文字数 7,381文字

  
 まだアクセス時間には余裕があったけれど、彰は「クリスマスの広場をもう一度楽しみたいから」と嘘をついて二人を残して店を出た。
 うつむきがちに街角を歩きながら、改めて先刻のシーニユとの会話を思い返す。
 英一は何か嘘をついている。あるいは、話さずに敢えて黙っていることがある。
 それが彰の結論だった。
 急に皐月の事故のことを話し出した、あれはいかにも不自然な気がしたのだ。
 事故のことやこちらの皐月と会話する機会をつくれるかも、そんな話を持ち出して自分を動揺させて、それまでの会話をごまかそうとしたように彰には思えた。
 自分自身の死因について、細かく聞き出されることを。
 それは一体何故だ、と思うと、最初に浮かぶのはやはり彼の死に家族が関わっているのでは、という疑いなのだけれど、「違う」と言い切った、「満ちるにこう伝えて」と話した、あの言葉や態度に嘘やごまかしがあるとは到底思えなかった。あれには強い実感があった。
 交通事故じゃない。おそらくそれは、確定していいように思う。そして英一は、現実の自分の死の原因を知っていて、こちらには隠しているように感じる。
 それは一体何なんだ?
 ふう、と大きく息をつくと、何だか急に空気がひんやりしてきたような気がして、彰は立ち止まった。
 目の前をちらりと何かが揺れる。
「え……?」
 声を出すと、息がほんのりと白くなった。
 引っ張られるように空を見上げると、星が何倍も増えていて――いや、違う。
 雪だ。
 空は一切の雲が無い、満面の星空なのに、そこからちらちらと雪が舞い落ちていた。
「へえ……」
 思わず手を出すと、雪は手の平に触れた瞬間に消える。
 しげしげと辺りや自分の体を見直すと、その「雪」は人体や建物、地面を問わず、何かに触れると同時に消滅していた。冷たさも無く、積もるどころか後には水も残らない。
 吐く息は白かったけれど、でも実際に肉体に感じているのは「寒さ」というレベルとは程遠く、秋の夜に近い、ひんやりとした、全く不快ではない感覚だ。
 広げたままの手を見つめると、指先や手の平に落ちる雪が、触れる瞬間に弾ける泡のように次々とかき消える。
 これが、仮想の街に降る雪か。
 しばらく立ち止まってそれを眺めていると、冬、皐月の実家に里帰りすると、太平洋側で生まれ育った彰には信じられない程の量の雪が連日降ってくる眺めが思い出された。
 冷たく湿り気があって、ずっしりと重たい青白い塊。
 コツを掴むまでは、皐月より自分の方が遥かに雪かきが下手だった。特に最初の時は、引っ越しや運送のバイトでもかくやというレベルの強烈な筋肉痛を味わったものだ。
 舞い落ちてくる雪を掴むようにぎゅっと手を握ってみるけれど、勿論何も掴めない。
 彰は小さく白い息を吐いて、また歩き出した。
 ……皐月。
 祖母が編んでくれたという緑に白いラインの入ったニット帽を深々とかぶって、もこもこのダウンに手首まですっぽり覆う手袋をつけ、スコップを持って、彰の目から見たら驚く程軽そうな動作でさくさくと雪をかく、その姿。
 真似して同じようにしてみたらやたらに重くてたたらを踏んだ、それが可笑しかったのか雪の上にすとんとお尻を落として、きらきらとした笑い声を立てる、その笑顔。
 きゅうっと胸の芯が痛んで、彰は片手で胸元を握り込むようにしてとぼとぼと下を向いて歩いた。舞い落ちる雪を、あまり見ないで済むように。
 ――御堂くんさえ良ければ、この同じ方法で彼女と話ができるよ。
 先刻の英一の言葉が甦って、耳の奥がきいんと鳴る。
 握った手の下で、心臓がどくどく言い出した。
「格別の理由が無いなら、複数の問題について同時に考察する必要はないと思います。先行すべき問題から片付けていくのが順当ではないでしょうか」
 その苦しさを、つい今しがた二人で話していた時にシーニユが言った言葉が食い止める。
 英一についての疑念をひと通り話した後に、珍しく五秒程黙った後に言った言葉だ。
 皐月のことは今は思考停止でいいのではないか、そういうことを言いたいのだと彰は解釈した。
 ……でも、どうしてなのか。
 白い息を吐きながら、彰は足元を見つめて歩く。
 最初にチラシを見て『パンドラ』があの仮想都市の延長だと気づいた、その瞬間に頭のどこかが、ぱっと弾けた。ああ、ここへ行けばまた皐月に会える、と。
 心も体も四角いコンクリートの中にいるようだったあの時の、体の奥から湧き上がってきた光と視界にみるみるいろが戻ってくるような感覚は、今も忘れることができない。
 それからずっと、その願いが自分の生きる要だった。
 だったら何故、自分はあの申し出にその場でうなずけなかったのか。
 それを思うと、口の中に苦い味がした。
 だけど、でも……それはやっぱり、あまりにも違う気がする。
 自分が思ってたのはそうじゃなかった。都市の皐月が『パンドラ』へ来るか、あるいは自分が都市に行って皐月に会うか。それ以外の方法なんて考えもしなかった。
 もし今回と全く同じ方法を取るなら、マスターの中に皐月が入って、あんな風に話すというのか。
 それをイメージしようとすると、吐き気がしそうになった。
 見た目が男性で、しかも老人だから、ということでもない。もしも、万一、シーニユの中に入るとしても、やっぱり想像すると本能的な拒否感がある。
 中身は皐月だとしても。
 やっぱり、不思議だ。
 考えながら、もう体が覚えてしまっている道をたどる。
 もし例えば皐月が事故や病気で二目と見られない姿になったとしても、全く、全然、気にならないと思うのだ。本人にとっては辛いことだとは思うけれど、でも健康上の問題が無くてただ単純に見た目、であるなら自分はカケラも気にならない、それは本当に心から自信がある。自分が大事だと思う皐月の本質は、外見ではなく中身の方なのだから。
 それなのに何故、マスターやシーニユに彼女が入って話す、ということにこんなにも抵抗感があるのか。
 マスターの中身が英一だったことには本当に驚いた。正直違和感は最後まであったけれど、でもここまでの強い抵抗感は無かったのに。
 英一とは次の回にも会う約束をした。それまでに満ちるに何とか上手く話しておいてほしい、そしてその反応を教えてほしい、と頼まれたのだ。
 とは言え、どう話せばいいのか……実験のことは外には洩らせないし。
 考えながら最後の角を曲がると、視界が開けてクリスマスの広場が現れた。
 彰は足を止め、しばし大きなツリーを見上げて。
 ツリーの足元を囲んだ屋台を眺めて、そういえばマスターはもう元に戻ったのだろうか、と思う。
 ――どうして、マスターは協力してくれたの?
 それがどうしても不思議で、先刻二人で話していた時にそう問うと、シーニユが答えた。
「詳しい事情は何も話していません。ただ、御堂さんが必要とされているから、少しの間、体をお貸しいただけないかと、そうお願いしました」
 そんな説明だけでよく、と彰が驚くと、シーニユが続けた。
「ここにいる人工人格の一番の目的は、お客様が望むことをかなえることです。それにマスターは、貴重な常連さんのお願いなら喜んで、とおっしゃっていました」
 そう言われて彰は、あれ、と思い口を開いた。
「それは、君のことなんじゃ?」
 その言葉にシーニユはほんのわずかに首を傾げる。
「その、常連って。それは俺じゃなくて、君のことなんじゃないかな」
 説明し直すと、シーニユはゆっくり、二度瞬いた。
「そういう推量は出てきませんでした。正解とは思えませんが」
「だって今日で四度目、てことは、俺三度しか店に行ってないし。前の回なんて、マスター店から追い出してたし。どう考えてもその常連、て、俺じゃなくて君のことだよ」
 補足しながら、彰は何となくくすんと笑ってしまった。
「君の頼みだから、そんな無茶なことでも引き受けてくれたんじゃないかな。いいひとだね、マスター」
 そう言うとシーニユは小声で「いいひとです」と、その部分だけを同意して。
「……君があの店によく足が向くのは、マスターがいるからじゃないの?」
 やはり様々な彼女の行動の裏には、彼女自身が気づいていない「気持ち」がある、と感じて彰はそう続けた。そしてシーニユは気づいていないが、そんな彼女を理解してくれる存在が、此処(ここ)にも確かにいるのだと。
 あのものしずかで口数の少ない老人はきっと、シーニユがひとりで店にいることを温かく受け入れているのだろう、そう思うとやはり口元に笑みが浮かぶ。
 彰の言葉にシーニユは三秒程考えてから唇を開いた。
「楽、だからだと思います」
「ラク?」
 あまりにも予想外の単語を聞いて、彰はおうむ返ししてしまう。
「はい」
 とシーニユはひとつうなずいて。
「ラク、て、ええと、楽ちん、とかのラクだよね?」
 もしかしたら同音異義語があるのかも、と自分でもバカバカしいとは思いつつ尋ねると、彼女はもう一度うなずく。
「負荷が低い、ということです。負荷が少ない状態はヒトも人工人格も問わず、『楽』だと認識するようにできているかと思います」
「そりゃそうだけど……何の、負荷?」
 彰がまた聞き返すと、シーニユは口をつぐんだ。
「シーニユ?」
「ここの仕事は、いろいろと難しいので」
 名を呼んだ彰にシーニユはそう短く答えを切り上げて、それ以上は答えなかった。
 ――こころ、か。
 彼女との会話を思い返しながら屋台をぼんやりと流していると、前回ここで見た彼女の「笑顔」が目に浮かぶ。
 きっと、「ふり」が彼女にとっては「負荷」なのだ。
 人間のふり、笑顔のふり、会話を弾ませるふり。
 だからそれをしなくていい、しないことを咎められない、自然体でいられるあの店、受け入れてくれるマスターが、彼女にとって「楽」なのだ。
 ――これが『好き』であるのかどうか、判別ができない、ということです。
 あの店が好きなんだね、と最初に会った日に言った時、彼女が答えた言葉を彰は思い出す。
 ……それを「楽」だと言うのは少し違う気がする。
 笑顔で店員が差し出してくるグリューワインのカップを受け取って、彰は立ち止まりツリーを見上げた。
 ただ人間といなければいいなら、それこそ「ログチェック」でもして人のいない道を延々と歩いたり、図書館で本を読んだり、オペラや映画館のような誰からも話しかけられることのない場所で時間を過ごせばいいだけだ。ただ「楽」を求めるのなら、それが一番、簡単なことなのに。
 なのにわざわざ、あの店に行く。
 自分を受け入れてくれる場所。「常連」だと言って、面倒な頼みを聞いてくれる、それだけの信用と愛情を持ってくれるひと。
 そこにいて居心地が良い、と思うのは、「楽だから」とは違うよ、シーニユ。
 ちらちらと落ちてくる雪に目を細めながら、彰は白い息を吐いて様々な色に瞬く電飾を見つめて。
 もし本当にそんな風にしか君があの店とマスターを捉えてないなら、向こうもあんな風に君を受け入れたりはしないと思う。
 彰は上を見ながらもカップを口元に持ち上げて、熱くて甘い、スパイスの効いた赤ワインをひと口含んで。
 君はあの場所とマスターが「好き」なんだ。
 きらめくたくさんのオーナメントを眺めながら、彰は口の中で呟く。
 君が君のままでいられる、それをしずかに受け入れてくれる、そのすべてを、君は確かに「好き」なんだよ、シーニユ。 


 ログアウトして、いつものように簡単な目の検査や血液を採取したりしてから部屋を出ようとしていた彰に、その日の担当者が声をかけてきた。
「御堂さん、ちょっとご相談したい件があるんですが」
「はい?」
 そんなところで声をかけられたのは初めてで、彰は一瞬、今日、中でやったことがバレたのかと思い内心で強い焦りを感じる。
 だが担当者はあっさりとした態度で手にした端末を覗いて、「次回のご予約なんですけど、まさに年末になりますよね。で、その次がその一週間後」と尋ねてきた。
 一体何の話なんだ、拍子抜けと疑惑とが半々になりながら「そうですね」と彰がうなずくと、担当者は少し「うーん」とうなって端末を叩いた。
「あのですね、事前にお伝えしていたか判らないんですけど、最少のブランクで連続して体験をなされるお客様には、念の為健康診断をお願いしてるんですよ。あ、勿論無料ですけど」
 それからそう続けられたのに、彰は今度こそほっとする。
「で、本来なら次回、五回目の後に、六回目の体験をされる前に受けてもらいたいんですが、年末年始なんで日程上こちらがちょっと難しいんですよね。それでもし良ければ、ちょっとイレギュラーにはなってしまうんですが、この三、四日中でご都合のつく日があればそこでご受診いただけると有り難いんですけど」
「ああ、いいですよ」
 すっかり安堵していたこともあって、彰は気軽にうなずいて。どうせ体験の合間は暇なのだから、いつだって構わない。
「ああ、良かった。助かります」
 担当者は笑顔になって、端末の画面にカレンダーを出して見せてきた。
「いつにします? えーと、直近ですと明後日が空いてるんですが」
「あ、ならそれでいいです。そこで取ってください」
「判りました。では検査に必要なものをお渡ししますので、帰りに受付にお声がけください」
「はい」
 彰はうなずき、部屋を後にした。


 今回の健康診断は、体験前に受けた民間の検診センターとは違う、東京にある研究機関直轄(ちょっかつ)の施設だった。無論、交通費は向こう持ちだ。
 肉体的検査は前回と同じ、ごくありきたりのもので、それに脳波のチェックがプラスされた。それから前とは少し内容の違う性格診断。
 その後にモニタリングが待っていた。
 今回の相手は少し年上に見える眼鏡をかけた女性医師で、「これはアンケートのようなものなので、もし答えたくなければお答えいただかなくても構いません」と前置きされた上で、『パンドラ』についてどう感じたか、何が面白かったか、どこに不満があるか、ナイトゾーン以外について体験する気はないのか、ないならその理由は何なのか、そういうまさに「アンケート」的なことをいろいろと尋ねられる。
 それに彰は適当な答えを適当に返して。向こうもそんなに深いところまで突っ込んでくる気はないようで、答えたことを更に深掘りするようなことはしてこない。
 そして最後に、「『パンドラ』を体験する前と後とで、普段の生活で何か感覚が変わったようなことはありましたか」と尋ねられた。
 彰は一瞬言葉に詰まったが、少し間を置いて「今は休暇中なので、週一にここに来ることで曜日感覚が戻ってきました」と答えると、相手は「そうですか」とだけ言ってうなずいた。
 十分ちょっとの質問が終わって、その日の行程は終了した。
 更衣室で着替えて、外に出る。
 病院のすぐ傍の、カフェダイナーで使える食事券、というのをサービスでもらっていたので、せっかくだから昼食を食べて帰ろう、と彰はそちらに足を向けた。
 券の裏にある地図を見て歩いていくと、信号の向こうにちょっとおしゃれな感じの店構えが見える。
 折しも施設についた時には晴れ渡っていた空に、いつの間にか広がっていた雲からぽつ、ぽつと雨が降り出したのに彰は小走りになって。にわか雨だと予報では言っていたので、傘を持ってこなかったのだ。
 昼を食べている間に雨をやりすごせるといいけど、と思いながら急いで信号を渡って入り口に入ろうとすると、ちょうど横から同じように店に入ろうとしていた男性と軽く肩が当たった。
「あ、すみません」
 咄嗟に体を引いて頭を下げると、相手もあたふたと「いやいやこちらこそ、すみませんでした」と言いながら腰を引くようにして頭を下げて。
「いえ……」
 あれ、この声聞き覚えがある、と思いながら彰が頭を上げると、目の前に痩せた、すっかり白く、そして薄くなった髪をした老人が、まだしきりに頭を下げている。
「あの」
 だが誰だったかは判らないまま声をかけると、相手がぱっと顔を上げてまじまじと彰を見た。
「ああ……あー、ええっと、あ、そう、そうだ、御堂さん。で、合ってますよね?」
 と、相手が考え考えそう言ったのに、彰は面食らう。
「あ、はい、そうですけど、そちら」
「ああ、すみません」
 とまどう彰に相手は柳の葉のような目を細め、実に人好きのする笑顔を浮かべて。
 その笑顔に、確かに見覚えがあった。
「わたし、覚えてないですかね? ほら、あの、『パンドラ』体験審査の健康診断で、問診をしました」
「ああ!」
 ぱっとあの時の情景が浮かんで、彰はぽん、と手を叩きたい気持ちになった。そう、そうだった。向かいの相手は濃い灰色のウールのコートを着ていたけれど、それを頭の中で白衣に置き換えてみると、確かにあの時の医者の姿だ。
「よく覚えてましたね、名前まで」
「そこはね。大学病院で、教師時代が長かったので。昔取った杵柄、というヤツです」
 感心する彰に、相手はそう言ってまた笑って。
「……もしかして今日は、健康診断でしたか?」
 それから彰の手の中にある食事券を見て尋ねてきたのに、彰はうなずく。
「そうですか。じゃ、あれからかなり、ご利用いただいてるんですねえ」
 実に嬉しそうに相手が微笑むのに、彰は何だか申し訳ないような気分になる。自分が純粋に「仮想体験」を楽しむ為にあそこに通っているのではないことに。
「ああ、すみません、お引き止めして。お食事なんですよね」
 黙ってしまった彰に、相手ははたと気づいたようにそう言って扉を開いた。彰は慌てて「すみません」とそれを引き取るように扉を押さえる。
「あの、先生もお昼ですか? 良かったら、ご一緒に」
 彰にそう言わせたのは、その軽い罪悪感と、こちらの気分を和ませる相手の笑顔の力だった。
  
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