皐月・3

文字数 8,213文字

    
 皐月の祖母の家に着いたのは、日付の変わる二十分程前だった。
 祖父は皐月が高校の時に亡くなったそうで、その家には今は祖母と犬だけなのだという。
 到着前に、皐月は祖母にメールで連絡を入れていて、着いた時には玄関まで出迎えに来てくれていた。
 挨拶をしながら何度も何度も深々と頭を下げるのに、彰は何とも面映(おもはゆ)いような気持ちになって頭を下げ返して。
 犬は子供の頃から皐月が使っていた部屋で寝ているから、と言われ、皐月は小走りに奥へと消えていく。
 その背中を見送ると、ふう、と我知らず大きなため息が出た。良かった、間に合った。
「……本当に、申し訳ありません」
 と、隣からまた、何度も聞いた言葉が繰り返されて、見るとただでさえ小柄な皐月の祖母が背中を丸めるようにして頭を下げている。
「いえ、あの、もういいですから」
「いつもはあんな、わがまま言って人に無理させたりするような子じゃないんですよ。むしろ人に気を遣って、我慢ばっかりするような子で。それがこんな無茶……ほんとに、余程逢いたかったのね」
「そうですね」
 彼女の言葉に、彰の口元にかすかに笑みが走った。ああ、本当に来て良かった。
「身内が言うのも何ですけど、根が本当に優しい子なの。だから、あなたにはこんな無理させてしまいましたけど、どうかあの子に、愛想尽かさないでやってくださいね」
「そんなこと」
 即否定すると、相手の瞳が丸くぴかっと輝いて――その意味は判らないまま、あ、やっぱり似てる、と彰は内心で思った。
「遠野さんはいい友人です。サークルでもすごく皆に信頼されてるし、自分もいろいろ、助けてもらってますから」
「……ゆうじん?」
 その瞳に何か返したくて力強くそう言うと、相手の口から少し調子の外れた声が漏れる。
「はい。いつもお世話になっております」
 そう言って頭を下げると、彼女はぱちぱち、と目を瞬いて。
「ああ……そうなんですか」
 かくかく、と小さく何度かうなずいて、軽く頭を振る。
「ええと……ああそうだった、奥に、お布団用意してありますから、少しおやすみになってくださいね」
「あ、ありがとうございます」
 少しでも横になれるのは本当に心底有り難くて、ぱっと顔を輝かせてまた頭を下げると、少し首を傾げながらも彼女はふっと、微笑んだ。


 目が覚めるのと同時に、(かたわ)らに人の気配を感じた。
 一瞬で頭が覚醒して、さっと顔を動かして見やると、部屋の隅に皐月が膝を抱えて座ってこちらを見ている。
「遠野さ……」
「良かった、悪いけどそろそろ起こさなくっちゃ、て思ってたとこだったの」
 彰が上半身を起こすと、皐月も立ち上がって。
 彼女がここにいる。
 犬の傍ではなく。
 ということは、つまり。
「おばあちゃんに声かけてくる。御堂くん、洗面所の場所、判るよね」
 彰が何か言う前に、皐月はそう言って部屋を出ていってしまった。
 ――でも、声はもうすっかり乾いている。
 起き上がって、皐月の祖母が貸してくれた寝巻を脱ぎながら彰は小さく息をついた。
 服を着替えて布団を畳むと、洗面所に行ってざぶざぶと冷たい水で顔を洗う。
 良かったんだ、きっと、これで。
 ごしごしとタオルで顔をこするように拭き上げると、短い睡眠だったにも関わらず、しゃっきりと頭の奥まで冴えてくるのを感じた。
 廊下に出ると、玄関のかまちに皐月とその祖母が立っている。
「本当に、孫がお世話かけました」
「あ、いえ」
「これ、お夜食に。召し上がってください」
 中身は判らないがずしっと重い紙袋を手渡されて、彰はかえって恐縮した。
「すみません、夜中にこんなお手間取らせて」
「何をおっしゃいます、この子のわがままにつき合わせて、こんな夜中に車で帰らせるなんて」
 言いながら彼女は横目でちらっと皐月を睨んだ。
「本当なら泊まっていただいて、こちらを案内差し上げたいのに……あの、また学校がお休みになりましたら、ぜひ一度改めていらしてくださいね」
「え? いえ、でも」
「もういいから、おばあちゃん」
 特にこちらに来る用事は無いんですけど、彰がそう続ける前に、皐月が少しふくれっ面をして割って入った。
「それじゃ、浄法さんに茶太のこと、お願いね。また連絡するから」
「はいはい、もう、ほんとこの子は自分のことばっかり……」
 愚痴モードに入りかかった祖母の肩を軽く叩いてから、皐月は一度、ぎゅっと彼女の体を抱きしめて。
「急にごめん。でも逢えて良かったし、嬉しかった。ありがとう、おばあちゃん」
「……皐月」
 抱きしめられた孫の肩を、祖母がぽんぽん、と叩き返す。
「おばあちゃんも、さみしくなっちゃうね……元気出してね」
「もう、ほんとにこの子は……」
 うっすらと涙声になった相手をもう一度ぎゅっと抱きしめて、皐月は体を起こした。
 その瞳にも、ぼやっと水の膜が張っている。
「それじゃ、行くね。春休み、帰るから」
「はいはい。気をつけて帰ってね。……御堂さん、本当にありがとうございました」
 祖母と孫のやりとりをほのぼのとした気持ちで見ていると、急に頭を下げられて、彰は慌てて頭を下げ返す。
「いえ。あの、責任持って送り届けますから」
「ほんとに……ありがとう、ございます」
 もう一度頭を下げて、彰は皐月に続いて、家を後にした。


 車を走らせ始めてほどなく、ちらっと隣を見ると皐月は斜めに頭を傾けて眠り込んでいた。
 ――良かった。
 少し車内の暖房を上げながら、胸の内側一杯に程よい温かさのお湯のような安堵が満ちて、唇の端にふっと笑みが浮く。
 このまま向こうに着くまで眠れれば、睡眠時間としては充分だろう。
 ……あ、でも、一度家に寄るのと、直で大学行くのと、どっちがいいのかな。割と大きめのバッグ持ってたけど、試験に必要な物、入ってるんだろうか。いや、でも女の子なんだから、お風呂とか着替えとか、したいもんじゃないんだろうか。
 聞いておけば良かったなあ……。
 もやもや考えながら高速をしばらく走っていると、だんだん小腹が減って、トイレにも行きたくなってきた。
 時間に余裕はあるし、少し休憩しよう。
 サービスエリアに入ると、皐月を起こさないよう気をつけながらトイレに行って、自動販売機で熱い緑茶を買う。
 車に戻って後部座席に乗ると、そこに置いた皐月の祖母がくれた紙袋を覗いてみた。
 家の鍵のキーホルダーに付けたライトを袋の中に突っ込んで見てみると、アルミホイルにくるまれた大きな固まりが三つと大ぶりのタッパーが一つ、小ぶりのタッパーが一つ、割り箸二膳に紙おしぼりの袋が何枚か入っている。
 アルミホイルの包みの一つを開いてみると、一つずつラップにくるまれたお握りが入っていて、その上に貼られた付箋に『鮭』と書いてあった。
 他の二つも覗いてみると、『おかか』『梅』とある。
 何だか妙に嬉しくなってきて、彰はくすんと笑った。
「……あれ、御堂くん?」
 と、助手席から寝ぼけた皐月の声がする。
「あ……あ、ごめん、起こした?」
 アルミホイル、がさがさ言わせ過ぎたかな、と彰は慌てて。
「ううん……あれ、なんで後ろ? ここどこ?」
「ああ、サービスエリア。ちょっと腹減ったし、休憩しようと思って。ごめん、寝てなよ」
「そうなんだ……わたしも食べようかなぁ。あ、でもその前にわたしもお手洗い、行ってこよう」
「あ、外寒いよ」
 車内灯をつけて、彰が後部座席に置かれた皐月のコートとバッグを差し出ながら言うと、顔半分で振り返って受け取った相手が目を細めて笑う。
 その顔に彰は、軽く心臓が縮んだ気がした。
「ありがとう。……ちょっと時間かかるかも、御堂くん、先食べててよ」
「あ、うん」
 その動揺を押し隠してうなずくと、皐月は車を降りていった。
 彰は小さく息をついて、タッパーを取り出して中を覗いて。
 大きい方には唐揚げと卵焼きとほうれん草のゴマ和え、小さい方にはウサギに切られたリンゴとプチトマトが入っている。
 まさに絵に描いたような「遠足のお弁当」だ。
 彰はまたわくわくするような嬉しさを感じながら、紙おしぼりで手を拭いて鮭のお握りを一つ手に取り、ラップをはがして。
 海苔がしっとりと貼り付いたお握りを、上からぱくり、と頬張った。
 口の中一杯に、ほんのりと塩の効いたご飯の味と香りが広がる。
 その瞬間に、胸の奥で何かがごとり、と音を立てて動いた。
 彰の動きが止まる。
 ――あれ……あれ、これ、何だっけ?
 歯と舌の間を、ねちっとした海苔の切れ端と一緒にほろりと崩れて歯に当たるご飯の一粒一粒、その感触が心の奥底の何かをぐいっとこじ開けていた。
 この感覚。
 手で握られた、わずかに塩気の効いたご飯が口の中でほぐれる感触。
 それをつきとめたくて、動きの止まっていた口を動かして何度か咀嚼して飲み込むと、背骨にびり、と電撃のような感覚が走った。
 ああ……そうだ。
 お握りを手にしたまま、また彰の動きが完全に止まる。
 久しぶり、なんだ。
 手元のお握りの、上の部分が崩れたお米の粒の間にほんのりとピンク色の鮭のフレークが覗いているのを彰はまじまじと見つめて。
 コンビニや、スーパーで買ったものじゃない、誰かが手で握ってくれたお握りを食べるのは……久しぶり、だったんだ。
 母さんが死んで以来。
 叔父夫婦の家から通った中学には給食があったし、何かの行事でお弁当だったりした時も、たまたまだったが、お握りではなかった。高校は寮の食堂だったし、宏志の店でもお握りは出たことがない。大学に入ってからは自炊だったけど、昼は大抵学食だったし、家で自分でご飯をわざわざお握りに握ろうなんて、考えたこともなかった。
 だから久しぶりだった。
 久しぶり過ぎて、今まですっかりこの感覚を忘れていた。
 固くもない、ゆるくもない、お米の粒同士がぴたぴたっとどこか数点だけでくっついていて、それが噛んだ途端にほろほろと口の中でほどけていくこの感覚を。
「――え?」
 視界の中に、ズボンの膝にぽとり、と何かが落ちたのが映って、彰は思わず小さな声をあげる。
 それは合間を置かず、更にぽたぽた、と落ちていって、ズボンに小さな染みをつくった。
 同時に、頬が濡れているのをはっきりと感じる。
「え……え?」
 片手にお握りを握ったまま、彰は混乱した。
 なんだ、これ?
 その液体が涙、であって、それが自分の瞳から落ちている、その事実はすぐに認識することができた。
 けれどその理由に至っては、全く理解することができない。
 どうして……。
 勝手にこぼれていく涙をどうすることもできないまま、彰は手の中のお握りと落ちる雫とを交互に見た。
 三角形の先がかじられた、食べかけのお握りの形。
 こんな状況でも、口の中、頬の内側の端の方で、脳に「美味しかった、もっと食べたい」と訴えかけてくる感覚。
 ――ああ、判った。
 その「食べたい」という気持ちと同時に、答えが降ってきた。
 もう食べられないからだ。
 母親のつくるお握りを、自分はもう食べることができない。
 そうはっきりと自覚したのに、奇妙な心持ちがした。
 そんなことは知っているのに。
 もうずっと昔から知っていた。
 母親は彰が中二の時、出先でエスカレーターの誤作動での事故に巻き込まれて死んだ。その数年前に父親は病気で亡くなっていて、母子二人、大変なこともあったが毎日つとめて明るく楽しく暮らしていた、その中での突然のことだった。
 その衝撃は相当なものだったけれど、既に父を失う、という経験をしていた彰には、「自分の生活の中から父が消えたように、今度は母が消えたのだ」という思考がすぐに構築された。
 だから自分はちゃんと判っている、そう思っていたのだ。
 自分の両親は亡くなった、それを自分ははっきり理解し、咀嚼できている、そう思ってずっと生きてきた。
 それなのに。
 手の中のお握りが、ずん、と重たくなっていく気がする。
 彰は浅く呼吸をしながら、それを見つめた。
 ――もう、食べることができない。
 知らなかった。
「失う」というのは、こういうことなのだ。
 一度おさまりかけていた涙が、またぽたぽた、とこぼれた。
 亡くなった、消えてしまった、失った、それを自分は知っている、そう思っていた。
 でも違った。
 それは頭で「こうだと思っている」だけだった。
 こんな風にはっきりと、腑に落ちてそれを感じたことは、今まで一度も無かった。
 どこか「長い不在」のように、自分はそれを捉えていたのかもしれない、彰はそう思った。
 ただの「不在」であるなら、いつかは戻る。
 けれど違った。
 それ等はもうすべて完璧に、峻厳に失われてしまったのだ。
 二人それぞれの死の報を聞いた時も、お葬式の時も、納骨の時も、自分は本当は「二人の死」を認めてはいなかった。
 今やっと、判った。
 今本当に、二人は自分の中で死んだのだ。


「――あぁ、外寒かった!」
 と、突然バタン、と後部座席のドアが開いて、一瞬の冷気と一緒に皐月が車に乗り込んできた。
「嬉しい、おばあちゃんのご飯、久しぶ、り……」
 両手をこすりあわせながら、わずかに鼻の頭を赤くしてそう明るく続いた皐月の言葉が、すうっと細くなって消えて。
「……え、えっと……御堂、くん?」
 目を大きく丸く見開いて、皐月がまじまじと彰を見つめる。
「あ……ああ、うん、ごめん」
 なおもぽたぽた、と頬を雫がつたうのをどうしたらいいのか判らないまま、彰はひょこっと肩をすくめて。
 涙は止められなかったけれど、こうなった理由がはっきりと自分の中で判ったことで、彰の精神はすっかり落ち着いていた。
 だから頬を涙がつたってはいても、声はまるでいつもと変わらない、平静なものになっていて、それに皐月はまたぱちぱち、と目を瞬く。
「うん、ちょっと、自分でもびっくりした。お握り食べたらさ、あ、なんか、久しぶりだと思って」
 向かいで驚いている皐月に、どうってことはないんだ、と判ってほしくて、彰は更に淡々とした声で説明を続けて。
「えっ?」
「すっかり忘れてたんだけど、誰かが握ってくれたお握り食べるのって、中学の時に母さんが亡くなる前につくってくれて以来だったんだよね」
 少しこちらに身を乗り出しかけていた皐月の動きがぴたりと止まる。
「それでびっくりしたんだ。だからどうってことない、気にしないで、遠野さん」
 そう話している間に、自然に涙がおさまった。
 彰はほっとして、手の甲でぐい、と頬に残るそれを拭うと、また一口お握りを頬張る。
「うん、美味い」
 自然と口元に笑みが浮かぶのを感じながら、残りを一気に食べ切って。
「塩気絶妙。ほんと、料理上手なんだね、遠野さんのお婆ちゃん」
 一度指先を紙おしぼりで拭いながらそう言うと、彰はまた笑った。
 その一連の動作を、皐月はやはり身じろぎひとつせずにじっと見つめて。
「――御堂くん」
 そしてすう、とひとつ息を吸うと、少し低い声で名を呼んだ。
 その声の真剣さに、彰はと胸を突かれて相手を見直す。
 皐月は瞬きひとつせず、まっすぐに彰を見ている。
 しっとりと桜色をした唇が開かれる。
「わたし、何でもする」
 そしてそこから、そう言葉が放たれた。
「え?」
「わたし、御堂くんの為なら、何だってするよ」
「…………」
 彰は呆気にとられて、目の前の皐月を見直した。
 皐月は冗談めかした様子など何ひとつ無い、真剣そのものの顔をしてそれを見つめ返して。
「茶太、目が悪かった、て言ったよね」
 それからいきなりそんな話が始まって、彰は更に面食らった。
「え、あ……うん」
「でも鼻や耳はそんなに衰えてなくてね。先刻、おばあちゃんちに帰った時、わたしの部屋、扉開けたら、部屋の奥のストーブの前からこっちに向かって、ずるずる毛布からはい出してきてて」
 話しながら、皐月の瞳がほんのりと潤いを含む。
「もうちゃんと立てないくらい足も悪いのに、ずりずりはいずって、しっぽ振りながら……急いで駆けよって毛布巻き直して抱っこしたら、心底嬉しそうにきゅうきゅう鼻鳴らして、ひとの手や顔、ぺろぺろなめてきて」
 皐月はきゅっと両手の指を膝の上で組んで、一瞬目を伏せた。
「座って、膝の上に抱いたら、もう殆ど見えてない筈なのに、一心な目でこっち見上げてきて……不思議ね、仔犬の頃は勿論子供の顔してて、それからやんちゃで腕白な顔になって、大人になって少し落ち着いて、年取ってからはいかにもお爺ちゃん、みたいなおっとりのんびりした顔つきになって……なのに最後は、また子供の顔になってた」
 瞳の潤みはますますくっきりしてきたのに、その唇にはほんのりと微笑みが浮かぶ。
「ずっしり、全体重預けて、安心したみたいに目を閉じて、くうくういびきかいて眠り始めて……背中をずうっと撫でてたら、いつの間にか、部屋の中がしいんとしてて、自分の息の音しかしなくなってて」
 すっ、と息と共に言葉が切れて、頬をひと筋、涙がつたった。
 彰は声も出せずに、それを見つめる。
「わたし、考えもしなかった」
 皐月の瞳が動いて、彰の目を捉えた。
「考えもしなかったんだよ、御堂くん」
 ほんのわずかに上半身をこちらに傾けて、皐月は強い口調で語る。
「昨日の夕方、ほんの何時間か前には、自分がこんなところにいて、こんな風に茶太を膝の上に乗せてるだなんて、考えもしなかったんだ」
「…………」
 皐月の頬の上を涙が幾筋もつたって、それが彼女の膝の上やシートの上にぽたぽたと落ちるのを彰は声も無く見た。
「だって、諦めてたから」
 泣いているのに声は全く震えず濁りもせず、まっすぐに彰の耳に届く。
「自分にはもうすべて何もかも無理なんだ、手の届かないことなんだ、そう頭っから諦めきってたから」
 きつくそう言い切って、一瞬唇を噛む。
「――わたし、何でもするよ」
 そして皐月は、またそう言った。
「これから先、御堂くんが何か困って、助けが必要だったり、誰かに話聞いて欲しかったり、ううん、そんな大げさなことじゃなくても、どんな小さなことでも、わたし御堂くんの為になら何だってする」
 彰の胸の中心を、まっすぐ細い剣が貫いた。
「この先一生、御堂くんの頼みなら何だって聞く。どんなことでも。内臓全部あげたっていい。何だって、するよ」
 彰は自分の肺の中で空気がぱんぱんに膨れあがって、喉がつかえるような心地を味わいながら、こちらをひたぶるに見つめる皐月を見返した。
 ――ああ、初めてだ。
 熱く沸騰したような頭の隅で、そう考える。
 父親も母親も、生きていた頃は、いや、今だってもし生きていたならきっと、間違いなく、もしも自分に何かあったら身を投げ出して助けてくれる。自分という人間の為に、それだけのことを必ずしてくれる。それはもう考えるまでもなく、子供の自分にとって当たり前のことだった。
 でもその二人がいない今、そんな人間はこの世にもう誰もいないのだ、そう思っていた。そしてそれは、仕方のない、ことなのだと。そんな風に誰かの為に身を投げ出せることなんて、親子以外でそうそうある筈がない。
 なのに。
 皐月の瞳を見返すと、自分の目の奥の方もじんと熱くなってきて、彰はわずかに目を細めた。
 まるっきりの、他人なのに、こんなことを言ってくれたのは……目の前のこのひとが、初めてだ。
 自分はこのひとに、いかほどのこともした訳ではないのに。
 ぐっと何かがつかえたような喉を何とか内側から押し広げるようにして、彰は音を立てて細く息を吸う。
 目の前で皐月の瞳が、初めてどこか不安げに揺らいだ。
「――ありがとう」
 やっとそれだけ言うと、その瞳がぱっと輝いて、頬にほんのりと赤みがさす。
 顔のまわりまでふわりと明るくなるようなその表情に、彰は心を、まるごと奪われた。
    
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