皐月・10

文字数 10,572文字

  
 あの日、彰達十一人の目の前には、彰達十一人が立っていた。
 自分のことは見えないけれど、他の十人については横にいる姿と目の前にいるそれと、見た目では全く区別がつかない。皐月でさえも。
 ということは、自分も勿論、そうなのだ。
 彰は驚異的な目で、目の前の「自分自身」を見つめた。
 そして始まった「天の声」の解説に度肝を抜かれる。
 三月に入って少しして、実験は月に二~三回の参加に減らされた。休みは一斉ではなく、人によりまちまちだった。
 実はその休みの間、目の前の「自分」が、自分の代わりに都市内で課題に参加していた、というのだ。
『今までの実験によって、仮想都市内で皆さんの脳に接続していた空の人工人格に、ほぼ完全に「皆さんの人格」が写し取られました。これをわたし達は「仮想人格」と名付けて「人工人格」と区別しています。それが目の前にいる「あなた」です』
 彰や皐月、全員が度肝を抜かれて、声も出ないまましげしげと「自分達」を見つめた。
 彼等の方は承知の上なのか、皆穏やかで親しげな笑みを浮かべてこちらを見ている。
 その中に「彰」と「皐月」もいる。
 二人は思わず、お互いと、向かいの相手とを見比べた。
 見た目だけでは、全く区別がつかない。
 勿論今の時点で、まだ自分達自身さえ、見た目は完全な「人体」の姿ではない。動きや表情にはまだ荒さが残るし、様々な質感も本物よりは精巧なゲーム内のそれに近い。
 けれど今ここにいる自分達のその姿と、向かいのそれには、何の違いも無かった。
『どうぞ、ご自分自身と会話をしてみてください』
 そう声が言うと同時に、向かいの相手がこちらに近づいてきた。
 彰達全員が、後じさる。
 明確な理由は判らないけれど、本能的に恐かったのだ。
「……アキくん、こわい」
 隣で皐月が囁くように言って、ぎゅっと手を握ってくる。
「俺も」
 彰は近づいてくる「自分」から目が離せないままそう答えて、その手を握り返した。
 それを目に止めて、向こうの「彰」と「皐月」が同時に微笑む。
 そして彼等も、手を握り合った。
「……あ」
 二人の口から、同時にかすかな声が漏れる。
 きつくきつく握られた皐月の指が、少しだけゆるんだ。
 彰はそれ以上後じさりたくなるのをこらえて、その場に踏み止まる。
 そして「彰」が目の前に立った。
「こんにちは、御堂彰さん」
 そう言った相手の声がどこか奇妙に聞こえて、でもそれは聞き覚えのある奇妙さで、彰は息を呑む。
 ああ、そうだ……サークルの舞台で準ヒロイン役の同級生に、相手役が喉を痛めてしまってしばらく練習に出られないのに台詞の練習をしたいから、と頼まれ、棒読みでもいいなら、と台詞を録音したのだ。
 その録音を後になって聞かされて、自分の声なのに自分じゃないみたいだ、とおかしな感じがした。皐月にふとそんなことを漏らした時、自分の声は耳からだけじゃなく骨からも聞こえていて、録音はそれが無いから違う声みたいに感じるんだって、と説明されて感心した覚えがある。
 あの時の声だ。
「……こんにちは」
 ごくり、と息を呑みながら言うと、自分の隣の皐月と向こうの「皐月」が同時に軽く、ぷっと吹き出した。
「え? え、何?」
 それに二人の「彰」が同時に反応する。
「だって、あんまり真面目に、返すから」
「うん。それに、『こんにちは』て顔じゃなかったし」
 皐月同士が笑いながらそう言い合って、お互いを興味津々、といった顔で覗き込むように見つめ合った。
 ……先刻まであんなに恐がってた癖に。
 気づけば繋いでいた手も離れてしまって、まるで昔からの友人のように握手して和気あいあいと会話を始めてしまった「皐月達」を呆れて見ていると、ふと視線を感じた。
 目を向けると、もう一人の「彰」がこちらを見ている。
 彰の目に気づくと、「どうなの、全く」と言いたげな目を「皐月達」に投げ、軽く肩をすくめてみせて。
 彰は思わず、くすっと笑った。
「……ほんとに、似てる」
 その笑いに自分で励まされて口にすると、相手はこちらに向き直ってうなずいた。
「見た目は本当に、百パーセント同じだから」
「……中身は、どうなの」
「さあ。そっちの中身が判らないから」
 恐る恐る尋ねたのに返ってきた言葉に、彰はあ、これ自分だ、と拍子抜けする程あっさりと理解した。
 記憶がどれくらい共有されているのかは知らない。けれど相手の返事は、多分自分が相手側で同じ質問をされたらきっと全く同じように答えるだろう、と聞いた瞬間に思った。
「記憶はどうなの? 親のこととか……宏志や、大学のこととか」
「あるよ、全部」
 向こうの「彰」は、人差し指を銃のように構えて頭の横に当てて。
「ああ、でも、心配しないで。プライベートなことが研究してる人達に漏れてる訳じゃないんだ。どう言ったらいいのかな、この中、細かい大量の繊維が、ごじゃごじゃっと絡まってそこに電気が流れてるみたいな……その中に記憶とか知識とか、ちゃんと詰まってるんだけど、それを外から抽出はできない。寝てる人の脳波は取れても、夢は取得できないのと同じ」
「ああ、成程」
 相手の説明が理解できて、彰はひとつうなずく。そして「自分は何が気にかかるか」や「どう言えば自分に最も話が通るのか」を相手がよく判っていることに改めて感心した。さすが、自分だ。
「俺が休んでる間、君が代わりに実験に出てた、てこと?」
「そう。前に同じグループになったことがある人、三、四人いたけど、誰も気づかなかったよ」
 彰の問いに、「彰」はどこか愉快そうに答えた。確かにあちこちで話している「仮想人格」達は皆、本当に自然で違和感がどこにもなく、人工人格とは全く違う存在だということがはっきり判る。
 凄いな、と思いながらも、彰は疑問を感じた。
「どうしてわざわざ、都市内に仮想人格をつくったんだろう?」
「多分この実験の後に説明があると思うけど、理由は幾つかあるんだ」
 指を折りながら、「彰」はそれを説明した。
 そもそも実験では、都市内に生成された中身の無い空っぽの「人工人格の殻」に被験者達が接続してそれを動かしていた。
 そして今ここにいる「仮想人格」は、別の空の人工人格にこの一年をかけて被験者達の脳の動きをすっかり写し取ったものなのだそうだ。すなわち、今ここにいる彰の「殻」と、向かいの「彰」の中身とは、ほぼ同一に近い訳である。
 本来の目的である長期低活動下での「仮想都市」での生活、それを行う為には都市の中でそれぞれが意識を乗せる為の「人工人格の殻」が要る。だが何も無い殻をいきなり「自分自身」として稼働させるには慣れと時間が必要だし、そもそも外見を反映させておく必要もある。
 だからあらかじめ各人の脳のベースと肉体データを持った殻を作製しておき、そこに入って都市での生活を始めるのが理想的なのだ。
 今回は実験の為、ほぼ完全な複製をつくり出すことを目標にしたが、実際はおそらくここまで事前に精密に作り込まなくてもいいだろう、と研究者達は踏んでいる。今後はもっと短い期間、簡単な手順で、ヒトの各々のベース人格がインストールされた殻を作ることが目標だそうだ。
 それから、今後のこの都市の発展についてのこと。
「人間は長くいるとその場に馴れてしまうから、場合によってはここが仮想空間であることも、自分達の本来の目的が何であるかも、忘れてしまう可能性がある。長く暮らせば、どうしても致命的なもめ事を引き起こしてしまうことだってある。だからその調整の為に、都市内には『人工人格』が不可欠である、と研究者達は考えてるんだよ」
 相手はそう説明すると、自分の周囲にぐるっと目を走らせた。
「でも判ってると思うけど、今の人工人格は全然。まだまだだよ。だから今いる人工人格や今後作られるものについて、ハード的な教育とは別に、ソフト的な教育が必要になる。それが今後の、ここでの俺達の仕事になる」
 彰は思わず、息を止めて「彰」を見、それからちらっと「皐月」を見た。
 二人の皐月は何を話しているのか、くすくすと笑い合ってやたら楽しそうだ。
「……それで、いいの」
 その姿を見ながらつい聞いてしまうと、相手はにこっと笑った。
「いいさ。もともと今の時点で、将来この仕事が絶対にやりたい、なんて全然決めてない。だよね?」
「うん、まあ」
 確かにその通りだったので、彰はうなずいて……でも。
「それにもし、今後『ああ、あの仕事がやってみたかったな』て思ったら、つくればいいんだ」
「えっ?」
「つくればいい。ここで。例えば、そう、パン屋がやりたいならこの街の中にパン屋をつくって、そこの店主になればいいんだから」
 彰は言葉を失って向かいの「彰」を見た。
「ここにはある意味、外以上の可能性がある。何故なら、ここには『時間』の縛りが無いから。研究場所なんだから、その向上には努めていかなきゃならないだろうけど、そうじゃない……どう言うのかな、実益、て言うか、売上げ? 利益、みたいな。そういうのを求める必要も無い。だから好きなことをどれだけ時間をかけて目指しても、何の問題も無いんだ」
 もはや何にも言い返せなくなって、彰はただただ、相手のそのすがすがしいまでの笑みを見つめて。
「それに」
 一度言葉を切って、「彰」はちらっと、目を走らせた。
「ここには、皐月がいる」
 そして続いた言葉が、相手のそのまなざしで言い出す前から判ってしまって、彰はこくりとうなずいた。
「皐月がいてくれるなら、それでいいんだ」
 すぐ近くにいる「皐月」を見ながら「彰」が呟いた声が、芯からの幸福に満ちていたのに、彰は安堵と納得を同時に感じる。確かに、そうだ。どこにいて、どんなことをやらされたって、隣に皐月がいて、幸福に笑っていてくれるなら、他に何にも要らない。
「俺の人生で意味があるのは、皐月だけだもの。それ以上大事なものなんて他に何にもない」
「……うん。判るよ」
 しみじみとうなずくと、「彰」は破顔した。
「そりゃそうだ。俺は君だから」
 その顔と言葉につられて、彰も微笑む。
「そうだね、ほんとに」
 もう一度うなずくと、相手が片手を差し出してきた。
「え?」
「俺はここで、俺の皐月と自分ができることをするよ。そっちはそっちで……末永く、お幸せに」
 あるシチュエーションでよく聞く挨拶言葉を聞いて、彰はぱちぱち、と目を瞬いた。
 相手の手を見て、それからおずおずと自分も手を差し出す。
 それを「彰」は、ぎゅっと握った。
 その瞬間、何か電流のようなものが互いの間に走った気がした。
 相手の目の中の光に、向こうもそれを感じたことが判る。
「……ありがとう。そっちも、お幸せに」
 すべてが通じ合っている、そういう奇妙な幸福感に満たされ彰がそう言って微笑むと、向こうも同じ顔で笑い返して。
「うん。ずっと、一緒にいような」
 誰と、という言葉を敢えて省いた相手の台詞に、彰はまた微笑んでうなずく。
「うん。……それじゃ」
「それじゃ、元気で」
 小さく手を振って、「彰」はふい、と体を「皐月」の方へ向けて。
 彼女達も何を語り合ったのか、軽く互いをハグしてそれぞれの「彰」の方へ戻ってくる。
「元気で」
 向こうの「彰」と「皐月」は、片手を繋いで二人の前に立つ。
 彰の隣に並んだ皐月も、きゅっとこちらの手を握ってきた。
「そっちのアキくん。『わたし』をよろしくね」
 向こうの「皐月」がそういたずらっぽく言って、小さく手を振る。
 その姿があんまりいつもの皐月らしくて、彰の唇に笑みが漏れた。
 この「皐月」がここにいるなら、この「彰」もきっと、大丈夫だ。
「うん。……またいつか」
 彰がふっと思いついた言葉を舌に乗せると、向こうの二人が顔をほころばせる。
「そうね、またいつか」
「うん。また逢おう」
 そう言ってもう一度手を振ると、二人は街の中へと歩き去っていった。


 実験が終わった後に研究者達がした説明は、概ね「彰」が話してくれた通りだった。
 今の時点で都市内には「仮想人格」と、彰達がログインする時に使用していた「殻」があり、人格の無い「殻」は破棄され、「仮想人格」のみが残ることになる、と。
 都市の中にいる「仮想人格」について、人格権はあるのか、自分達にその人格の所有権のようなものはあるのか、そういうことを質問した参加者に対して、研究者達は前者にはある部分のみうなずき、そして後者には首を振った。
「もともとの実験の目的からして、都市内の人格に苦痛や不快さを与えるような行為をする必要がこちらにはありません。先程の説明の通り、人工人格の教育には協力をしてもらうことになりますが、これももしどうしても嫌だと仮想人格が主張するなら、強制はしません。都市内で仮想人格が稼働している、というだけで研究データとしては意味があることですから。ただし」
 ひとつひとつに納得しながら彰が聞いていると、最後に少し、語調が強めになる。
「もしも他の仮想人格や人工人格に対して、害のある行動を取る仮想人格が現れた場合については、現実で逮捕や拘留があるように、行動を規制することがあります。それに何か、異存がありますか」
 最初に質問をした参加者は「いいえ」と首を振った。
「それから、勿論……『外に出たい』という希望は、物理的に不可能です。これはもう、どれ程望んでもどうしようもありません」
 そして研究者が続けた言葉に、彰はちくん、と胸が痛むのを感じながらも、でもきっとあの「彰」なら大丈夫だ、そう思った。「皐月」が隣にいる限り。
「それから仮想人格に対して皆さんが所有や削除を希望することはできません。これは最初の契約の際に特記事項として記載されておりますので、疑問があればお帰りの後ご確認の上、どうしてもご納得がいかない、という方のみこちらにご連絡ください。なおあらかじめ申し上げておきますが、仮想人格の削除は決して受け付けません。また、最初に取り決めた以上の金額を支払うこともありませんので、その旨はご承知ください」
 そう言われてやたら細かかった契約内容を思い返してみると、確かにそんなようなことが書いてあった記憶がある。実験による成果物の所有や利用の権利はすべて向こうサイドに帰する、というような。そんなことは当然だと思っていたので気にもしていなかったが、こういう裏があったとは思いもしなかった。
 けれど彰には、「所有」という言葉は何だかあの仮想人格達にはふさわしくないように思われた。それじゃまるで、人間と携端とか、人間と車とか、そういう関係みたいだ。あの人格達は全然そんなんじゃなくて、しっかりと独立している。
 もし自分がそれを「所有」したとして、だから「削除」を希望する、なんて彰にはむちゃくちゃなことに思えた。相手が心底それを希望するならともかく、自分には法も何も別問題に、そんな権利は絶対に無い。
 まだ何か言いたそうな参加者はいたが、話し合いたいことがある場合は後日あらためて、ということになり、今日は解散することとなった。
 一番年嵩(としかさ)らしき男性の研究者が、壇に立って頭を下げる。
「一年という長い期間、実験にご協力いただき本当に感謝しています。皆さんのご尽力が、このプロジェクトに大きな進展をもたらしてくれることと私達は信じています。今後、おそらくそう遠くない将来、このような『仮想空間』が今よりもっとずっと身近なものになる筈です。その時には、その発展に皆さんが寄与くださったことを思い出してください。……それでは、本日をもって実験は終了となります。長いことお疲れさまでした」
 面前で何人もの研究者達が揃って深々と頭を下げて、彰達の間から自然と拍手がわき起こった。


 あの時、都市の中で「皐月達」が何を話していたのか、どれだけ聞いても皐月は笑うばかりで、結局最後まで教えてくれることはなかった。
 報酬は一ヶ月程後に振り込まれ、彰は普段使いの通帳の数字が突然跳ね上がったのに判っていたことながら感動する。
 そういやこれ、確定申告とかしなくちゃいけなかったんだっけ、と最終日の終わりにもらった「今後の手引き」的な書類を引き出しから引っ張り出して。
 あらためてざっと目を通すと、税金関係の処理の仕方や、今後二年間は、無償ではあるが半年ごとに健康診断を受ける必要があることなどが記されていた。
 実験中の一年間にも何度か簡単な健康診断は受けさせられていたのだが、ずいぶん念が入っているものだよな、と彰は思う。まあ、これまでに類の無い実験だから神経質になる向こうの気持ちも判るけど。
 大学を卒業して就職してしばらくしたら、きっと皐月と、と心に決めていた彰は、報酬をがっちり貯金にまわすことにした。が、そうは言っても少しくらいはぱーっと使ってもいい、そう思って皐月と二人でちょっと高級な焼肉店で普段食べないような肉を思い切り食べることにする。
「お肉って、しっかり噛み応えがあろうが口の中で溶けようが、美味しいお肉はどうしたって美味しいんだね!」
 血ののぼった頬に目をきらきらさせてそう言う皐月に、彰は心底同意しながらも笑い転げたものだ。あんまり可愛らしくて。
 やがて二人は四年生に進級し、就職活動を始めることになる。
 彰はあまり実用的に過ぎないものをつくりたい、と思っていて、幾つか当たった中から知育玩具の会社を選んだ。まだ未発達な手や脳の機能を促進させるようなかたちを設計してみたい、そう思ったのだ。
 皐月は海外翻訳ものに強い出版社を就職先に選んだ。自動翻訳はかなり進化しているものの、文学性の高い小説や、逆に厳密な訳が必要となる科学や技術関係の文章についてはまだまだ人の手が必要だった。
 卒業の後、彰は勤務先への急行電車が停まる駅の近くにアパートを引っ越した。皐月は今の最寄りの駅から会社まではそれ程時間がかからなかったので、そのまま元のアパートで暮らすこととなる。
 お互いの家同士はそれまでより少し距離が開いたが、二人はほぼ毎週、どちらかの家で週末をすごした。宏志の店でちらっとその話をした時には「それもう、同棲しちゃえよ」と呆れ顔で言われたものだ。
「同棲するんだったら最初っから結婚するよ」と言い返しながら、彰は「皐月と同じ家で暮らす」という状況を夢想して、ぽーっとなると同時にどこか奥の方では、怖い気もした。高校の時の寮生活はある意味遊びに近いものがあったし、部屋そのものは個室だった。同年代の一般的な人に比べて、彰はずっと、「ひとりで暮らしてきた時間」が長かったのだ。誰かとずっとひとつ屋根の下で暮らす、という感覚がもう彰には思い出せなかった。
 週末ごとに相手の家で時間を過ごす日々は勿論楽しく幸福だけれど、どこかままごとのようでもあり、もうずっと長いこと、どこにも根を張らずに浮き草のように生きてきた自分に果たして本当に「家庭」というものが築けるか、それが彰には不安だった。
 けれどそれができるかもしれない、そしてそうしたい、と思える相手は、この世に皐月ひとりしかいなかった。
 設計を希望して就職した会社で、彰は何の因果か、自分の性格とは正反対の営業を担当させられることになった。すっかり意気消沈してしまった彰に「アキくん、自分では全然気づいてないみたいだけど、お客さんからしたらすごく感じ良いし、安心感あるのよ。だから自分の向き不向きは一度脇に置いてみたら? それに、売るひとがつくるものに興味あるのってすごく大事なんじゃない?」と皐月が言い、その言葉に励まされて始めた仕事は、確かにやる前に思っていたよりずっと、自分の肌に馴染んだ。
 だがやはり設計にも未練があった彰は、新商品の発売の際などに度々設計に出入りして、商品の設計意図やセールスポイント、どこを重視してデザインしたか、などを詳しく聞き出した。最初は煙たがられて相手にもされなかったが、彰が本来はこちらの道を希望していた、ということが徐々に伝わって、その内に営業と現場の橋渡し的な役割まで担うようになる。「やっぱりアキくんはすごい!」と弾けるように笑った皐月の顔は、彰にとって忘れられないものとなった。
 就職して一年と少しが経った後、彰は皐月にプロポーズした。そしてそのほぼ半年後、二人は結婚することとなる。
 お式は簡単に、という皐月の希望と、皐月の両親達の「娘のドレス姿が見たい」という希望に合わせ、二人は皐月の地元で皐月の家族ばかりの簡素な式を挙げた。その後、友達を集めてお披露目を兼ねた食事会をして、二人のどちらの職場からも通勤に便利な新居で一緒に暮らし始める。
 それはやはり、彰にとって、最初はどこか足が地につかない、ふわふわとした現実感の無い日々だった。高校の時の、まるで遊びのようだった寮暮らしにもどこか似ている。
 けれども時が経つにつれ、浮き上がった足がだんだんと下降して、しっかりと地面を踏みしめている感覚が増してきた。
 会社帰りに買い物に行って野菜ジュースを買うのに、今までは飲み切るのに時間がかかるから小さなパックを買っていた。それが、今では皐月も飲むから、と一リットルサイズで買う。卵も今までのほぼ倍の速度で減っていくから、それを加味して買う必要がある。一番少ないサイズの小分けパックで買っていた肉や魚も、大きなものを選ぶようになった。皐月がこまめに味をつけて冷凍するので、多少多いかな、と思うサイズでも躊躇なく買うようになる。
 それまであまり深く考えずに何でもぽんぽん放り込んでいた洗濯は、あれこれ分けてやりたい、と思うらしい皐月の担当となった。繊細な下着などを除けば彰の干し方には特に不満はないらしく、そちらは手が空いている方が行っている。
 水まわりの掃除はこまめにする皐月は、部屋全体の掃除機かけとかハタキかけとかは後回しにしがちで、自然と担当が分かれていった。夕飯は大体、前の日に次の日の帰り時間を予想して、早くなりそうな側がつくる。
 無意識の内に生活のベースのすべてを「ひとり」から「ふたり」で考えるようになっていることや、自分のルールと相手のルールが細やかな繊維のように絡み合って、やがて一本のしっかりした糸に紡がれていく様を、彰は驚異的な思いで眺めた。
 外が暗くなってから帰宅して、家の灯りがともっているのを見る。玄関を開けると中から暖かい湿気と共に夕飯の匂いがして、「アキくんお帰り、居間に洗濯入れてあるからたたんでほしいな!」と皐月の明るい声が飛ぶ。仕事で残業になった皐月を朝ぎりぎりまで寝かせておいて、手早く食べられて、でも栄養バランスの良い朝食をこしらえ彼女を起こすと、「アキくん、最高!」と言って抱きついてくる。
 ――深夜、ふっと目が覚めて、しばらく呆然と天井を見つめていると、隣で寝返りを打った皐月の体のどこかが、とん、と自分に当たる。
 すうっと冷や汗のつたっている額を巡らせてみると、いつの間にこっちのベッドに潜り込んだのか、気に入りのふかふかの枕に頭を乗せて、すうすうと寝息を立てて眠っている皐月がいる。
 全身からどうっと力が抜けて、ああ、そうだ、もう大丈夫なんだ、そう感じる。
 隣に彼女がいる限り、自分は大丈夫。
 本当なら腕をまわしてぎゅうっと抱きしめたいのを、起こしてしまいたくなくてそうっと指を握るだけで我慢する。彼女の左の薬指にいつもおさまっている、プラチナのほっそりしたラインの指輪の感触を感じながら。
 我ながら不思議なことに、いざ結婚するまで「子供」のことを彰は全く、考えに入れていなかった。向こうも何も言わなかったこともあって、事前にどうしたい、ということも全く話をしていない。
 結婚してまわりから言われたり外で子連れのカップルを見て、彰は初めて「ああ、そういうことを考えないといけないんだ」と気がついた。本当に我ながら子供か、と思ったことに、彰は何となく、そういうことはいつか自然にそうなるものだ、と頭のどこかで思っていたのだ。自分達が幸福に暮らしていれば、ある日突然、そこに「子供」が出現する、そんなおとぎ話のようなことを頭の片隅で確かに信じていた。
 だがそもそも、学生の頃からの習慣できちんと対策をしている二人に当然子供ができる筈はなく、欲しいのならちゃんとそれを口にして、その習慣を変えなければならない。
 けれど彰は、自分からはそれを言い出すことができなかった。
 やはりどうしても妊娠・出産に関して仕事にブレーキがかかるのは女性の方だ。生まれてしばらくして、彼女が希望するなら自分が育休を取って面倒みたって一向に構わないが、産む前や産んだ直後はどうしたって彼女が休む必要がある。自分が「欲しい」と言い出すのは相手にそれを強いることで、申し訳ないことのように彰は思った。
 正直に言って自分が本当に「子供が欲しい」のかどうかも彰にはよく判らなくて、それなのにそんな要求をするのはますますどうなのか、という気もした。皐月とならきっとそうなっても上手くやっていける、という自信はあったものの、でもそれが人生に必須のものか、と言われるとよく判らない。
 ――あまり欲張っちゃいけない。これ以上何かを得ようなんて、諦めろ。
 誰の声ともつかない声で、そんな言葉が時折ふっと、彰の胸の底をよぎる。
 その度、皐月の声がする。
 ――「彰」は「諦めない」の「アキラ」でしょ。
 それに彰は、日々勇気づけられる。
 大丈夫。自分は、大丈夫だ。
 いつかきっと、ここから更に、新しいものを手に入れられる。ふたりでいれば。
 二人ならきっと。

 そんなある残暑の厳しい日、あの一本の連絡が、彰の心を粉々に打ち砕いた。
   
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