第13話

文字数 2,675文字



 弥七郎の声は震えている。ただ頭を下げるだけでは足りないと思ったのか、カエルのように地面に這いつくばった。

 戦国時代の人々は、後世の去勢されて大人しくなった日本人からは想像がつかないほど、感情の起伏が激しく、喜怒哀楽がはっきりしている。昭和以降の万人平等観から出た隼人の言葉は、身分差の大きいこの時代に生きる弥七郎には思いもよらぬ感動的なものだったのだろう。

「この人、変わった人だね。でもジャイアンにも子分ができたんだ、良かったじゃん」

 久太郎は弥七郎と隼人を交互に見て、隼人の脇腹を指で突っついた。

「ちょっと待ってよ。弥七郎さんは神五郎さんの家来でしょ。それに子供の僕に大人の人が家来になるなんて……」

 隼人は困った顔をして、弥七郎から目を逸らせた。隼人はその容貌がそっくりなマンガのキャラクターとは違い、人の上に君臨したがるガキ大将タイプではない。

「隼人さまはご立派な武者振り、子供などではありませぬ。薦野さまにはそれがしの倅を仕えさせまする」

 弥七郎は顔を上げ、ギョロ目をせわしなくしばたいた。

「でも僕は未来の世界に帰りたい。弥七郎さんを未来に連れて帰るわけにはいかないよ」

「それでは、その未来とやらへは帰らないでくだされ」

 弥七郎は隼人の袴の裾を取り、哀願するように頭を下げた。

「そんなあ……」

「それじゃあさ、オレたちが未来に帰れないって分かったら、弥七郎さんを家来にしてやりなよ」

 久太郎は笑いながら、困惑して泣きそうな顔になっている隼人の肩を叩いて、

「よっこらしょ、着物や足袋や草鞋って、慣れないせいか疲れるね」

 と、誰ともなしに言って腰を上げた。

「帰れないって分かったら、なんて縁起でもない……」

 隼人は縋るような眼つきで久太郎を見た。のろのろと立ち上がる。



 一行は再び歩き始めた。

 久明たちが倒れていた崖は、里見義堯の館から五、六キロほどの道のりである。あと一時間はかからずに着くだろう。

「結構距離あるね。車だとひと走りなのに。それに草鞋って運動靴と違って、底が平らべったくてクッションがないから、踵が痛くなってきちゃった」

 久太郎は音を上げ始めた。こんな距離は、わんぱく坊主の久太郎でもめったに歩かない。

「我々現代人は歩くのに慣れていないからな。でも昔の人は……、これは変な言い方だな、我々もその昔に来ているんだ、……今の人は平気で重い荷物を持って何百キロも歩いているんだぞ」

 基本的に自分の足しか交通機関がない時代である。馬は上級武士、輿は従五位以上位階を持つ貴人だけが使用できる特別な乗り物となっている。一般大衆などは、乗り物が使えないのは当然のこと、履物すら履かず裸足の者も多い。

「あーあ、自転車があればなあ」

 久太郎は歩いているのが面倒臭くなった。帰りのことを考えるとうんざりしてくる。

「そうだな。でも自転車が発明されるのは十九世紀の中頃、一八六一年になってからだ。この時代からだと三百年も後のことだな」

 確かに徒歩と馬以外に交通手段がないのは、文明社会からやってきた久明たちにはあまりにも不便すぎる。久明は、いっそ自転車を作ってしまおうかとも思った。いわゆるランニングバイクの様な木製の自転車もどきなら、大工など職人の手を借りれば出来そうな気がする。

 自転車の原型は日本の戦国時代に現れた──、と後世の百科事典に書かれているのを想像して、久明は苦笑を漏らした。

「折り畳み自転車の一台も車に積んでおいたら、一緒にタイムスリップしてたかな」

「どうかな、車の中にあった釣り道具もタイムスリップしなかったようだぞ。未来から持ち込めたのは、我々が身に着けていた物のほかには、隼人君のバックパックだけだ」

「そうかあ。腐った弁当がタイムスリップできたくせに、肝心なもんができないなんて腹立たしいね」

「そういうことだ。我々がかぶっていた帽子もいつ脱げたのか、無くなってしまったしな」

「早いとこ侍になって、馬に乗ろーっと」

「侍でも、馬に乗れるのは偉い人だけだぞ」

「そうなの? でも大丈夫だよ、すぐに偉くなるから」

「………」

 事もなげに言う久太郎に対して、誰も反論する気になれない。



「この辺で弥七郎さんたちに出会ったから、もうじきですね」

 隼人は三人が坐っていた岩を見つけて、にわかに明るい声を出した。未来への入り口が近いかもしれないと思うと、それまで黙々と歩いていた隼人の足取りは急に軽やかになった。

 すぐ先に、魚が泳いでいた淵のある崖が見えた。

「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず……」

「何、それ?」

 ふと呟いた久明の言葉を聞いて、久太郎は首を捻った。

「鴨長明という人が書いた『方丈記』という随筆の一節だ」

「鴨長明って、たしか鎌倉時代の人ですね」

 隼人は振り返り、久明に訊いた。

「さすがに隼人君は良く知っているね」

「誰、それ?」

 久太郎は気怠そうな声を出して久明を見た。

「長明は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけて生きた歌人だよ。京都にある下鴨神社の禰宜の出で、五十歳で出家した後に和漢混淆文の元祖と言われる『方丈記』を書いたんだ。この作品は建暦(けんりゃく)二年、つまり一二一二年に成立したということだ」

「それじゃあ、この時代からは三百五十年くらい前ですね」

「そう。我々のいた未来からだと八百年以上も昔の随筆なのに、リアルな描写は現代人が読んでも迫りくるものがある。ジャーナリズムのはしりと言えるかもしれない」

「ふーん、オレにはよく分かんないや」

 久太郎はつまらなそうな表情をした。

「お前はテレビ欄以外、新聞を見ることはないからな」

「そ。鴨南蛮だったらともかく、鴨の何とかって人なんか、オレにとっては知っておかなければいけないことではないからね。知らなくても死にはしないし」

「………」

 久明と隼人は白けた気分になった。

「確かこのへんだったな」

 久明は、木が生い茂る急斜面で立ち止まり、下を覗き込んだ。

「そうそう。ここ、ここ。ほら、道に上がるときにオレが足を滑らせた跡がある」

 久太郎は路肩の小さな崩落痕を足先で指した。

「結構急だなあ。僕たち、よくこんなとこ登って来たな」

 隼人はそろっと斜面を見下ろした途端、目が眩みそうになった。

「とりあえず、下に降りてみよう。縄と縄梯子を借りてきておいてよかった」

 久明は、街道のすぐ脇に生えている直径五十センチ程の立ち木に縄を縛り、斜面に梯子を垂らした。久明、久太郎、隼人、弥七郎の順で降りていく。他の男たちは、降りていって万が一にも未来にタイムスリップしたらいけないので、道端で待たせておく。


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