白衣

文字数 7,209文字

  
 健康診断は、ごくごく普通の、ありきたりの内容だった。
 身長に体重、視力聴力、血液と尿の検査、心電図、エトセトラ、エトセトラ。
 会場は一般の人も普通に利用する民間の検診センターで、どうやらそのフロアにいるのは『パンドラ』希望者だけでなく、普通の健康検診を受けに来た人達も混ざっているらしい。
 それが午前中に終わると別階に通されて、かなり豪華な昼食が待っていた。どうやらこれは、一日を費やして検査を受ける客側へのサービス、ということらしい。
 部屋には彰を含め、十人程の若い男女がいた。数人ずつが友達同士らしく、一人なのは彰だけのようだ。
 脂や塩気の濃いものはまだ些か喉につかえたけれど、彰は少し無理をしてその食事をすべて平らげた。あまり残してしまって「健康状態が良くないのでは」と思われてしまうことを懸念したのだ。
 そうは言っても、ほんの数週間前だったらこんな食事は二口三口も喉を通らなかっただろう、と思うと自身の回復ぶりに彰は内心で舌を巻く。
 それは勿論、薬のおかげが大きいけれど、それよりも更に大きく自分の精神に影響を及ぼしているのはこの『パンドラ』のプロジェクトだ、そう彰は自分で判っていた。
 あのチラシを見た後、彰は薬を飲み始めてから少しぼんやりとぼやけていた頭の一部がはっきりしてくると共に、いまだに無感覚だった部分が歯車のようにかちかちと動き出すのを感じていた。
 説明会の後に病院に行って、「もうずいぶん具合が良いから薬を減らしてほしい」としっかりとした口調で語る彰に、医者はいぶかしみながらも少し軽めの薬を出してくれた。「もしまた気持ちがガタンと来たらすぐに前の薬に戻して診察を受けに来るように」との言葉と共に。
 そして薬を変えても特段何の問題もなく、更に一週間後、健康診断の直前での通院では、「一度睡眠薬をやめてみましょうか」と言われた程に体調は回復していた。
 睡眠薬もやめ、今出されている程度の薬だけならそれ程大したものではなくて、これなら『パンドラ』の審査にもさして影響しないだろう、彰はそう期待していた。
 午後の最初には、会議室のような場所で性格診断のテストがあった。
 モニタに流れていく設問にかちかちと手元のボタンで回答していく。
 こちらも割とありきたりの内容で――『かっとしやすい性格ですか』『初対面の人とすぐにうちとけることができますか』等々、その文面を眺めながら、彰は「こういうところに来てこういうテストを受けて、『自分は短気です』なんて答える人間なんかいるんだろうか」と思ったりもした。
 まあおそらく、大量の質問の中に前半と後半で矛盾が含まれるような回答になったり、モニタの上につけられたカメラで画面のどこを見ているか、ボタンで反応の速度なんかをチェックしたりして嘘をついていればすぐバレてしまうのだろうけど、続けて彰はそう思った。なるべく直感で、正直に答えるのが多分一番だ。
 それでも五十問近い設問をすべて終えると、知らず大きなため息が出て、頭のどこかが鈍く痺れたような疲れを感じた。
「テストを終えられた方は、先程ご昼食を召し上がられたお部屋にお越し下さい。お茶のご用意がございます。そちらでお待ちいただき、問診の準備が整った方からお名前をお呼びいたしますので」
 部屋の上手に立っていた係の男性がそう言って、何人かが席を立ち上がって出ていく。
 彰も一度ぐっと背中をそらしてから立ち上がり、その後に続いた。
 

 彰が呼ばれたのは、六番目だった。
 案内の男性の言葉に従って番号のふられた問診室のひとつに入ると、ずいぶん薄くなった白髪に痩せ気味の、人の好さそうな白衣の男性の医者が、机の向こうからぺこりと頭を下げて手でこちらに椅子を勧めてくる。
 彰は「お願いします」と小さく頭を下げ、それに腰を下ろした。
「えーと、ざっと拝見しましたところ、健康状態に特に問題は無さそうですね」
 机の端に置かれたモニタと手元の紙を交互に見ながら、医者はそう言って。
「こちら、斉藤クリニックというのは、これ、いつから通われて?」
 それから今通っている心療内科の名前を不意に言われて、彰は背中を叩かれたような気分になる。
「……そう、ですね、あの、ひと月半程前から、です」
 我ながら硬い声だ、そう思いながら告げたのに、医者は何でもないような顔と声で「ああ、そうですか」と言って、また紙をめくった。
「これは、何か、あれですか、気持ちがしんどくなるようなことでも? あ、別にいいんですよ、おっしゃられなくてもね、そこまで個人的なことはね」
 おっとりとした口調でそう言われて、彰は一瞬考えてから「ちょっと、仕事で。忙し過ぎるのと、人間関係が」と言うと、医者はこちらを見ないまま大きくうなずく。
「そうですか、そうですか。いや、多いですよ今そういう方はね。皆さん同じです。よく言うでしょ、風邪みたいなものって。そういうもんですね。見ましたところ、お薬も軽いものですしね、問題ないでしょう」
「ありがとうございます」
 こちらを力づけるようなそのおおらかな話しぶりに、思わず口元からほっとした息がもれるのを抑えられないまま、そう頭を下げると医者がちらりとこちらを見て微笑んだ。
「いいですよ、そういう方が『パンドラ』を使われるというのはね。将来的にはそっち方面の治療に利用できるんじゃないかとか、そういう研究もね、わたし等考えてますんでね」
「研究……」
 思わず呟くと、医者は柳の葉のような目をくるんと大きく見開いて、手をぶんぶんと振ってくる。
「いや、これは失礼なことを言いました。申し訳ありません」
「あ、いえ」
 彰は急いで小さく首を振った。気になったのはそこではない。
「あの、『パンドラ』のお仕事、もう長いのかと思いまして。中は実際どんな風なのかなあ、って」
「ああ、そうでしたか」
 医者は見るからにほっとしたような顔つきになって、また細い目に戻った。
「いや、まあ実はわたしは、こちらはそれ程長くはないんですけどね。勤めてた大学病院を退職した後、三年程前にお声いただいた、という訳なんです」
「……そうなんですか」
 三年前か、彰は内心の落胆を胸の奥に押し隠す。
「じゃ、『パンドラ』の元の仮想市街のことは、あまりご存じないのですか?」
「え? ああ、そういえば御堂さん、前の実験にご参加でしたね」
 また書類を一瞥してそう言ったのに彰はぐっと緊張したが、医者は何故かにっこりと微笑んで。
「じゃあね、驚きますよきっと。あの頃とはもう、仮想空間の技術が段違いですからね」
 何とも嬉しそうなその顔に緊張を解かれながら、彰はこの気の好い相手なら聞けるかもしれない、と姿勢を正す。
「あの、それじゃ今回の『パンドラ』は、前のあの街とは全然別につくられたもの、なんですか?」
「いえ、そういう訳ではないですよ」
 書類を机の端に置き、もうすっかり世間話モードな雰囲気を漂わせながら医者がこちらに向き直って。
「中でちゃんとね、繋がってます。『パンドラ』で取れたデータをあちらにも反映させたいので」
「……繋がってる」
 彰は思わずごくり、と喉が鳴るのを感じる。
「ええ。何て言いますかね、街の端に付け足すような感じで、ぐるっと壁を巡らせて、その中につくってあるんですね」
 そう説明しながら医者は胸ポケットからペンを出し、傍らのメモ用紙を破ってひとつ円弧を描くと、その線の外側にぼこっと半円を描き足した。
「こんな感じでね。ナイトリゾートゾーンはまあちょっとしたテーマパーク二つ三つくらいの大きさですけど、スカイリゾートやマウンテンリゾートはかなり広いですよ。ほんと、驚きますからね」
「入られたことがあるんですか」
「いやあ、残念ながら。わたし、肺に病気がありましてね」
 好奇心で聞いてみると、医者は心底残念そうな顔でそう答えて。
「だから皆さん、羨ましくてね。特に前の実験もご経験済で、今回『パンドラ』にも入られるなんて、ほんとに羨ましい」
 話の流れがそちら方向に行ったのを見て、彰は最も知りたかった問いをさりげなく口に乗せた。
「……あの時の、仮想人格というのは、今は」
「今もありますよ。市街地の方に」
 そして思ってもみない程にあっさりとその答えが返ってきたのに、息を呑む。
「いるん、ですか」
 つい声が小さくなったのに、医者がまた、あ、と目を大きくして強く手を振る。
「あ、でもね、ご心配なさらず。市街地と『パンドラ』とは、先程も申し上げました通り壁で区切られていて、住人の行き来はできないようになってますからね。リゾートゾーンにいる時に、ご自身の仮想人格とばったり、なんてことは絶対に起きませんから」
「……そう、なんですか」
 意気込んだ気持ちを一瞬で引きずり下ろされて、つい肩が落ちそうになるのを彰は何とかこらえた。
 最近はめっきり感じていなかった、腹の辺りにずしんと重たいしこりのようなものがたまる感覚を覚える。
「はい。まあそんなことになったら、それはそれで、楽しいかもしれませんけどねえ。こっちは現実界で、あちらは仮想空間内で、それぞれ成長した自分自身と遭遇、なんてね」
 こちらの消沈には気づかずいかにも楽しそうに語る医者の言葉に、彰は意表をつかれた。
「……成長、してるんですか」
 思わず尋ねると、医者は笑顔でうなずく。
「ええ、してますよ。ちゃんと時間が経過してますからね。中の方が時間の経過が速いですから、ひょっとしたらあちらの方が成熟してる、なんてこともあるかもしれませんよ」
「え、それは、外見も、ですか」
「ああ、そこはねえ、あまり変わってません。中の時間通りに外見も年を取らせちゃったら、あっと言う間に老人ばっかりの街になってしまいます。研究ですからね。そこはつくった時と、それ程変わってません」
「そうなんですか……」
 安心したような不安なような気持ちが複雑に入り交じって、彰の唇からはついため息が漏れる。
「あっと、すみません、つい無駄話が長くなってしまいましたね。ええと、はい、ひと通り拝見しまして問題ございませんので、『パンドラ』体験にご参加いただけるということで。よろしいでしょうか?」
「え、ええ。勿論です」
 ちら、と時計を見た医者が急に早口になってひと息にそう言ったのに、彰は反射的に背筋をぴんと伸ばしてうなずいた。当然、異論などない。
「ありがとうございます。そうしましたらですね、体験の際にお使いいただくウェアのサイズを合わせますので、全身の3D計測をしていただきます。外に案内の者がいますのでね」
「え、オーダーなんですか?」
 驚いて聞くと、医者は笑って首を振る。
「いえ、さすがにそこまでは。大まかなサイズの把握と、ウェアの下に着る下着は、衛生面もありますのでお一人ずつに用意しますからその為の測定です。それに頭にかぶる帽子も個人個人の骨格にぴったり合っている必要がありますので、その為ですね」
 成程、と彰は納得して、この気の好い医者に深々と一礼すると、部屋を出た。


 その日から一週間もしない内に、「事前の準備が整ったので、いつでも好きな時に予約して構わない」という内容のメールが『パンドラ』から届いた。
 彰は家から一番近い横浜のアクセスポイントを指定して、空きのあった四日後の予約を取る。
 それから少し考えて、受信メールを遡ると、何度か連絡があったが全く返信せずに無視したままのメールを開いて。
 どう返信しようか、一瞬考え込んだけれど、上手い言葉を考えるのも面倒で「一度会って話したい」という旨だけ返信すると、一時間もしない内に相手から返事が返ってきた。
 向こう一週間内で自分側の都合の良い時間を通知してきた相手に、彰はその一番最初、二日後の夕方を指定した。
 その会合がどういう風に進むのか、ちらっと考えると喉の奥がつかえるような感覚を覚えたが、彰はそれをぐっと飲み下して、無理に夕食を詰め込んだ。


「裁判というのは、どれくらいの時間がかかるものなんでしょうか」
 その二日後、駅前の喫茶店で向かい合った相手に、彰は単刀直入にそう切り出した。
「それは……一概には申し上げられませんが」
 軽くネクタイの結び目に手を当てて、相手は少し困ったような顔でそう答えて。
 席に座る前に相手が差し出した、弁護士事務所の名刺に彰はちらりと目を落とす。
「今はどの辺りまでお話が進んでいるんでしょうか?」
「最初の方に連絡いたしましたが、とりあえずは刑事裁判の結果を確認してから民事での裁判を起こす予定です。多分、あと数ヶ月で判決が出ると思うんですが」
「……まだ、出てなかったんですか」
 もうあの事故から三ヶ月近く経っているのに、と驚きの思いで声が出る。
「長くかかるんです、この手の裁判は。……経過、全然ご覧になっておられないんですか?」
 相手の問いに、我ながら少し恥ずかしい気持ちになって彰はつい目を伏せた。
 犯人がこの先どうなろうが、自分には何の興味も持てなかったのだ。
 皐月が帰ってこないなら、この世の他のすべてがどうなろうがどうだっていい。
「……まあ、悪質性がかなり高い事故ですので、それなりの刑期になることは間違いありません。もし傍聴を希望される場合は、私までご連絡ください」
 彰の沈黙をどう取ったのか、相手は慰めるような声でそう言った。
「ありがとうございます」
 小声で言って、小さく頭を下げる。
「……あの、それで、お伺いしたいんですが」
 更に忸怩(じくじ)たる思いがわきあがってくるのを無理矢理抑えて、彰は重たい口を開いた。
「はい」
「賠償金というのは……幾らぐらい、取れるものなんでしょうか」
 我ながらもったりとした口調でそう言った瞬間、相手の目の光がさっと変わったのを彰は確かに感じる。
 軽蔑……いや、多分相手は仕事柄こういうことには慣れている筈だ、だからそれとは少し違うように思える。
「それも一概には申し上げられません」
 軽く座り直すと、相手は滑舌良くそう言い切って。
「そもそも請求して、それが通ったからと言って、相手方から本当にその全額が支払われるか、というと、そういうものでもありませんし。ただ今回は、奥様を含め四人の方が亡くなられておりますし、お怪我をされた二名の方も、それなりの後遺症が出る診断がついておりますから、請求は億単位での額になるかとは思います」
 ああ……そうか。
 そのきびきびとした話しぶりを見ながら、彰は納得する。これはつまり、完全な「仕事モード」に切り替わった、ということか。
「そういえば御堂さんは、今は精神科にかかられてお仕事も休職中なのですよね。こちら、診断書をお送りいただけますか。こういう損害についても、含めて請求させていただきますので」
「あ、はい」
 それは忘れないように次回の通院の際に手配しないと、そう心の中にメモをしていると、相手は向かいで小さく咳払いをして、目を少し伏せるようにそらした。
「……今現在、差し当たってのご生活に何かご不便が?」
「え?」
「いえ、何かお急ぎでご入り用の件でもおありなのかと……もし何かこちらでお力になれるようなことがあれば、と」
「……あ」
 相手の言いたいことが判って、彰はちょっと顔に血がのぼるのを感じた。
「あ、いえ、今特に困っている、てことではなくて……今後、必要になるかもしれなくて」
「今後」
「はい、あの、まあ、今はほら、仕事も休んでますし……この先復帰できるかどうかも、正直自分ではよく判らなくて。で、それを考えるとますます不安になって」
 もうとにかくこっち方向で押し切ろう、彰はそう心に決めて、眉根を寄せて肩を落としていかにも憂鬱な雰囲気をにじませてみせる。
 正直なところ、大学時代も学費以外はバイトで稼いで乗り切ったおかげもあって、両親の遺産ですらまだ使い切ってはいなかったし、結婚してからは二馬力で、とどめに今回の事故で皐月の保険金が降りることになっていたので、当面の金には些かも困ってはいない。
 ただ……この先が見えない、それは事実だった。
 自分がこの先、どれだけの時間、どれだけのお金を、あの『パンドラ』につぎ込むことになるのかは。
 だから、手に入れられるものはすべて手中におさめておきたかった。
 他のことはすべて投げ出して、『パンドラ』にのめり込めるように。
「ああ、それは確かに、ご不安でしょうね」
 相手の声が仕事モードながら、同情の雰囲気を漂わせたのに、彰ははっと我に返って。
「もし会社の方で、復職の時期や復職後の対応などについて何か問題があるようでしたら、そちらもご遠慮なくご相談ください。まとめて対応させていただきますので」
「すみません、ありがとうございます」
 彰は大きく頭を下げて――その後、幾つかの事務的な話と挨拶を交わして店を出ていく相手の背中を見送り、ふう、と小さく息をつく。
 最初に口をつけたきり、殆ど飲んでいなかった冷め切ったカフェオレをひと息に飲み干し、彰も店を出て。
 まだ時間は六時頃だったが、十一月の陽はもう完全に落ちていて、辺りは真っ暗だ。
 無防備に開いていたコートの襟元に吹き込む風が冷たくて、彰はぶる、と身を震わせると歩き出す。
 数歩歩いて、何気なく振り返ると、空に月が出ていた。
 目を細めて、それを見上げる。
 あと二日だ。
 あと二日で、予約の日が来る。
 行くんだ、あの『パンドラ』へ。

 ――皐月のいる、あの街へ。
   
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