第6話

文字数 2,235文字



   三


 久明はボートを笹川筋の上流に向けた。彼は竿を出さず、子供たちに釣らせるためのガイド役に徹している。

 いかにもブラックバスが潜んでいそうな場所には、入れ代わり立ち代わりアングラーがやってきて、ルアーを数回投げては去っていく。

 彼らはおしなべてマナーが良く、中には久太郎たちに笑顔を向けて挨拶をしていく釣り人もいるが、数いるバサーの中にはガラの悪い輩がいないわけではない。

 上流から銀色のアルミ製小型ボートが猛スピードで移動してくる。そのボートを操縦している金髪の男は、久太郎がルアーを投げようとしている目の前に割り込んでルアーを投げ、そしてブツブツと何かを言いながら猛スピードで下流の方に去っていった。

 久太郎たちが乗るボートは、アルミボートの引き波を受けて大きく揺れた。三人は慌ててボートのへりに掴まる。周りの釣り客も体勢を低くして引き波をやり過ごしている。

「もー、危ないなあ。あいつ超サイテー」

 久太郎は唇を尖らせて去っていったボートを睨みつけた。

「ああいうのって、ムチャクチャ気分悪いよね」

「そうだね。親の躾がなってないのか、周りの環境がそうさせるのか。お前はあの男のようになっては駄目だぞ」

「うん、分かってるよ」

「よし、それじゃ、もうちょっと奥まで行ってみようか」

 久太郎が素直に頷くのを見て久明は微笑み、エレキのスロットルレバーを捻った。

 長い直線状の湖面を過ぎると、右へ左へと大蛇がうねるように大きく蛇行する川筋になる。両岸は、高さが二十メートルほどもありそうな黄白色の断崖絶壁で、それは直接水面に落ち込んでいる。

 更に先に進むと、湖の幅はどんどん狭まり、水深もやっとボートが通れる程に浅くなる。亀山湖の最上流部である。

 この先にはもう一つ、片倉ダムという名称の新しいダムがある。平成になってから完成したこちらのダム湖にも、ブラックバスやヘラブナなどのゲームフィッシュが放流されていて、釣りの新名所になりつつある。三人が今いる場所からダムサイトまでは至近距離だが、途中に谷川の狭い急流があるので、亀山湖から直接ボートで行くことはできない。

 ボートを進めてきた三人の前に、岩盤を貫通している洞窟が現れた。それを目にして久太郎と隼人は声を上げた。

「父ちゃん、変なトンネルがある!」

「あ、本当だ。でもあのトンネル、自然にできたもんじゃなさそうだよね」

 巨大な素掘りのトンネルは、ざっと見て五メートル以上の高さがありそうである。幅は十メートル、長さは三十メートル位であろうか。水深が五十センチほどに浅くなった川は、そっくりそのままトンネル内を通って流れている。

「あれは、(かわ)(まわ)しというんだ。岩肌にトンネルを掘って、元々は蛇行していた川の流れを真っ直ぐにバイパスさせたものだよ」

 久明はそう言って、トンネルの手前右側にある小さな流れ込みを指差した。

「ほら、あそこに小さい滝のようなものがあるだろう。あれが元の流れだったんだろう」

「へー。でも何であんなに高いところにあるの?」

「この辺りの岩盤は堆積してからまだ数十万年から百万年しか経っていない泥岩や砂岩で、すごく軟らかいんだ。だから新しい流れはどんどん浸食されて川底があんなに低くなったんだ」

「なぜあんな物を造ったんですか」

 隼人は、トンネルの天井からポロポロと落ちてくる落石を見ながら訊いた。

「こういう丘陵地帯では耕作できる平地が少なかったからだよ。あのように川の流れを動かして、蛇行していた元の流れを田んぼや畑にしたんだ」

「そんなに田んぼが必要だったんですか」

「田んぼは多ければ多いほど良かった。昔は稲作が産業の基幹で、年貢は米で納めるのが基本だった。また、人ひとり食べる米の量も今よりずっと多かったんだけど、収量は今ほど多くはなかったから、田んぼになりそうなところはできるだけ田んぼにしたんだよ」

「でもこんな山奥に、こんな工事をしてまで田んぼにするなんて。平地はみんな田んぼになっちゃってたんですか?」

「平野部は意外に田んぼではない耕作地が多かったようだね。大きな川の近くに広がる低地は頻繁に洪水の被害にあったし、洪水にならない微高地の上は、揚水ポンプなどはなかったから用水の調達が難しく、田んぼには不向きだったんだ」

「ああ、なるほど」

「あのトンネルができたのは、おそらく江戸時代のことだろう」

「へー。でもこんなトンネル、掘るの大変だっただろうな。これが出来た頃はエンジンドリルやバック・ホーなんかなかったんでしょ?」

 久太郎は薄暗いトンネルの中を覗き込むように身を乗り出した。

「そうだね、当然人力で掘ったのだろう。でも岩が柔らかいから、意外に大した作業ではなかったかもしれないよ。トンネル自体も、出来たばかりの頃はずっと小さかったはずだし」

「さっきから石が落っこちてきてるね」

 見ると、トンネルの入り口付近では河床に落石が積もっていて、一部は水面から顔を覗かせている。トンネルの天井からは、所どころ岩盤の上に生えている木の根っこが垂れている。

「脆い岩盤だからね。そのうちに、このトンネルは崩落してしまうだろう」

「ひゃー、危ないなあ」

「房総の山中には、このような川廻しが数多く存在していて、実はこの先にも同じようなものがあるんだけど、他ではすでに崩れてしまったトンネルもいくつもあるんだ。横の崖からも落石があるし、危ないからもう戻ろうか」

 落下して水柱を立てる石を目で追いながら、久明はボートを反転させた。


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