猫かぶり

文字数 8,266文字

  
 仮想都市に潜入をはかる、と言っても、何か具体的な方法がシーニユにある訳ではなかった。
 彼女達が都市に行く際には、街のとある場所にある電子的な「門」を通る。だがそれをゲストである彰が通過できるとは思えない、と彼女は言ったし、彰も同じように思った。
「まずは状況から判断して、御堂さんが入れる方法を探すよりも、都市内で美馬坂さんを探して話を聞く方が先決かと存じます。構わないでしょうか」
「ああ、いいよ。皐月のことは急がない」
 すっかり気持ちが落ち着いて、彰は微笑んでそう言って。満ちるのことを考えたらまず少しでも早く英一の話を聞きたかった。
「判りました。ではすぐにでも申請して許可を取ります。御堂さんの次のご予約はいつですか」
「一週間後。十五時で予約してる」
「判りました。では広場の辺りでお待ちしています」
 こくん、とうなずくシーニユを見ながら、彰は先刻の彼女を思い返していた。
 今までずっと、「私共」と複数形、群体のように自らを呼称していた彼女。
 それが初めて「わたし」と単数形で自分を名乗った。
 果たしてそれに、彼女は自分で気がついているのか。
「それじゃ」
 視界の隅にちかちか、と赤いライトが点滅し、イヤホンからも『あと五分でログアウトします』という言葉が流れる中、彰は立ち上がった。
 シーニユも続いて立ち上がる。
 このままログアウトまで待っていても別に変わりはないのだけれど、何となく「普通の別れ」というものがしたくて彰は店の扉に向かった。
 シーニユも後ろについてくる。
 扉の前で、彰は振り返って。
「今日はありがとう」
 そう言って片手を差し出すと、シーニユは黙ったまましげしげとその手を見つめた。
 彰はわずかに苦笑しながら、更に手を前に出す。
 彼女は小さく息をして、すっと右手を上げ、彰の指にその指を殆ど触れずに乗せて。
 ぐい、と引っ張るように、その華奢な白い指を握り込んで一度大きく振って離すと、ぱたり、と彼女の右手が落ちた。
「本当に、ありがとう。マスターにも、お礼を言っておいて」
 軽く頭を下げてもう一度礼を言うと、変わらない表情のまま、シーニユがひとつうなずいて。
「それじゃ。……また、来週」
 ふっと微笑んで言う彰を、シーニユは数秒間じっと見つめて、小さく「はい、また」と言った。
 店の扉を開けて、外に出る。
 背後でぱたり、とそれが閉まる音がした、その次の瞬間、眼前に『ログアウトします』という大きな黄色い文字が点滅して、視界が真っ暗になった。


 装置が開いて外に出た後も、右手の中にうっすらと、感触と温かみが残っているような気がした。
 アイマスクを外しながらそっと顔に触れてみると、目の下の皮膚にまだ少し湿り気を感じる。マスクの縁、肌側の部分の素材は白いふかふかした繊維のようなものでできていて、それもごくわずかに湿っているようだ。おそらく吸水性の良い素材を使っていて、涙はみんな、これに吸い取られてしまったのだろう、そう彰は思った。
 帰宅して、それから次の予約の日まで、彰は英一が亡くなった日付とその数日前分の日本中の交通事故のニュースを徹底的に調べてみた。当時英一が住んでいたのは大学近辺だろうけど、事故そのものの場所は違うかもしれない。どこか出先で事故にあうことだって普通にあるだろう。
 けれど該当するような記事は皆無だった。
 それから正直莫迦げている、とは思いつつも、その頃に海外から王室クラスのVIPが来日しているかどうかもひと通り調べてみたが、やはりそういうニュースも無い。
 宏志の店で、英一の墓参をした、という話をすると、そんな遠方まで、と宏志は大層驚きながらも「御堂の世話焼きが戻ってきたな」とどこか嬉しそうに呟いた。
 当然ながら満ちるから聞いた話は一切せずに、あの頃、近所でも大学でも大きな人身事故の話を耳にしたことはないか聞いてみたが、宏志もそれには全く覚えがないと言う。
「確かに、いくら退学したっつっても、ついこないだまで同級生だったんだし、そんな大事故なら話出回っててもおかしくない気するけど……そんな話題出てたら、いくら何でも覚えてると思うんだけどなあ」
 と首をひねる宏志に、彰は小さく「うん」と言うだけで応える。確かにその通りで、そうするとやはり彼が事故にあったのは下宿の近くではなくどこか別の場所なのだろう。
 けれどいくら調べても、そんな話は出てこなかった。
 そして、一週間が経った。


 その日はまさにクリスマス直前で、前回よりも更に広場がにぎわっている雰囲気がした。
 シーニユを探す前に、そういえば前回見損なっていた、と少し離れてツリーの一番上を見てみると、そこには金のラインで縁取られた、薄白く発光する大きなガラスの星がゆっくりときらめきながら回っていた。
 これは本当に凄い、と感心しながら彰が見上げていると、不意に耳元のリモコンから『メールが一通届いております』と声がした。
 えっ、と思いリモコンを叩いてみると、それはシーニユからのメールだった。申し訳ないが広場には行けなくなったので、直接『Café Grenze』に来てほしい、と。
 いぶかしく思いながらも、彰はそちらに足を向けて。
 四度目ともなると、大体の方向感覚がつくようになってきた。今なら少し注意して歩いていれば、地図が無くても、途中でどこかに立ち寄ったとしても、迷わず店にたどり着けると思う。
 けれど少しでも早く着きたくて、彰は地図から最短ルートをナビさせて店に急いだ。
 角を曲がって、壁の小さな出窓からうっすら灯りの気配を感じるのに、何だかほっとする。馴染みの場所だ、という気がした。
 ところがその気分を裏切るかのように、扉の前には「Closed」と書かれた札が下げられている。
 彰は一瞬躊躇したが、先日マスターに席を外してもらった時に、この札を彼が下げていったことを思い出した。今日は事前に場所を明けてもらったのだろう。
 申し訳ないことをしているな、と思いながら、ぎい、と扉を開けると、いつもの席にいたシーニユが顔を上げる。
 彰はつんのめるように、中に一歩入ったところで立ち止まった。
 何故ならいない筈だと思っていたマスターが、何故か彼女の向かいの席に座っていて、こちらを振り向いたからだ。
 そしてすっと立ち上がるとすたすたと歩いてきて、彰の真正面に立つ。
 彰は狐につままれたような気持ちで、自分より少し背が低いマスターを見下ろして。
 と、不意に相手がにこやかに笑った。
 その顔に一瞬横切った見覚えのある輝きに、彰ははっとする。
 上品に整えられた口髭の下の唇が開いた。
「――久しぶり、御堂くん」


 テーブルを動かしてくっつけ四人掛けにして、事前にマスターがつくり置いてくれていた、という保温ポットの中のコーヒーを並んだカップに注ぐと、マスター、――いや、英一だ――は自分は奥の席に座って、シーニユと彰を手前の席に並んで座らせた。
「美馬坂……くん?」
 ごくりと息を呑んで問うと、相手は軽やかに笑ってうなずく。
「そう。御堂くん、年とったねえ」
 どう見ても七十代の姿でしかないマスターの顔と声で、だが確かに聞き覚えのある英一の明るい口調でそう言われると、何だかものすごく奇妙な気分になる。
「シーニユ、これ一体」
 少し体を傾けて尋ねようとすると、英一が片手を上げてそれを止めて。
「説明は僕からするよ」
 と言ってからコーヒーにミルクと砂糖を入れてひと混ぜしてごくりと飲むと、英一は話し始めた。
 シーニユが話していたように、英一の仮想人格はゲートを通ることができない。だが彼女の話を聞いて、直接彰と会話したい、と思った英一が提案したのがこの「猫かぶり作戦」なのだそうだ。ちなみに名付けたのは英一である。
 人工人格は皆、「殻」の中におさまっている。殻の機構そのものはどれもほぼ同じなのだが、その中をどうデータが流れるか、という部分に個体差があるのだという。
「僕等が実験の時、その都度入ってた『殻』だね。あれと一緒。皆おんなじ殻なんだけど、違う人が接続することでその人に変わる。今の殻はもう少し進歩してて、性別や年代で多少の差異は付けてあるけど、それでも動かすのにはそれ程支障は無い」
 マスター本人は、今はいわゆる「電源が落ちた」状態になってもらっているのだと英一は話した。そしてそこに英一がログインするかたちでここにいる、つまりはハードに別の起動ディスクを繋いで動かしてるようなものなのだと。
「ゲートは通過する時にチェックがかかっちゃうから。でも、何て言うのかなあ、ゲームでもさ、裏技ってあるじゃない? それも、作った側が用意したものじゃなくて、たまたまそうなっちゃった、みたいな。作った側から見たらバグなんだけど、でもバグって普通、それで進行が止まったりデータがおかしくなるから見つかって直されちゃう。でもそうじゃなかった場合、気づかれないままで放っとかれてる。そういうのがあるんだよ、ここにも」
 実際、研究の為に『パンドラ』内のデータは都市内へ流入している。無論、逆もしかりだ。その、データやりとりの為のルートに穴があって、そこを通ってきたのだと英一は言った。
「仮想人格そのものは持ってこられない。大き過ぎてね。無理に通しても多分バレちゃう。だから遠隔操作って言うか、そう、糸電話みたいな状態なの、これ」
 人差し指で自らのこめかみの辺りを指して、英一はにやっと笑った。
「長年いるとね、いろんなことに精通してくるんだよね。あ、でもこの裏ルート、仮想人格でも知ってる人は多分いないよ。僕はさ、ほら、いろいろ調べたいひとだから」
 英一の言葉にかつての都市での彼の行動を思い出し、彰は苦笑する。ほんとに、間違いなくこれは英一だ。
 英一は今は人工人格の教育からは離れていて、それを行っている場所からも離れた区画で暮らしているのだという。だがそこに、シーニユが会いに来た、と言うのだ。
「人工人格がわざわざ訪ねてくるなんてそんなこと、初めてだったから。凄く驚いた。しかもさ」
 御堂彰さんを覚えているか、と尋ねられ、更に彼が今『パンドラ』を利用していて、貴方に聞きたいことがあると言っている、そう言われたのだそうだ。
 それならその時の記録を見るから接続させて、と頼むと、彼女はなんと、それを拒否したのだという。御堂さんがなさった話を、自分の言葉で貴方に説明します、シーニユはそう言ったのだそうだ。
 ひどく愉快そうにそう語る相手に、彰は思わずちらっと目線を隣に走らせた。
 シーニユは前を向いたまま、全く無表情にコーヒーをすすっている。
 彰の胸の内に温かさが広がって、口元がふうっとゆるんだ。
「聞いて、びっくりしてねえ。まさかそんなことになってるとは思わなかったから。……あ、でも、自分が死んだのは前から知ってたよ」
 相変わらずの陽気な口調でさらっともの凄いことを言われて、彰はたった今のほのぼのとした気分を一瞬で奪われ、コーヒーを吹き出しそうになった。
「……え、え、そうなの⁉」
 軽くむせかけながら聞くと、英一は眉を上げ当然、と言った顔でうなずいて。それにしても、あのシーニユ同様無表情だったマスターの表情筋がこんなに動くものだったのか、と彰は内心で変なことに感心する。
「うん。研究者の人が話してくれたからさ。そりゃもう、びっくりしたよ」
 からから、と明るく笑ってから、英一はほんの一瞬だけ、顔を引き締めた。
「……うん、まあね、ショックはショックだったけど……でも冷静に考えてみたらさ、最終的には皆そうなるよね。この研究が後何年かかるか判らないし、僕等がいつまで存在させてもらえるかも判らないけど、この先何十年も経てばここにいる自分達より外にいる本体の方が先に死ぬんだな、僕は人よりそれが早く来ちゃっただけなんだな、って」
「…………」
 英一の言葉に、彰はぐさりと胸を刺される。
 じゃあ、皐月も……この都市の中の皐月も、知っているのか。外の自分の、死を。
 それは恐ろしく無惨なことに感じられて、彰は痛ましさにぐっと胸が詰まった。
「ただ……うん。確かにね。ウチのことは、ずっと気にかかってた」
 と、大きく息をついて呟くように英一が言ったのに、ぐい、と気持ちをその場に引き戻される。
「まあでも、何とか乗り切ったみたいだ、てこと、後から研究者の人が教えてくれて。凄く気の毒がってくれて、もともと貰う筈だった分の報酬、実家に払ってくれたみたいで、それも有り難かったよ」
「何とか、て……どうやって?」
「さあ。さすがにそこまでは判らないけど。でもなんか、姉貴が女将になって、なんだっけ、新館? あれ建てた後ニュースになったみたいで、それ見てさ。ほんとに乗り切ったんだ、すごいな、て感心したよ」
 あっけらかんと話す英一に、彰はまあでもそれもそうか、とも思う。一被験者の実家がどうやって借金を乗り越えたか、なんてここの研究機関の人達に判る筈もないし調べる理由もない。最終の報酬を払ってくれただけでも十二分だろう。
「あ、でもね、満ちるが思ってるようなこととは違う。もう全然違うよ」
 英一はテーブルに両肘をついて身を乗り出して。
「それはほんとに、どうにかして伝えてほしい。姉は確かに情のきついひとで、それを人にはわざと強調して見せるようなところもあって、だから凄く誤解されやすいんだけど、でも絶対に、そんなことをするような人じゃないんだ」
 それまでの様子を一変させて勢いのある真剣な口調で話す英一に、彰は少し、圧倒される。それと同時に、ああ、これは間違いない、満ちるの思うようなことはやっぱり無かったんだ、と胸の底の方からじんわりと安堵が熱になって広がった。
「彼女は昔っから、責任感が強いひとだったから。何でもかんでも、自分で背負っちゃう。借金で家が傾いて、でも僕が卒業するまでは何としてでも自分がここを守る、だからあんたは安心して勉強してきなさい、てよく言って……あ、まあでも結局、退学する羽目になっちゃったけどね」
 姿勢を戻して、軽く肩をすくめて英一は笑って。
「その上、まさかの事故死だし……だから姉貴にはほんと、苦労と迷惑かけっ放し。感謝こそすれ、そんなこと夢にも考えたら駄目だって、何とか上手いこと、ここの僕のことは内緒で満ちるに伝えてほしいんだ。御堂くんには無茶な頼みで申し訳ないけど」
「あ、……あ、うん、勿論」
 英一の言葉にふっと意識が揺れたのに、急に名前を呼ばれて彰はどもりながらうなずいて、それからやや遠慮がちに口を開いた。
「……美馬坂くん」
「ん?」
「あの……ごめん、悪いこと聞くけど、じゃこっちの君が亡くなった原因って、やっぱり交通事故なの?」
「そうだよ。て言うか、正確に言うとそう聞いたよ」
 彰の疑問に、相手は間髪入れずにさくっとうなずく。
 そして少し考え込んだ彰に、わずかに身を乗り出して。
「そういえば……皐月さんの話、聞いた」
 彰ははっと顔を上げた。
 マスターの顔が、気の毒そうないろに染まっている。
「彼女も交通事故だったんだってね。……辛かったよね、御堂くん」
 ぐうっと肺が圧迫されて小さくなっていくような感覚を味わいながら、彰は浅い呼吸をして。
「……皐月は……そっちの皐月も、やっぱり、知ってるのかな」
 切れ切れに声を出すと、英一は気の毒そうな顔のまま腕を組んで椅子の背にもたれた。
「どうだろう、判らないな……僕に伝えてきたんだから、他の仮想人格にも同じようにしてるんじゃないかとは思うんだけど。ごめん、今の仮想都市って前よりずっと、広くてさ。住んでるところ離れてて、実を言うと、僕もう何年もこっちの御堂くんや皐月さんには会ってないんだよ」
「…………」
 心の表面に細かいヒビが入ったような思いがして、彰はものも言えなくなる。
「でも連絡は取れると思う。……御堂くんさえ良ければ、この同じ方法で彼女と話ができるよ。どう?」
 そして続けられた言葉に、もはや息さえも吐き出せなくなった。
 皐月と……話す?
 頭の中に突然に大きな竜巻がわき起こったようだった。
 何ひとつまともな、筋立った言葉が浮かんでこなくなって、彰はただぜいぜいと息を吐く。
「――すみません」
 と、突然、隣でシーニユが小さく片手を上げた。
「ん?」
 英一はきょとんとした表情でシーニユを見て。
「少し、御堂さんと個人的な会話がしたいのですが」
 いつもと同じ、落ち着き払った声音に、彰はゆっくり、首を巡らせた。
 前を向いたまま、シーニユはわずかに瞳を動かしてちらっと彰を見返す。
「了解」
 と、向かいで英一が片眉を上げて笑って、そう一言答えた。
 シーニユは無言で立ち上がると、目だけで彰を見下ろす。
 彰はその目線にはじかれたように慌てて立ち上がった。
「外で話してきます」
 英一に向かってそう言うと、シーニユは身を翻して店の入り口へと向かう。
 焦りつつその後に続きながらちらっと後ろを振り返ると、腕を組んで椅子に腰掛けたまま、英一が軽く片手をこちらに振ってみせた。


 シーニユは何も言わずに先に立って歩いて、店から数メートル程離れた建物の、観音開きの扉の前の石段の上に腰をおろした。
 手で指し示すので、彰はそのひとつ下の段に斜めに向かい合うような位置で腰をおろす。
「あの人に意味があるか判りませんが、念の為シークレットモードにしますね」
 彼女がそう言うと同時に、視界の片隅に「シークレットモード・ON」という黄色い小さな文字がちかっ、と一回だけ点滅して。
「シーニユ……どうして」
「今あの問いに回答されるのは困難なように拝見しました」
 さらりと答えられ、逆に言葉に詰まる。
 深く呼吸をしながら見上げると、ガス灯の灯りが斜め上からシーニユの姿を影のように浮かび上がらせている。
 その姿を見ていると、今度は自然に唇が開いた。
「シーニユ」
「はい」
「調べてほしいんだけど」
「はい」
 そして彰は改めて、英一が亡くなった日付とその数日前分の交通事故のニュースについて尋ねてみる。
 今度は日本中なので前より時間がかかるかと思ったが、ほんの二、三秒でシーニユは「ありません」と簡潔に答えた。
「そうなんだ……」
「事故は勿論、あちこちで起きていますが。でも殆ど名前が出ていますし、出ていないものでも年齢や性別が違います」
 彰はまた口をつぐんで、膝の上に頬杖をついて考え込む。
 機関は英一の死について、わざわざ遺族に最終の報酬を支払っている。いくら当人の意志ではない、不慮の事故の為だとは言え、実験に最後まで参加できなかったのに。
 しかも突然の事故なのだから、家族に連絡はいってもバイト先になんか連絡が来る訳もなく、つまりは実験日には、英一は研究者からしたら「無断欠席者」と認知され、その場で終了扱いとなった筈だ。まあ確かに、それまで一度の問題もなく出席していた人間がこの期に及んで、となると向こうから確認の電話やメールくらいあったかもしれないが、それに無反応ならそこで終了だろう。
 でもそうじゃない。
 という事は研究機関側は何らかのかたちで英一の死をきちんと確認したということだ。それが確認できないのに、高額の報酬を払ったりする筈がない。
 それなのに、英一の事故の記録がどこにもない。
 彰は大きく息をついて、更に考え込んだ。
 考えられるのは三つだ。
 一・英一の姉の言うVIP説が事実であること。この場合、死因は事故。
 二・事故死だ、と英一の家族側が機関に嘘をついていること。この場合、死因は事故以外。
 三・事故死だ、と機関側が仮想人格の英一に嘘をついていること。この場合も死因は事故ではない。
「……いや」
 そこまで考えて、唇から小さく声が漏れた。
 シーニユがわずかに頭を傾けて、彰を見下ろす。
 もうひとつ、ある。
 彰は目を上げて、店の方角を見た。

 ――事故死だ、と、英一が彰に嘘をついていること。
 この場合、死因は事故死ではない。
    
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