第16話

文字数 3,123文字



 半月が西の稜線に没しようとしていた夜半前に、敵は退却行動を開始した。

 久留里城の城兵は、定められた城門で順序よく並び、出撃の時を待っている。

 顔を引き攣らせソワソワと落ち着かない者、足踏みをしている者、全身で貧乏揺すりをしている者、下を向いて念仏を唱えている者……。いくさ素人の久明ですら、男たちの緊張がはっきりと感じとれる。

 千本城の城兵すべてを率いている義舜は、すでに隠密裏に小櫃川を渡り終え、退却順を待っている北條軍の背後に回って陣を敷いていた。敵の陣城からは二町と離れていないが、秋虫の声が盛大に鳴り響いている森の中では、多少の物音を立てても気付かれる恐れはない。

 正木時茂と秋元小次郎の軍勢も、すでに所定の場所に息を殺して潜んでいる。彼らの目と鼻の先では敵の前衛部隊が通過中だが、どうやら感付かれた様子は見受けられない。

 追撃戦で最大の兵力となるべき長南の武田兵部大輔の軍団は、まだ到着していない。彼らは十数里の道のりを長駆してくるので、もう少し時間がかかるだろう。

 程なく月が落ち、暗闇が小櫃谷を支配し始めた。

 敵陣の要所には常のごとく篝火が焚かれ、一見平静さを装っている。久明の目からは逆光になっているその中で、何か尋常ならざる行動が起こされているようには見えない。

 しかし戦いに明け暮れている戦国武将には、戦機を判断する独特の勘があるのだろう。実城から敵の動きを注視していた義堯は突然床几から立ち上がると、手にしていた軍配団扇を振り上げて叫んだ。

「今じゃ、貝を吹け!」

 法螺貝の音が小櫃谷にこだました。それを合図に各城門が大きく開けられて、待機していた将士が次々に飛び出していった。義舜の軍勢も、貝の音を聞くと同時に背後から北條軍に襲いかかる。

「馬を曳け! 余の旗本も出陣じゃ。者ども、今こそ開運の時じゃ。はげめ、義舜が手の者に負けるな!」

 義堯は旗本たちを激励し、馬上の人となった。久明も嘉風の手綱を孫作から受け取り飛び乗った。追手門を目指して急な通路を下る旗本たちの後を、嘉風に任せて駆け下っていく。

 小櫃川を渡り、雑草だらけの田んぼを突っ切って敵陣近くまで来ると、北條軍の大半はすでに陣を引き払って退却したのが分かった。義舜の部隊は篝火の明かりの中で、まだ残っていた三千人ほどの敵殿部隊と激しく揉みあっていた。その辺り一帯には、

「かかれー、かかれー」

 と叫ぶ義舜の甲高い声が響き渡っている。

 久留里城兵二千余の来着によって数的優位に立った里見軍は、敵部隊を一気に押しはじめた。

 相手の指揮官たちは声をからして、

「引くなー! おしかえせー!」

 と、兵士を叱咤し、必死に前線を支えて本隊が退却する時間を稼ごうとするが、及び腰になった部隊がじりじりと後退していくのを止めることはできない。久留里城兵の一部は敵の陣城に突入して残兵を追い出し、あっさり占領に成功した。

 義堯に従って向郷の草原に出ると、そこかしこで組み合い、打ち刀を振りかざし、鎗を合せて殺し合っている男たちの姿が久明の目に入ってきた。タイムスリップしてから灯りの少ない生活をしているせいか、月が没して星明りだけになっても意外に夜目が効く。

 その中で、背中に三つ引両の紋所が入った旗指物を背負っている若武者の姿が特に目を引いた。

 全身黒ずくめの具足を着け、嘉風のように漆黒の馬に乗った、六尺近い大兵のその武者は、兜の前立てを星明りに煌めかせながら、敵の騎馬武者が繰り出した馬上鎗を軽々と躱して力任せにそれを引き寄せ、その体を強引に地面に投げ飛ばして坊主頭の従者に首を掻かせている。

「おお、あれは隼人君じゃないか。驚いたな、あんなことをして……」

 久明は唖然として呟いた。栗原弥七郎と正円の腰には、麻で編んだ網に包まれた生首が一つずつぶら下がっている。

 まだ元服もしていない隼人が戦場にいるとは思わなかったが、人数に余裕のない里見軍にとっては、少年でも戦える者は貴重な戦力、ということなのであろう。

(久太郎もいるのかな。危ない目に遭っていなければいいのだが)

 押せ押せムードの中で久明には、子供たちの心配をする余裕がでてきた。

 周りを見ると周囲でも敵兵の首を落とす作業に勤しんでいる武者や雑兵が大勢いる。首は取らずに討ち捨てにせよ、と命じられていても、興奮しているとそんなことはケロッと忘れてしまうらしい。

 その時、一里ほど先から、「ウウォー」とも、「ワー」ともつかぬ地鳴りのような雄叫びとともに、遠雷のような戦闘の音が響いてきた。ついに里見軍の両翼部隊と北條軍の本隊が激突したらしい。

 踏みとどまって戦っていた敵もその音に気づいて大いに浮足立ち、ついに潰走をはじめた。

「追えー、追って氏康の首を取れー!」

 義堯や義舜だけではなく、さまざまな階層の物頭が、進軍を促す太鼓や貝の音とともに叫んだ。

 追跡部隊は、逃げる敵を追って小櫃谷を抜け、左右の闇からにわかに出現した里見軍にせき止められて死闘を繰り広げている敵本隊に追いついた。

 北條軍は後方の部隊が襲撃される音を聞き、退却の足を速めようとした矢先に、突如現れた敵の攻撃を受け、激しい混乱状態になっていた。そこに壊滅した殿部隊の残兵が合体したことで、それは大恐慌に陥った。

 暗闇に近い星明りの下での戦闘である。里見軍に追われて逃げてきた殿部隊の残兵を、敵と勘違いして殺しあう北條兵が続出した。

 そのころになって、長南武田家の先鋒部隊が到着した。追い討ちをかけている里見軍と合流して、北を目指して逃げまどう北條兵を更に追いたてる。

 義舜の声がする方向をふと見ると、そこに久太郎もいた。

 軍勢の中団辺りで軍配を振りながら指揮をしている義舜の少し後ろを、他の小姓たちと一緒にトコトコと馬を打たせて付いていっている。

 久明は、久太郎が義舜に近侍しているのを確認してほっとした。この分なら危険な前線に出ることはないだろう。

 安心した久明は義堯の下を離れて嘉風を前に進め、五人の配下と共に意を決して乱軍の中に身を投じた。

 久明は、城下の鍛冶に打たせておいた五尺近くもある無骨な大太刀を抜いて右肩に担ぎ、星明かりの中、氏康とおぼしき武者を求めて走り回った。中には馬鎧で飾った嘉風に乗った久明を高級将校と間違えて、

 ──冥途の土産には良き相手じゃ。

 と言いながら鎗を手にして挑戦してくる敵兵もいたが、大太刀を振り回して追い払う。

 馬鎧を着けた葦毛の馬に乗り、騎馬武者数十人と徒武者や雑兵多数を引き連れ、夜目にも煌びやかな白っぽい甲冑を身に着けた、大物武将と思われる男が、見事な進退で群がる里見兵と渡り合っているのが見えた。その一群は鎗の穂先を揃え、小突撃をして追っ手を蹴散らせては数間退く、の繰り返しで、ジワリジワリと後退している。

 久明は、もしかしたらこの武者は氏康か、とも思い、五人の配下とともに追っ手の群れに加わった。しかし、不利な敵地での夜戦にもかかわらず冷静沈着な采配を振るう相手に翻弄され、鎗を手にした徒武者どもに手を焼いている間に取り逃がしてしまう。

 やがて辺りに敵兵は少なくなり、日が昇るころにはいくさは終了した。

 街道上や周辺の田地には首のない死体や武器が無数に転がり、主を失った馬がたたずんでいる。傷ついて倒れている馬も多い。夜露に濡れた秋草と血の臭いが混じりあい、胸が悪くなるような饐えた臭いとなってあたりに漂っている。

 敵が残していった首の中に、氏康の首らしきものはなかった。

(大事は終わったか。作戦自体は成功だった。本来なら大勝利となるはずだが……)

 勝鬨を上げる輪の中で一人、久明の顔色だけが冴えなかった。


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