第9話

文字数 2,363文字



 年が明けて、永禄三年になった。

 この年は、尾張の織田信長が駿河の今川義元を滅ぼして、彗星のごとく戦国シーンに登場するという、日本史上最大級にエポックメイキングな年になる。

 久明も、今年は関東平野に激震を起こしてやる、と意気込んでいた。

「そなたが申していた通り、玉縄の北條綱成(つなしげ)めがどうやらまた蠢動し始めているらしい。一昨々年の傷がやっと癒えたとみえるが、これまでと同様に彼の者を誘き寄せてから散々に叩きのめしてやるのがよいか、あるいは他に良策があるか、大学殿の意見を聞きたい」

 義堯は、久明が出仕すると、普段の雑談は抜きにして、いきなり質問してきた。

 相模玉縄城主の北條左衛門大夫綱成は、六年前の天文二十三年から三年間に亘り、連年小櫃谷に攻め寄せ、その都度里見軍によって追い返されていた。特に三年前のいくさでは、久留里城兵に野戦陣地を急襲されて壊滅的打撃を被り、這う這うの体で逃げ帰る大敗を喫している。

 その時のダメージからようやく回復して、綱成はまた久留里方面に侵攻してくるらしい。

 今回の侵攻が前例のごとく玉縄衆主体の千五百騎、五千人ほどなら、これまでのように籠城しつつ適当にあしらい、最後に痛撃を与えて撃退するのが一番良いだろう。

 しかし久明が知っている史実では、今回の侵攻は玉縄衆だけではなく、北條家総帥・北條氏康が小田原衆など北條家主力を含む大軍を直々に率いて攻めてくることになっている。

 氏康は、去年隠居して家督を嫡子氏政に譲ったが、実態は今でも北條家の全権を握っていて実質的な当主である。

「敵が今までのように綱成と原貞胤の軍だけでしたら、野戦を仕掛けて敵を徹底的に殲滅する手もあります。うるさい綱成を懲らしめるためには、むしろその方が良いでしょう」

 久明は、後年里見家が総力を挙げて北條軍に野戦を挑み、快勝することになる合戦を思い浮かべながら、言葉を続けた。

「しかしながら今回は綱成が総大将ではなく、氏康が三千騎を超える主力軍を率いて親征してくるはずです」

「ふーむ。すると敵は全体では五千騎を優に超えるか」

「おそらくそうなるでしょう」

 久明は義堯と話をしながら、この戦の成り行き次第では日本の歴史が変わるかもしれない、と思い、身震いする気持ちになった。もしも北條家を倒せば、義堯に庇護されている足利藤氏が古河公方になり、里見家は北條家に代わって関東の主になる。関東に関わる必要のなくなった上杉謙信は全力で武田信玄に当たってこれを傘下に収め、天下を握る織田信長の専制を抑止して、あるいは上洛して信長をも臣下にして……。

「しからばどうするか?」

 義堯の問いに、久明は夢想から醒めた。

「……はい、今お屋形さまの胸の内には、とりあえず籠城しておいて、折を見て討って出るという、今まで通りの戦法があるのではないでしょうか」

「うむ。安房から水軍を出撃させ、三浦郡や鎌倉などを襲撃させようとも思うが」

 三浦半島へ別働隊を乱入させ、敵の後方を攪乱して退陣に追い込むのは、里見家の常套手段である。この渡海攻撃には当然田畑や住民への略奪も伴い、敵に侵攻されて減少する収入を補うため、という経済的側面もあった。三浦半島の他にも、北條家の傘下にある千葉一族を牽制し、略奪行為を働いて敵を経済的に疲弊させるため、義堯は正木時忠らに下総東部を、正木時茂らには下総西部から葛西方面に度々出兵させている。

「基本方針としてはそれで良いでしょう。ただ、今回の敵は前例のない大軍です。中途半端な迎撃などを行うと、かえって味方の損害が大きくなり痛い目に遭います」

 久明は、まず史実に沿って作戦を立案しようとした。

「今回の一戦で一番重要になるのは、越後の長尾弾正少弼景虎です」

「越後の長尾か。確か上洛したそうだな」

「はい、先日京に上り、将軍足利義輝公に拝謁したはずです。この越後長尾家には、小田喜の正木大膳殿が、かねてより山内上杉家の旧臣や上野(こうずけ)の諸将を通して誼を通じています」

「さすがに良く知っておるな。さようじゃ、こたびは大膳も上洛の祝いに太刀を贈る手筈になっているそうじゃ」

 義堯は真顔のまま、目だけで笑った。

「その長尾景虎ですが、今年は山内上杉家の名跡を継ぎ関東管領に就任することに内定し、その就任式典と北條家退治のために三国峠を越えて関東に出陣します。景虎は北條に追い出された関東管領上杉修理大夫憲政殿を保護して以来、関東平定を悲願としており、北條攻めでは関東八州の全域から武将を召集しますが、がっぷり四つに組んで北條に食いついているご当家を特に重視しております」

「ほう、さようか。しからば当家としては彼の者との絆を強くした方がよいか? 余からも祝儀を贈るべきか?」

「その必要はございません。さようなことは大膳殿に任せておけば十分であり、大名たるお屋形さまがあまり下手に出ると、彼の者に見下されてしまって、良いことはありません」

「なるほど……」

 義堯は微かに頷いた。

 長尾景虎、後の上杉謙信は、越後守護上杉房能を自刃に追い込み、その兄の関東管領上杉顕定を討ち取るなど、戦国史上に下克上の極みとして悪名を残した長尾為景という梟雄の息子だが、その父に似ず、大変な侠義の士である。しかし反面では意外なほど人を見下す癖があり、また癇が強く、人の好悪も激しい。

 足利公方家の人々を庇護している里見家が景虎に卑屈な態度を取れば、里見家のみならず公方家も見下される恐れがある。

「彼の者は上杉憲政殿の要請を受けて、すでに関東に討ち入る決意を固めているはずです。いまは甲州武田家に味方している越中の神保長職を攻めていますが、おそらく関東入りのための地固めでしょう。当家としては、十分に敵の主力を引き付けておいてから景虎に書状を送り、越山させるのがよろしいでしょう」


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