第7話

文字数 2,286文字



   三


 永禄四年十二月、上杉政虎は室町幕府十四代将軍の足利義輝から一字を拝領して、「上杉輝虎」と改名した。

 中世の人物はかなり頻繁に諱を変えるが、この男もかなり名前を変えるのが好きらしい。しかしたかだか九か月の間に二回も改名するのは、物語を書こうとしている人間にとっては迷惑至極なはなしであり、読者にも混乱をもたらす恐れがある。このため、後に上杉謙信となるこの男を題材にした物語の中には、断りを入れたうえで初めから「謙信」の名を使っているものもある。

 里見岱雙院正五入道は、政虎改め輝虎の出馬要請に応じ、翌永禄五年正月、房総二ヶ国の兵を率いて北上を開始した。今回の遠征には、久明は正五の軍師として従軍し、久太郎と隼人も新屋形義弘の旗本として出征している。また、土木工事の専門家である普請奉行も同行している。

 房総軍の先鋒は、一昨年の久留里合戦後に里見家に帰属した内房正木衆である。そのあとに長南勢、万木勢、新屋形義弘、正五入道の順で部隊が続いていく。しんがりは小田喜衆だが、首領だった正木大膳亮時茂は、前年の小田原攻めから帰還した直後に病に倒れて急死してしまったため、今は息子の大炊介信茂が率いている。

 およそ二千騎八千人ほどの軍勢は、内海沿いの往還を北に向かい、上総・下総国境を流れる村田川を渡って、今は里見方になっている小弓城に入った。

「村田川って、昔はあんな川だったんだね」

 小弓城に入ってから、久太郎は正五の側にいる久明を訪ねてきて、正五への挨拶もそこそこに、先ほど渡渉してきた村田川の話を持ち出した。

「……なんだか水もすごく少ないし」

「お前はあいかわらず変な言い方をしているな。我々はその昔にいるんだぞ」

「そうだったね。未来と違って今は、って言えばいいかな」

「未来の川は工事で流路をまっすぐに直したり、堤防を築いて川幅を広げたりしているからな。それに未来では常に生活排水の流入があるけど、この時代はそんなものはないから、雨の少ない真冬では水量が少ないんだろう。我々が住んでいたちはら台の近くだと、村田川はうんと狭くなって相当蛇行もしているはずだ」

 久明たちが戦国時代にタイムスリップしてから、もう二年半になる。未来の世の中に残してきた妻や教え子たちはどうしているだろう。久明は未来のことが気になりだして、少し感傷的になった。

「やっぱり全然風景が違うね。当たり前だけど、工場や煙突なんかないし、海も潮干狩りがしたくなるような干潟ばっかり」

 東京湾岸は、令和の世ではほぼ全域が埋め立てられてしまい、最奥の三番瀬や湾口の木更津近辺など、ごくわずかしか干潟はないが、昭和中期までは広範囲に干潟や遠浅の砂浜が広がっていた。

「さっき通った浜野村から右に曲がる道があっただろう。恐らくあれが将来茂原街道になるんだろう」

「ふーん。ちょっと足を延ばしてちはら台の方まで行ってみたいね。昔話をしてくれたお婆ちゃんの家って、このころからあったのかな」

 久太郎はちはら台や近隣の風景を思い出しながら、一人ごとのように言った。ジャイアンとカブトムシを獲りにいった、あの森はあるのかな……。

「ちはら台ができる台地には、この時代には何もないはずだぞ。草刈や潤井戸(うるいど)だって小さい集落だろうな」

 久明はそう言いつつも、自宅周辺の四百六十年前の姿を見たくなった。

「そういえば大学殿は、未来の世界では草刈の住人だったそうじゃな」

 二人の話を黙って聞いていた正五が、ふと思い出したように久明に言った。

「そなたにはずいぶん助けてもらっておるのに、いまだに蔵米で給与しておる。当家がめでたく上総を平定した暁には、草刈と潤井戸の地は大学殿に宛がうように屋形に申しておこう」

「恐縮でございます。しかしそれでは入道さまの目指す改革に逆行するのでは」

 久明は、以前正五が熱弁を揮っていた改革の骨子と矛盾する言葉に、首を傾げた。

「うむ。あれは至極名案じゃが、我が家来の中には古い習わしに囚われて、新しいやり方に難色を示しておる者が多いのじゃ。自分では政事などできぬくせにじゃ」

 正五は口の端をかすかに曲げて、抵抗勢力になっている古い頭の家臣たちに対し、不快感を示した。

「……太郎までが、家臣の結束が乱れると申して、反対しておる」

「それでは、いきなり封地を取り上げないで、いちいち所領を見て回るのは大変だろうし、無駄な時間を費やすことになって軍役にも差支えがあるだろうから、などと理由をつけて、代官を置くところから始めてみては」

「なるほど、それも手じゃな」

 久明の助言に正五がゆっくり頷いていると、久太郎が割って入り、友達に対するような口調で正五に訊いた。

「ねえ入道さま、オレたちいつここを出発するの? オレ、ちょっと草刈まで行ってみたいんだけど」

「こら。入道さまにそんな口のきき方をするな。無礼だぞ」

 久明が睨みつけ、膝を叩いてたしなめると、久太郎はペコリと申し訳程度に頭を下げた。
「まあ良いではないか。大学殿、久太郎殿のような若武者はそのくらいの方が頼もしいぞ」

「恐れ入ります……」

 久明は、頭を下げながら久太郎を見た。したり顔をしている息子に腹が立つ。

「久太郎殿、余はあと二、三日は小弓にとどまるつもりじゃ。少しばかりの時間があるゆえ、草刈に行ってきてもよいぞ。ただあの辺りは土気の酒井や、小西の原などいまだ敵方についている者が出没して難儀するやもしれぬ。余の家来からよき武者を十騎ばかり貸してやろう。そなたたちの手勢だけでは少なすぎて、いささか心もとない」

 正五は久太郎に笑顔を向けて、草刈までの遠足を許した。


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