第21話 

文字数 2,362文字



 新六郎主従は危ういところを辛うじて切り抜け、江戸城や葛西城からの追っ手も振り切って、義弘が拠る国府台城に駆け込んだ。やはり敵は、新六郎が逃亡した際の行き先は岩付城になると予測して、その方面を重点的に警戒していた模様で、新六郎の思惑通り裏をかいた形になった。

 後世の「史実」でも、江戸城を脱出した新六郎は岩付城に向かい、資正に合流したことになっていて、もしも陰謀が破綻した時はそうなると思っていた久明も裏をかかれた一人である。もっとも、史実とはいささか異なる局面をいくつか目撃している彼はさして驚かず、ただ新六郎に注意喚起をしなかったことだけには臍を噛む思いをした。

 一方義弘は、未明に突如甲冑姿で現れた新六郎を目にして大いに驚いたがすぐに冷静になり、事情を聞くと、久明を岩付城に派遣して対応を協議させることにした。

 久明が資正に会うのは、これが二回目であった。前回は、春先の松山合戦で正五に従い後詰に駆けつけた時であったが、この時は自己紹介程度しか会話をしていない。

「岡本大学殿、お久しぶりでござる」

 太田美濃守資正は久明の顔を見るなり、そう切り出した。

「あの時は氏康にしてやられましたな」

 かの武田信玄をも出し抜く氏康の智謀には、久明も舌を巻いていた。

「入道殿には何と礼を申し上げるべきか。あのお言葉のおかげで、それがしの首は今も胴体に繋がってござる。入道殿にはよしなにお伝えくだされ」

 資正は頭を下げた。

「して、入道殿はすでに国府台城に?」

「我が主人の岱雙院正五はすでに隠居の身、この度は出馬いたしておりません」

「太郎殿が全軍を率いてござるのか」

 資正の目に一瞬かすかな失望の色が宿った。やはり義弘はまだ、味方から全幅の信頼を勝ち得るには至っていないようである。

「……入道殿の軍師殿が参られたゆえ、わしはてっきり入道殿もご出馬なされたのかと思うておった」

「私は軍師などという大仰な役目の者ではありません、ただの話し相手です。ところで新六郎康資殿のことですが」

 久明はさっそく本題に入った。

「新六郎がいかがいたした?」

「実は、新六郎殿の内応が敵方に露見し、新六郎殿主従は昨夜江戸城を脱出いたしました」

「なんと! ……して、新六郎等は今どこに?」

 新六郎の出奔はまだ岩付城には伝わっていなかった。仰天した資正は身を乗り出して、久明に同族の安否を尋ねた。

「彼らは夜明け前に国府台城に駆け込み、そのまま城内に滞在しております」

「国府台にな。なるほど、それを聞いて安堵いたした」

 資正は、ほっとした表情を見せたが、すぐに顔を引き締め、

「しかし、それでは我らの策は根本から練り直さなければなるまいな」

「その通りです」

「太郎殿はいかように申されておられるか?」

 資正は腕組みをして、天井に目を遣りながら訊いた。

 義弘は、戦術に関しては久明に一任している。そこで、自分の考えを義弘の弁として資正に話した。

「新六郎殿が江戸城から出てしまい、我々の作戦も敵方の知るところとなってしまったと仮定すると、いまさら策を弄して何かをしようとするのはかえって危険です。今は各々が守りを固め、弾正少弼殿と連絡を取り合いながら北條の動きを見極めるのがよろしいかと思いますが」

 輝虎は先日、豪雪を押して三国峠を越えてきて、四たび関東に陣を張っている。しかし今現在、武蔵への進軍を阻止しようとする北條武田連合軍と、遠く上野国内で睨み合いを続けている。

「大学殿は先に手を出すな、と申されるか。しかし、このままでは相伝の所領を失い、浪人になってしまう新六郎があまりに不憫だ。寝返りの功に報いて、せめて葛西城あたりを乗っ取って、彼の者に呉れてやれないだろうか」

「それは……」

 新六郎の出奔と葛西城攻めは史実の既定路線であり、このままの流れで事が推移すれば、次の停車駅は「第二次国府台合戦の本番」ということになる。久明は、それでは我ら同盟軍にとって最悪の事態が発生する、と言いかけて、止めた。

 資正は、久明が未来から来た人間で、今後起こるべき合戦とその結末を知っているとは、当然のことながら知る由もない。もし久明がそれを告げても信じないだろうし、何を言っているのか理解できないだろう。あるいは久明が乱心したと思われる可能性もある。

 しかし葛西城攻めだけは何とか回避しなければならず、そのためには何らかの代替案を提案しなければならない。

「……それは弾正殿が滞陣を解いて南下してからでもよいのでは。下手に動くと手厳しい反撃を食うかもしれません」

 全軍撤収して輝虎の南下を待ち、合流して、押し出してくるであろう北條家主力との決戦に持ち込むのが最善策ではないか、と久明は言った。

「うーむ、しかし……。それでは新六郎が……」

 資正は困惑した顔つきになり、声を絞り出すように言った。

「………」

 久明は大きな溜息をつきそうになったが、ふと思い直した。葛西城を攻略できなかったから第二次国府台合戦は勃発した。ならば、取ってしまえばいい──。

「分かりました。……しかし葛西城を力ずくで攻め落とすには大きな犠牲が必要です。なんとか調略で取れませんか?」

「調略は不調でござる。葛西城の守将は拙者の一族で、元々は新六郎の配下であった太田太郎左衛門康宗という男でござるが、あ奴めは忠義の臣を気取っておって、我が誘いを鼻にもかけなんだ」

 資正は、一連の工作の中で同族の康宗も脈ありとみてすでに触手を伸ばしていたが、あっさり断られていた。康宗の同役であり、やはり新六郎の配下であった恒岡弾正忠信宗という男は康宗に輪をかけた堅物で、調略を仕掛ける気にもなれないという。

 また、両者の間に不信の楔を打ち込むべく、資正はさまざまな流言を流しているようだが、今のところ効果があったかどうかは分からない。


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