第6話
文字数 2,020文字
「うむ」
正五は軽く頷き、先をうながした。
「それに、政虎の軍勢は長尾家に長年付き従っている譜代衆より、配下に収めてから日が浅い
「将兵に無理強いさせれば、総大将に対する怨嗟の念が噴出するということか」
ただでさえ疲弊している越後勢であった。下手をすると戦場で離反者が続出して、空中分解するかもしれない。自国も似たような状況にある正五には、それがよく分かった。
「はい。三国峠を降って自身の目で関東の情勢を見れば、政虎も今は北條と決戦をすべきではないと悟るでしょう。上野や武蔵の北條領を荒らし、物資や人を略奪して、徴発した雑兵たちの欲望を満足させたら、兵を退くでしょう」
「ならば、我らが動かぬのは、政虎のためか」
「まあ、そうです」
久明は頷いた。
「我々が動けば、政虎も動かざるをえませんから」
「それでは古河城にまします
正五は、政虎が古河城においた足利藤氏らのことが気になっている。
「上杉憲政殿と近衛前久さまは、政虎が保護して越後に連れて帰るでしょう」
「公方さまは?」
「政虎は公方さまを連れて行くわけにはいきません」
古河公方は関東のあるじということになっているので、藤氏は関東の外に出てしまったらただの足利一族ということになり、古河公方としての価値がなくなる。また、北條家の傀儡公方、足利義氏を正統として認めざるを得ない状況に追い込まれかねない。すなわち政虎は藤氏を越後に連れて帰るわけにはいかないということになる。
しかし、藤氏をその辺に放っておいたら、里見方が擁立している邪魔な公方を北條家は逮捕し幽閉して、いずれ殺害することは明白である。
「しからば、公方さまはまた当家で保護するか?」
「はい、公方さまはよそに移座して頂くわけにはまいりませんから、当家に来ていただくしかありません。……お屋形さま、いえ、入道さまは、今後も北條との戦いをずっとなさる覚悟ですか? 北條方の義氏に対して、当家が藤氏さまを戴いている限り、両家の抗争は止みませんぞ」
久明は、正五がどれだけ戦争を継続する意思があるのかを知りたくて、水を向けてみた。
戦国時代は実力第一の世の中で、下剋上の風潮に満ち満ちている、というような印象が強いが、社会一般は意外に保守的で、成り上がり者を忌み嫌い、排斥する傾向にある。そのため、他者の上に君臨し、政治的地位を主張するためには、より上級の権威を戴いていなければならない。戦国大名が実権を掌握し続けるために傀儡の守護、公方、あるいは将軍を擁立するのはそういう理由があるからだ。
「大学殿、当家が藤氏さまを手放したら、それは北條の風下に立たざるをえなくなるということじゃ。余はかつて氏康めの約定違反で酷い目にあった。であるから彼奴めと和することなぞできぬゆえ、戦い続けるためには我が方でも公方さまを戴いておらねばならぬ。余は北條などという名を詐称しておる泥棒猫を、関東の地から追い払うまで、戦い続けるつもりじゃ」
正五はきつい口調で戦争継続の意思を強調した。
「今の北條は、当家と比較して数倍の兵力を持っています。これに対抗するには、政虎はもとより、岩付の太田資正や常陸の佐竹義昭、下総関宿の梁田晴助といった面々との連携を密にしなければなりません」
「関八州で信頼できる味方は太田や佐竹と梁田だけか。ちと遠いが上野はどうじゃ。箕輪の長野左衛門大夫
正五は、里見家発祥の地、上野で反北條・反武田の中心になっている、若き武将の名を挙げた。
「箕輪の長野家といえば、確か、入道さまの御台所さまの……」
「そうじゃ、さすが大学殿、よく知っておるな。余の今の台所は万木から来ておるが、その前の奥は長野の者じゃ。あの者も若死にしてしまって不憫じゃったが」
正五の前妻は長野
「長野家とは、繋がりを保つに越したことはありませんが……」
「うむ?」
「長野左衛門大夫殿は、先代の業正殿が病死して以来、北佐久から碓氷峠を下って侵略してくる武田信玄に防戦一方、とても我々の北條包囲網に加わる余裕はないでしょう」
「うむ、しかしいずれ起きる北條との決戦の時に、北條の援軍として攻め入る甲斐武田の軍勢を押さえる上州勢は重要じゃ」
「確かにそうですが……」
久明は言葉を濁した。箕輪城主の長野業盛は、武田信玄の攻勢を受けて、この時から五年後の永禄九年九月二十七日に、城を枕に討死してしまう運命にある。しかし久明は、このことは言うべきではないと思った。
「しかしなぜ政虎という男は、せっかく関八州の地を制圧したのに留まらず、越後へ帰ってしまったのだろう」
本拠を常に最前線に移動している正五には、政虎の考え方が分からない。