ほろ苦く、甘い

文字数 8,283文字

  
 シーニユの言葉の意味が判らなくて、彰は二、三度瞬いた。
 いや、単語それぞれの意味は知っている。
 けれど文章として、理解ができなかった。
 ただ呆然としている彰を、シーニユは何の表情も浮かべずに無言で見つめている。
 こく、と彰の喉が鳴った。
「いや……でも」
 自分でも何を言おうとしているのか判らない、無意味な言葉が口からもれる。
「でも……でも、さ」
 彰は混乱しきった目で、シーニユと英一を交互に見た。
「でも……どうにか、ならないの」
 その目がうつむいたままの英一の上で止まる。
「今までだって、いろいろ、どうにかしてきたじゃない。何とか……今の彼女のログをよそに保管しておいて、後で戻すとか」
 英一は小さく首を振った。
「今回の調査に対して確実に安全な保管場所、なんて正直僕にも判らない。今使ってるこの『穴』だって、下手すると見つかる。僕のログについても徹底的に洗われることは間違いないから、そこに隠すのも無理だし」
 彼にしては珍しくぼそぼそとした口調で言うと、ちらっと奥の壁に目をやって。
「あのホットラインも、撤去しないと。でも、そうしたら……シーニユ達の記憶が消える以上、僕がこっちに来られるのは、今日が最後だ」
 また、彰の胸に鈍い衝撃がきた。
 そうだ、そもそもは自分が頼んで彼女に英一を呼び出してもらって、こうして会えるようになったのだから……彼女の記憶がなくなれば、それもできなくなるのだ。
「あの……あの、でもさ」
 とにかく何かできることはないか、頭をフル回転させながら彰はまた意味もなく言葉を繰り出した。
「でも……でも、ああ、でも、告発することは決まってるんだから……だから、もう、別にいいんじゃないの、知られたところで。間に合わないよ、握りつぶそうったって。もう準備は整ってるんだ」
「告発の内容を裏付けるには、美馬坂さんのお姉さんの証言が不可欠です」
 我ながらむちゃくちゃなことを言ってる、そう頭のどこかで思いながらも言わずにおられない、そういう気持ちをいつもと変わらないシーニユのなだらかな声が押さえつける。
「彼女や他の家族が神崎さん達の告発内容をすべて否定したら、それで終わりです。美馬坂さんや他の方の肉体がいわば人質として機関側に握られている以上、告発前に機関にその情報を知られるのは致命的です」
「判ってる、そんなの判ってるよ、でも……!」
 闇雲に首を振って言い返そうとして、「でも」より先に続く言葉が見つけられない。
「その上、機関側には『事業』があります」
 そんな彰に涼しいまなざしを向けて、シーニユは駄目押しを続けた。
「それはつまり、ある程度までの『洗脳』的な能力を機関側が持っている、と言い換えられます。御堂さんが神崎さんのお宅にいて、告発に神崎さんと磯田さんが噛んでいる、と機関が把握すれば、たとえ多少手荒い手段を取っても皆さんの身柄を押さえて仮想空間で考えを変えさせる、というのは効果的な方法でしょう」
「そんな」
 彰は絶望感を覚えながら彼女の目を見返す。
「いや、でも俺はともかく、神崎先生達は仮想空間には入れないんだから、無理だよ、そんなの。磯田先生は人工肺だし、神崎先生も持病があるし」
「病気がある方は仮想空間に入れない、のではありません。『入らせない』のです」
 噛んでふくめるように、シーニユはゆっくりと話した。
「利用者の肉体に配慮をするが故に入ることを許可しない、のであって、機械側の稼働的な問題で入れない訳ではないのです。ですから、ただ入る、だけなら体に病気があっても問題ありません」
「そんな、だって、万一のことがあるかもしれないのに……!」
 そんな非道なこといくら何でも、と言いかけて、機関の英一達に対する処遇や『事業』の内容について思い出し、彰は口をつぐんだ。確かにここを完全に停止させることを阻止する為なら、それくらいのことは引き換えにする可能性は充分にある。
「御堂くん」
 すると、黙って二人のやりとりを聞いていた英一が顔を上げた。
「もし、シーニユがこれに関わっていることがばれたら、機関はどうすると思う」
「え?」
 英一はマスターの瞳を通して、厳しい目で彰を見ている。
「彼女は人工人格だ。しかも特殊技能持ちじゃない、ノーマルタイプ。ナイトゾーンには三桁単位で存在している。再教育したりするより、人格ごと削除する方が早い」
「…………」
 彰は完全に言葉を失って、英一を見つめ返した。
「たとえほんのわずかでも機関に現状を知られる可能性を残しちゃ駄目だ。君や僕の為だけじゃなく、シーニユの為に」
 彰はそうっと、シーニユの方に顔を向ける。
 彼女は白い頰と無感情な瞳で、それを受け止めた。
「こちらのことはご考慮いただくに及びません」
 そして、唇を開いて淡々と話す。
「ただ、確実な告発を行う為には、私共(わたくしども)の完全な記憶の書き換えが絶対に必要です。ですから御堂さんには、少しでも早くこの店を出て、こちらの書き換えの負担を減らしていただかないといけません」
 ――私共。
 前と同じ、頑なな人称に戻ったことに彰はずきりと痛みを感じた。
 わざとだ。
 敢えてこんな風に、自分が「人工」なんだ、ということを見せつけて、記憶が消滅することなんてどうってことない、と思わせようとしているんだ。
「シーニユ」
 ぴしりと言い切った彼女に、英一がたしなめるように声をかけた。
「僕は、少し外に出てるから。だから、二人でちゃんと話して」
 英一は立ち上がると、すれ違いざまにぽん、と軽く彰の肩を叩いて店を出ていった。


 彰は出ていく英一の後ろ姿を見ることもできずに、ただうなだれていた。
「御堂さん」
 そこにシーニユが声をかける。
「御堂さん、わきまえてください」
 まるで小学生を教える先生のように、シーニユは我慢強い声でそう言って。
「これが最善の選択です」
 彰はぐっと頰の内側を噛んで、両の手を握りしめる。
 そうだ、判ってる……すべてがその選択が正しいと指してる、だから彼女は、躊躇なくそれを選ぶのだ。
 だけど。
「判ってる、でも……君の記憶が、消えるなんて」
 歯の間から言葉を押し出すと、シーニユの頰がわずかにやわらいだ。
「御堂さんの記憶が、すべて消える訳ではありません」
「え?」
 そして予想外のことを言われて、彰は顔を上げる。
「初回の体験、この店に初めて来られた時のこと、覚えておいでですか?」
「うん、勿論」
「あの時は榊原さんの件がありましたから、書き換えてしまうと矛盾が生じてしまいます。ですから初日にお会いしてお話ししたことについては、そのまま残します。御堂さんのことを忘れてしまう訳ではありません」
「…………」
 すらすらと話されて、一瞬だけ浮かび上がった心がまたすぐに沈んだ。
 彼女の中から完全に自分が消滅する訳ではない、それは確かに喜ばしい。でも……結局あの日以降のことは、すべて消えてしまうのだ。
 もし次にシーニユに会っても、彼女にとって自分は、この店でほんの一回会って、少し話をしただけのゲストに過ぎなくなっているのだ。
 彰は喉の奥がきゅっと狭くなるような感覚を覚える。
 うつむいたままの彰を見つめるシーニユの瞳がふっと柔らかみを帯びると、かたりと立ち上がった。
「コーヒーをお淹れしましょう」
「え?」
 突然の宣言に驚いて顔を上げると、彼女はすたすたとカウンターの中へと歩いていく。
「コーヒーって、シーニユ」
「時々、マスターに教わっているんです。マスターの腕を知っている方に、一度飲み比べていただけないかと思っていたので」
 まるで普通の世間話をする口調で言いながら、シーニユは大きな缶から豆をメジャースプーンで取り出してミルで挽き始めた。
「初めてこの店に来られた時に飲まれたEinspänner、あれをおつくりします」
 そう言いながらコーヒーをつくっていく、その様子は確かにマスターの手際の良さとは比べものにならなかったが、手順に危なげさや迷いは全く見られなかった。
 彰は椅子に座ったまま、上半身をねじってその姿を見つめて。
「人間の記憶喪失には、いくつか種類がありますね」
 と、竹べらでコーヒーをかき混ぜながら、シーニユは突然話し始めた。
「えっ?」
「数日間だけの記憶が無い、とか、自分の名前や家族、生い立ちまで忘れてしまったり、とか」
「ああ……うん」
 彼女の話の意図が判らないまま、彰は曖昧にうなずく。
「ですが、脳に物理的な損傷でもない限り、大抵のケースでは言葉まで忘れてしまう、着替えや食事などの日常動作まで完全にできなくなってしまう、ということはないようです」
 ランプの火を消してもう一度コーヒーをかき混ぜながら、彰の方を見ずにシーニユは淡々と話し続けて。
「それと同じです」
「……え?」
 フラスコの方にゆっくりとコーヒー液が満ちてくるのを、シーニユは真剣そのもののまなざしで見つめている。
「親のことを忘れてしまっても、親から教わった言葉や社会常識は忘れない。つまり、出来事の記憶は失われても、日々の時間の中で学習したこと、成長し変化したことを忘れてしまう訳ではないのです」
 完全に落ち切ったコーヒー液を二重ガラスのグラスに注いで、シーニユは冷蔵庫から泡だてた生クリームを取り出して。
「御堂さんとここで初めて出会ってから今日(こんにち)に至るまで、わたしは様々な学習をし変化を遂げました。御堂さんの記憶を失っても、その変化が失われる訳ではないのです」
「…………」
 彰は息を飲んで、とてつもなく慎重な手つきで生クリームをコーヒーの上に注いでいるシーニユを見つめる。
 いつもと変わらないように聞こえる、淡々とした無感情な喋り方――けれど今度は、「わたし」とはっきり口にした。先刻までのようなこちらを突き放そうとしている態度とは違う、きちんと彼女自身としてこちらと向き合おうとしている。
「……シーニユ」
 かすかな声で名を呼ぶと、クリームを注ぎきった彼女がふう、と珍しく大きな息を吐いて背筋を伸ばした。
「どうにか、できたと思います」
 できあがったそれを見ると、確かに完璧に漆黒のコーヒーとまろやかに白い生クリームの層が分かれている。
「ご試飲くださいますか」
 カウンターにグラスを置かれて、彰は立ち上がった。
 丸椅子に腰をおろすと、グラスを手に取る。
 その指先に何の感触もしないのに、はっと我に返った。
 そうだ……今の自分、宏志の体を借りている、この状態では……味など、判らない。
 ごくりと息を飲んでシーニユを見やると、彼女は目の端にわずかにぴりりとした緊張を漂わせてごくごく生真面目にこちらを見ていた。
 そうだ、この接続はあくまでイレギュラーな方法で、自分と宏志の神経がどういう風に『パンドラ』とリンクしているか、そんなことはシーニユには説明していない。その上、いつか自分は彼女に「自分といる時は生体データを取らないでくれ」と頼んだ。
 だから間違いなく、彼女は知らない。今の自分に、味覚が無いことを。
 彰はもう一度グラスを持ち直して、そっと唇に近づけた。
 ごくり、と一口、中身を飲み下す。
 喉が動いた感覚は判った。多分実際に、ポッドの中の自分自身の肉体の喉が動いて唾液を飲み込んだのだ。
 けれど口の中には、味どころか、熱さも冷たさも液体の流れ込む感触すら無かった。
「どうでしょうか」
 試験や面接を受けている生徒のように深刻な顔つきで、シーニユが尋ねてくる。
「……うん、おいしいよ」
 唇の端で微笑んで、彰はそう答えて。
 胸の奥では、痛い程の嵐が渦巻いている。
 ああ、自分は今、痛切に……この味が、知りたい。
「勿論、マスターの味とは違うけど、でも、……でも、ものすごく、おいしい」
「光栄です」
 ほっとした様子でわずかに目尻の下がるシーニユの顔を見ながら、彰は今の体が自分自身でないことを猛烈に呪った。


 コーヒーを飲み切ってしまった後、水音を立ててグラスやサイフォンや泡立て器を洗っているシーニユを彰はじっと見つめた。
 さすがにもう、ここを出ていくべき時間だろう、そう思いながらふんぎりがつかない。
「言わなかった、ことがあります」
 と、目線を洗い物に落としたまま、シーニユが口を開く。
「えっ?」
「前回来られた時に、言わなかったことがあります」
 きっ、と音を立てて蛇口を閉めると、洗いざらしの布巾で器具を拭きあげて。
「何故自分や美馬坂さんに協力したのか、そうお尋ねになりましたよね」
「ああ、うん」
 その会話を思い出して、彰は話が見えないままうなずく。
 あの時は確か、英一を連れてくるまでは「規範」内で彰の希望をかなえる為で、それから後は、事故や「事業」は『パンドラ』の為につくられた彼女自身の倫理観にそぐわないから協力したのだ、そんなようなことを話していた。そのきっぱりとした、誠実な態度につくづく感銘を受けたものだ。
「あの時の答え、あれが全部ではありません」
 きっちりと拭きあげたグラスを明かりにかざして、彼女は目を細める。
 その思いもよらない言葉に、彰は目をしばたいて。他に一体、どんな理由があったというのか。
「わたしが、そうしたかったからです」
「……え?」
 グラスに一点の曇りも水滴も無いのを確認すると、シーニユは後ろを向いてそれを背後の棚にしまった。
「御堂さんの力になりたい、自分にできることがあればそれをしてこのひとを助けたい、わたし自身がそう思ったから、だから違反となる行動にも躊躇なく動けたのです」
 そして背中を向けたまま、いつものように淡々と語る。
 彰の瞳が大きく見開かれた。
 シーニユはくるりと振り返る。
 ほんの少し小首を傾げたその顔は、やはり見慣れた、薄い陶器に似た真っ白な頰に、灰色の瞳にはわずかの揺れも無い。
 半歩前に踏み出すと、彼女はカウンター越しに片手を差し出した。
「お別れです、御堂さん」
 ――きゅうっ、と彰の胸が締まった。
 ああ、失われるんだ。
 何の言葉も出ないまま、その場から一歩も動けないまま、彰はただ穴の開く程、目の前のその華奢な指を見つめる。
 自分はまた……こうやって、失うんだ。
 こうやってまた、大事なものを失って諦めるんだ。
 皐月、君が……ああ言って、くれたのに。
「御堂さん」
 シーニユが辛抱強い声で、もう一度名を呼んで。
「……いやだ」
 喉の奥から、絞り出すようなかすかな声が出た。
「俺は……もう、いやなんだよ、諦めるのは」
 額の裏に一気に血が集まって、鼻の奥がつうんとなる。
 目の奥から涙が吹き出しそうになるのを、彰は必死にこらえた。
「御堂さん」
 不意にシーニユの声が、ふわりとやわらかくなる。
 それにつられるように、彰は顔を上げた。
 彼女はまだ片手を差し出したまま、彰をじっと見下ろしている。
 目線の為に伏せ気味になった瞳はどこかダヴィンチの描く聖母のようだ。
「御堂さんがこの店を出られたら、すぐに美馬坂さんに記憶の書き換えを頼みます」
 彰はもう何も言えないまま、無残に荒れた心を抱えて、あっさりとそう話すシーニユを見つめた。
「先刻もお伝えした通り、学んだものは消えません。記憶を書き換えても、そういう意味での損失はないのです」
 口元にうっすらと微笑みのような気配さえ漂わせ、しずかに彼女はそう語って。
「それに、すべての条件が、一秒でも早く記憶の書き換えを開始することが最適解である、そう指しています」
 そこで一度言葉を切って、彼女は小さく息をついた。
「シーニユ……」
 すると彰の目の前で、彼女の顔つきがみるみる変わった。
 目元がきゅっと上がって、それに引っ張られるように頰骨と口角が上がり、頰の内側から輝くような赤みが浮かぶ。
 それは確かな「微笑み」で――けれど瞳は、オレンジの明かりをいつもより遥かに反射して、濡れた石畳のようにきらきらと輝きを放って彰をまっすぐに見据える。
「なのに」
 そして唇だけがくっきりと動いて、言葉を紡いだ。
「なのに、わたしは」
 言いかけて、その先を言わずに彼女は一度口をつぐむ。
「……シーニユ」
 今までにないその様子に、彰の口からかすれた声が漏れた。
 シーニユはまた、きゅっと口元を上げて微笑んだ。
「知りませんでした」
「えっ?」
「はっきりと解答の見えている『選択』がこんなにも難しいことがあるなんて、今まで知りませんでした」
 彰の瞳が、また大きく見開かれた。
 それを彼女は、微笑みで見返す。
「『迷い』とは……こんなにも、ほろ苦く、苦しく……甘い、ものなのですね」
「…………」
 彰は息もできずに、その微笑みを食い入るように見つめる。
 ……ああ。
 また涙が、けれど先刻とは種類の違う涙がこぼれそうになるのを、どうにかこうにかこらえる。
 あるのだろうか。
 失われないものが……残るものが、あるのだろうか、シーニユ。
 世界からは一瞬ごとに、あらゆるものが消えていき失われる。
 けれどそれでも、諦めなくてもいいのだろうか。
 皐月。
 君の答えが、聞きたい。
「ありがとうございます」
 彼女は出したままの片手を、更に突きつけるように差し出した。
「御堂さんにお会いしなければ、知ることができませんでした」
 彰は改めて、その白い手をじっと見た。
「……お礼、言ってもらえるような、覚えが、ないよ」
 途切れ途切れにやっとそれだけ言うと、かすかに、本当にかすかに、けれど確かに、くすっ、とシーニユの唇から笑いが漏れた。
「わたしには、あるんです」
 どこかひどく楽しげな声の響きに、彰は顔を上げて。
 シーニユは顔一杯に笑顔を浮かべて、彰を見下ろしていた。
「わたしには、あります。……ありがとう、御堂さん」
 彰は胸の底から大きく息を吐き出して、やっと肩を動かし、その白い手を握った。
 手にも指にも何の感触もなかったけれど、彼女が自分の手をきゅっ、と握り返したのがはっきりと目に残る。
 一度大きく手を振り、あっけなくぱっと離すとシーニユは背筋を伸ばした。
「シーニユ」
 その姿に、彰は声をかける。
「はい」
「頼みがあるんだけど」
「はい」
「そこの……最初にこの店に来た時に座ってた、その椅子に、座ってもらえないかな」
「判りました」
 彰の頼みに何の質問を返すこともせず、いつもと同じように素早く言葉を返して彼女はカウンターを出た。
 一番奥の席、入り口側を向いた椅子に腰掛ける。
「これでいいでしょうか」
「あの時みたいに、本を読める?」
「勿論です」
 一瞬の躊躇なくそう答えて空中を掴むようにさっと手を一閃させると、その指の中にはもう本があった。
 とん、と文庫本をテーブルの上に置いてページを開く。
 ふさっ、と豊かな髪が頰にかかって、本を追う目が一瞬で真剣さと生真面目さを帯びた。
 うつむきがちになったまぶたから頰に落ちるまつげの影と、ひたと閉じられた薄い唇。
 ずっと見つめてきた、目の前の何かにまっすぐに誠実に向き合う姿。
 彰はその姿を、カメラのシャッターのように瞬きの中におさめた。
「……うん、ありがとう」
 やっと唇におだやかな笑みを浮かべて、彰はそう言って。
 シーニユは本から目線を上げて、どこか面白がっているような顔つきで彰を見返す。
「それじゃ……もう、行くよ」
 ぐっと腹の底に力を入れて言うと、彼女は一瞬真面目な顔になり、うなずいた。
「さようなら、御堂さん」
 そしてやさしげな笑顔を浮かべて、そう告げる。
 彰はゆっくりと、丸椅子から降りて立ち上がった。
「また会おう、シーニユ」
 しっかりとした口調で言うと、彼女の瞳がきゅっと細くなった。
 わずかに顎を動かして、うなずく。
「はい。……また、お会いしましょう」
 彰は一度大きく深呼吸して軽く頭を下げると、その勢いで体を翻して店内に背を向け、扉へ歩み寄った。
 振り返らずに、扉を開く。
 そしてそのまま、店の外へと足を踏み出して。
 背後で扉が、ぱたりと閉まった。
 
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