頷いた。

「太郎は狼煙を見たら、千本城の兵を一人残らず率いて久留里と合流し、敵の退却と同時に追い打ちをかける。良いか」

「はっ!」

「我らの興亡はこの一戦にあり。全軍我が采配に従え。抜け駆け無用、自儘に動く者は叩き斬る。数で勝る北條と渡り合い、勝ちをものにするには、これしかない」

 義堯は一同の目を睨みつけた。

 久明はその気迫に、義堯が本気で氏康を滅ぼす気になっていることを知り、この人物の為ならば、命を捧げてもいいと思った。


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