迷い

文字数 8,212文字

   
 頭の中は熱く煮えたぎって様々な言葉が渦巻いているのに、口からは一言も声が出なかった。
 彰は音を立てて息をしながら、目の前に立つシーニユを凝視する。
 彼女は顔色ひとつ変えずに、ただその場にたたずんでいた。
 ――御堂さんが『パンドラ』に来られたのは、仮想都市にいる皐月さんと会われる為、なのでしょうか?
 彼女の問いが頭の中で繰り返し響いている。
 それが正しいことは、当然判っていた。
 だから一度、うなずけばいいことだ。
 なのにどうしてか、彰はそれができなかった。
 仮想都市にいるかもしれない英一に会いたい、という言葉は、こんな葛藤を感じること無く発することができたのに。
 死人に会いたい、という意味では同じ希望なのに。
 それなのに。
 彰はゆっくりと胸を上下させながら、大きく呼吸した。
 会われる、為。
 いや、そうじゃない、そうなんだけどでもそうじゃない、そういうことじゃ……なくて。
 自分の望みは。
 彰は急に強い目眩を感じて、わずかにふらつく。
「御堂さん」
 近づいてこようとするシーニユを、彰は片手を上げて止めた。
「……だいじょうぶ」
 乾いた声で呟く言葉が、どこか他人のもののように聞こえる。
 彰は胸を押さえて、もう一度深く呼吸した。
「シーニユ」
「はい」
「説明を……話を、したい」
「どれについてでしょう」
「全部だ」
 彰が言うと、シーニユは黙った。
「全部……僕と皐月の話を、全部。君に、聞いてほしい」
 シーニユは二秒程黙って、それから「判りました」とうなずいた。


 今度は逆にゆっくりと腰を落ち着けて話したくて、彰はシーニユの案内で『Café Grenze』に向かった。
 店に入るやいなや、シーニユはメニューを見ることも彰の意見も聞くこともせずに「ロイヤルミルクティー、シナモン付きを二つ」と注文をしてしまう。
 呆気に取られている彰を尻目に、シーニユはすたすたと歩いて一番奥の、いつもの席に腰をおろした。
 ……まあ別に、嫌いじゃないし、いま特にこれが猛烈に飲みたい、という希望があった訳でもないし、いいか。
 彰は自分にそう言い聞かせて向かいに座る。
 しん、としずまった店内に、振り子の音と茶葉と水を火にかける音がやけに大きく響く。
 少しして、シナモンスティックが添えられた二つのカップがテーブルに置かれた。
「すみません、ちょっと余人を交えずに会話がしたいのですが」
 運んできたマスターにシーニユがずいぶん古めかしい言い方で頼むと、相手は理由も聞かずにこくり、とひとつうなずく。
「では、しぱらく広場の屋台の手伝いでもしてまいります。済みましたらお呼出しください」
 彼はそう言って、カウンターに戻ると中から「Closed」と書かれた札を取り出し、外に出ていった。
「なんか、悪いな」
 その背中に自分が追い出したような気がして彰が呟くと、シーニユが首を振った。
「私共はお客様により良い状況で『パンドラ』を楽しんでいただくことが勤めです。今の時期は広場に人が集中しますので、手すきの者は広場近辺にいることを推奨されていますし。ここには普段、通りすがりの方が偶然来られるくらいですから、御堂さんが気になさる必要はありません」
「そうなんだ……いい店なのにな」
 小さく言いながら、彰は茶色みの濃いクリーム色の紅茶に少しだけ砂糖を入れて、シナモンスティックでくるりと混ぜる。
 ふわりと広がったシナモンの香りが、生々しいすり傷を負った心の表面をわずかに落ち着かせた。
 ひと口含むとカップを置いて、軽く息をつく。
 シーニユは自分の紅茶には手をつけずに、そんな彰の一連の動作をじっと見守って。
「……どこから、話せばいいかな」
 やがて彰は、重い口を開いた。


 長い長い話の間にいつもの残り時間の半分を知らせるアラームが鳴ったが、シーニユは今日は何にも言わず、彰もそれに無反応に話し続けた。
 結婚してからの日々を語りながら、ふっと途中で言葉が切れる。
 更に続けようとして唇を開くのに、声が出てこない。
 息はできるのに、何かが喉を塞いでいる。
 シーニユは無言で彰を見つめている。
 彰はしばらく金魚のように口だけを動かした後、どうしようもできなくて冷め切った紅茶を口に含んだ。
 砂糖とミルクとシナモンの甘さが、やんわりと頬の内側に染み込む。
 その甘さに気持ちがすうっと、下に落ちてきて――ああ、そうか。
 言いたくないんだ。
 この先は、言いたくない。
 彰はカップを置いて、わずかにうなだれた。
 この先は、あれしかないから。
 あの、事故の話しか。
 もう一度息を吸って、彰はようよう、口を開いた。
「ちょっと、教えてほしいんだけど」
「はい」
 彰が話し始めてからずっと無言を貫いていたシーニユが、即座に答える。
「ここ、ゲストはネット接続できないけど、君達もそうなのかな」
「そもそもここのサーバは外のネットとは繋がっておりません。外部からの攻撃や情報の盗難を防ぐにはそれが最適ですから。仮想都市や『パンドラ』、ゲスト用の接続機器、各アクセス場所などはすべて専用線を引いてイントラネットで繋いでいます」
「じゃ、外の情報は入ってこない訳? ニュースとか」
「それはあります。そうでないと、お客様と世間話もできませんから。ほぼリアルタイムで、各国の主要紙のネット版やニュースなどテレビのネット放送、映画や音楽などの情報を一度保存してからこちらに取り込んでいます」
「それはデータベース化とかされて、すぐ引っ張ってこられるものなの?」
「はい」
「なら」
 彰は一度言葉を切って、もう一度深呼吸した。
「八月の下旬の、横浜での車と複数の人との事故、それが」
 それが皐月の、死んだ原因だから、とそれさえも口にできずに彰は絶句した。
 せめて日付を言おうと口を開いてまた声が出なくなるのを感じるのと同時に、シーニユが素早く「確認しました」と短く言って。
 彰は全身から力が抜けて、背もたれに深くもたれかかる。
 シーニユはそれ以上は何も言わずに、じっと彰を見た。
 灰色の瞳に、オレンジがかった店の照明のいろが揺れている。
 ……その中に、何があるのか。
 彰は彼女の瞳をまともに見返すことができずに、やや目を伏せる。
 今の話に、何か言いたいことがあるのか、それとも無いのか。
 ――御堂さんが『パンドラ』に来られたのは、仮想都市にいる皐月さんと会われる為、なのでしょうか?
 先刻言われた言葉を思い出して、彰の喉がひくり、と波打った。
「……判ってるんだよ」
 それと同時に、勝手に低い声が出る。
 シーニユの睫毛が、かすかに揺れた気がした。
「莫迦な望みだって、何にも意味が無いことだって、全部判ってるんだ。承知の上なんだよ」
 向こうから何を言われた訳でもないのに何故か言い訳がましい口調になってしまう自分を、彰は苦く感じる。
「皐月はもう死んでる。百パーセント、死んでるんだ。絶対に戻ってこない。判ってる、そんなこと。ここに、あの都市にいる皐月はただの仮想だ。現実じゃない。卒業式も、就職も、プロポーズも、結婚式も、二人暮らしも、何ひとつ共有してない。あれは俺の皐月じゃない。判ってる。判ってるんだよ、でも」
 自分の奥から何かがマグマのように噴き上ってくるのを感じながら、彰は息もつかせず早口に喋った。
 シーニユはただ黙って、それを聞いている。
「声が、聞きたい」
 知らぬ間に膝の上で握りしめていた両拳が、ぶるぶると震えた。
「あの声が聞きたい。名前を呼ぶ声。笑う声も。拗ねた時の頬が見たい。華奢(きゃしゃ)な手首に触れたい。きらきらして、真っ黒で、大きな目が見たい」
 独り言のように呟く声も、細かに震える。
「……逢いたいんだ」
 そして言葉と同時に、きら、と何かが光って両の拳の上に落ちた。
 ……え?
 彰はその光景と、手に触れたその感触に、一瞬すべてを忘れて驚愕する。
 涙。
 思わず深く深呼吸すると、それはまた、ぱたぱた、と拳の上に落ちた。
 俺……泣いてる。
 どこか他人事のようにそれを眺めながら、彰は胸の内で呟いた。
 初めてだ。
 火葬場でたったひと筋流した涙、あれ以来。
 あれから何をどう思い返しても、涙なんて流れなかったのに。
 何の前触れも無く突然膝の上に涙が落ちる、その光景は、いつか皐月を祖母の家まで送った帰りに車の中で見たそれに似ていた。
 ――わたし、何でもする。
 そしてその時に皐月に言われた言葉。
 その声が脳裏に響くのと同時に、喉からずるりと、勝手に言葉がはいでてくる。
「逢いたいんだよ。逢って、姿を見て、声を聞くだけでいい。他には何にも要らない。ここには仮想の俺だっている。きっと二人は今も一緒だと思う。それも判ってる。ただ、見るだけでいいんだ。俺と同じ俺なら、絶対に判って、許してくれる。見てるだけでいい。週に一回、ただ見つめるだけ、それだけでいいんだ。でないと」
 握った手とそこに落ちた涙を見つめながら、彰はひたすらに話し続けた。
「でないと俺は、生きていけない」
 向かいでシーニユがどんな顔をしているのか、それを見るのが怖くて顔が上げられない。
 いつもの無表情なのか、それとも。
 どちらであっても、何故か今は見たくない気がした。
「判るんだ。自分のことだから。今は病院に行ってるけど、多分その内、行かなくてもよくなる。仕事に復帰して、友達にも会って、飲み会やコンパにも行って、時々は皐月のご両親にも会って、墓参りもして、まるで何にも無かったみたいに普段通りに日々を過ごして……ある日突然、何の変哲も無い朝に、剃刀で手首を骨が見えるくらいまで切るんだ」
 ふつふつと語り続ける彰の顔色は、今や蒼白に近い。
「すごく当たり前に。仕事帰りに歩いて帰って、通りがかった歩道橋から鞄を持ったままひょいっと飛び降りる。毎日毎日、普通の顔して暮らしながら、ある日突然、ふいっとそっちに踏み外すんだ。いつかそうなる。自分で判る」
 一度言葉を切って、彰は深く息をついた。
「でも、もしここで皐月に逢うことができるなら、それが止められる」
 不意にまたこみ上げてくる涙を、彰はぎりぎりでこらえる。
「週に一回、あの姿を見ることができたら、それだけの為に俺は残りの人生を何とかしのいでいけると思う」
 涙をこらえたまま息をすると、喉がかすかに笛のように鳴った。
「無意味なことだって判ってる。何ひとつ進展なんてしない。進歩も未来も無い。失くしたものにすがりついてる。でも俺にはそれしかない。俺の人生、他には何にも無い。どんなに無価値なことだって判ってても、俺にはそれが、生きていくたったひとつの(たの)みなんだ」
 言い終えると同時にまたぽつり、とひと粒だけ涙が拳の上に落ちて。
 彰はそれを、どこか無惨な思いで見つめた。
 戻ってきた。
 あの時以来完全に失いかけていた、その後少しずつ取り戻して、けれどある一線から先は虚無の渦に落ちていた自分のすべての感情が、今ここにすっぽりと戻ってきた。
 それは荒地のようで、暗く重たく雲がたれこめていて、びゅうびゅうと冷たく厳しい風が吹き荒れていた。
 けれどすべてが、自分そのものだった。
 この、生きるものの姿の何ひとつ見えない、荒れ果てた空っぽの土地が。
 思わず深い息をつくと、向かいでほんのわずかに、シーニユが身じろぐ気配がした。
 はっと目を上げると、彼女は指先でシナモンスティックをつまむように持って、くるっと紅茶を一混ぜして。
 スティックをソーサーの端に置くと、すっと目を上げて彰を見た。
 その瞳は、いつものように不可解な灰色のヴェールがかかっている。
 唇が開いた。
「何故このお茶を注文したか、判りますか」
「……え?」
 あまりにも予想外なことを聞かれて、彰は面食らった。つい今しがたまでしていた暗い話が全部吹っ飛んでしまうくらいの破壊力だ。
「え、いや……ごめん、全然」
 彰が首を横に振るのに、シーニユはどうということもない、といった様子で小さくうなずいた。
「ミルクの甘さとシナモンの香りは、気持ちを落ち着かせます。コーヒーがお好きなようですが、今はあの苦みはかえって気分を荒れさせる、と判断しました」
「ああ、そうなんだ……お気遣いありがとう」
 その説明にも何をどう返せばいいのか判らず、彰は我ながら間の抜けた返答をして軽く頭を下げる。
「人工人格には『迷い』がありません」
 と、シーニユがまっすぐにこちらを見たまま、そんな言葉を口にした。
「えっ?」
「人工人格が肉体を持って現実界で暮らしていると仮定します。お昼になって、ヒトは今日は何を食べようか、と迷うでしょう。カツ丼が食べたいけれど、健康を考えたらざる蕎麦にすべきだ、でもどうしよう、そんな風に」
「…………」
 もはや相手が何の話をしているのか全く読めなくなって、彰はただただ呆然と、一方的に話し続けるシーニユを見つめる。
「人工人格は迷いません。アレルギーの有無、好き嫌い、健康状態、前後のカロリー摂取状況、店の場所や込み具合など、複合的な条件から選択肢の中で最良と判断されたものを選択します。でもヒトは、それ等すべての条件がざる蕎麦を指していたとしても、そちらを選べずに悩んだり、最終的にはカツ丼を選んでしまったりするでしょう。仮想人格も同様です。でも人工人格には、そういうことはありません」
 シーニユは話しながら、一瞬だけ目前のカップに目を落とした。
「AとB、二つの選択肢があって、あらゆる状況が百パーセント、Aを選ぶべきだと判定されている。たとえ二つそれぞれの内容がどういうものであろうとも、人工人格は即座にAを選びます。ですがヒトは違う」
 彰の胸の奥の方で、ことっ、と何かが動く音がした。
「すべての状況がBは間違っていてAが正しい、と示していたとしても、ヒトはAよりBを取りたい、と迷い苦悩します。時にはどれだけ間違っていると自分で判っていても、Bを取りにいく。それができるのは、ヒトと、ヒトをトレースした仮想人格だけです。人工人格には『迷い』という状態は有り得ません。それはヒトの、驚異的な能力です」
 ……ああ。
 彰は先刻とは違う呆然とした思いをもって、目の前のシーニユを見つめた。
 そうか……肯定、されているのか。
 自分は肯定されている。
 ずっと思ってた。ここへ来て都市にいるだろう皐月に逢いたい、でもそんな望みは誰にも言えない、そう。
 宏志や皐月の両親が知ったら、血相を変えて自分を止めるだろう。医者にも懇々(こんこん)(さと)されるに違いない。そんなことをしても何にもならない、意味が無い、かえって君の精神に良くない、亡くなった彼女にも失礼だ、辛くても未来に目を向けていかなきゃ駄目だ、そんな風に。
 深い厚意や友情や優しさをもって、全力でそれは間違っている、そう自分に言うのだろう。
 でも判ってるのだ。
 そんなことは誰に言われなくても、自分が一番、よく判ってる。判っていてもどうしようもないのだ。
 けれど目の前の彼女だけが、それを受け入れていた。
 何の意味も価値も無い、すべてが間違った行為。
 でもそれを選べるのは、ヒトだけなのだと。
 だったらそれでいいんだと。
 どれ程愚かでも無意味でも心底から望むならそれでいい、そう肯定してくれているのだ。
 彰は大きく深呼吸して、まじまじと向かいの無表情なままのシーニユを見た。
「……ありがとう」
 呟くと同時に涙が落ちそうになるのを何とか押さえて。
 シーニユの眉が0・3ミリ程寄った。
「お礼をいただくような覚えがありませんが」
「俺にはあるよ」
 ようやっと本当に全身が楽になってきて、彰は力の抜けた笑みを浮かべて。
 すっとカップを取って、残りをひと息に飲み干す。
「このお茶を頼んでくれた。それだけでも充分、お礼に値するよ。ありがとう」
 彰が微笑んでそう言うと、シーニユは黙ったままわずかに小首を傾げた。


「『パンドラ』にいる人工人格は、大体オープンの三年程前からつくり始められています」
 それからシーニユは、『パンドラ』の人工人格と都市の仮想人格についての関わりについて説明してくれた。
 最初につくられたのは、特別な技能を必要とする人工人格。ナイトゾーンで言えば楽器の演奏やカジノのディーラー、ここのマスターのように料理や飲み物をつくれる人達。さすがにオペラは、現実の楽団と契約を結んで3D録画したものを舞台にはめこむ形で上演しているそうだが。
 そういう人工人格については、現実の技能を持つ人達にログインしてもらい、動作や筋肉の動き方、視線などを記録し、それをトレースして、更に技能指導を重ねて制作する為、時間がかかったのだそうだ。
 それから案内係や服屋の店員のような、ゲストサービスの為の人工人格。こちらもかなりみっちりとした指導を受けたらしい。
 最後にシーニユのような、時には一般人を装いつつ、街のにぎわいに華を添える為の人工人格。特殊な技能は必要とはしないものの、他の人工人格ではそれ程無くても目立たない「個性」というものが重視される為、これはこれで、相当な教育を課せられたそうだ。
 そして研究者達と共にその指導にあたったのが「仮想人格」達だった。
「残念ですが、指導を受けた中に美馬坂さんはいませんでした。御堂さんや皐月さんにもお会いしたことはありません。ただ」
 強くは期待していなかったが落胆しかかった彰に、シーニユが言葉を続ける。
「仮想人格の方々の中には、もともと現実で使っていた名前とは別の名前を使われている方もいるそうです。また、容姿についても自由が利くので、元の姿とは全く違う外見の方もおられるとか。ですから指導を受けた中にお三人の中のどなたかがいた、という可能性はゼロではありません」
「そうなんだ……でも多分、俺と皐月はその辺のことは変えてない気がするな。美馬坂くんは判らないけど」
 彰は呟き、シーニユは「そうですか」とひとつうなずいた。
「現在『パンドラ』の人工人格達は、それぞれのゾーン内で一日を過ごしています。ただ、都市内に入ることは可能です。仕事の質の向上の為に教育を受けたい、と申請すれば、都市に入る許可は出ますから。しかし、逆はできません」
「逆?」
「都市にいる仮想人格が『パンドラ』に入ることはできないのです」
 彰はみるみる気持ちが沈んでいくのを感じながら、シーニユを見た。
「御堂さんのように、都市に仮想人格が存在する方で『パンドラ』に来られたり、ご当人が参加されていなくても知人や家族が参加されていた、という方もおられます。万が一にも出逢ってしまったら大きな問題となりますので、仮想人格は『パンドラ』には入れないようにゲートが設定されているのです」
 そういえば最初に受けた健康診断の問診でも、医者が同じようなことを言っていたっけ、と彰はあのいかにも気の好さそうな老人の姿を思い浮かべる。
 そうか、やはり無理なのか。
 心臓が落ちてしまったみたいにどんよりと気持ちが暗くなる。
「ですから方法は二つです」
 だがその彰の落ち込みを完全にスルーして、ごく真面目な顔でシーニユが口を開いた。
「えっ?」
「わたしが仮想都市に入り、美馬坂さんやあちらの御堂さん、皐月さんから話を聞き、それを御堂さんに伝えるかたちでやりとりをする」
 彰はぱちり、と大きく瞬きをした。
 今、ものすごく耳慣れない単語を聞いた。
 頭が一瞬の内に目まぐるしく回転する。
 耳に感じた巨大な違和感、これは……そうだ。
 彼女は彰の内心の驚きに気づいているのかどうなのか、全く無反応に話し続ける。
 初めてだ。
「あるいは、どうにかして御堂さんご自身が、仮想都市に潜入する」

 ――彼女が初めて、「(わたくし)(ども)」ではなく、「わたし」と、そう言ったのだ。
   
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