皐月・1

文字数 4,960文字

 
 もともと大学のそのサークルに彰を引っ張り込んだのは、宏志だった。
 彰の高校の選択の第一条件は「寮があること」で、その上に自分の偏差値に見合うところ、寒過ぎるのも暑過ぎるのも苦手だから相応の気候であること、などを加味していくと、候補は三ヶ所程しか残らなかった。
 将来的なことも考えて、少ない候補の中から東京に一番近いところを選んで進学した、そこでクラスメートとして知り合ったのが宏志だった。
 入学したその日にくじ引きで決められたクラス委員に、彰は見事選ばれてしまった。もともとこつこつとした仕事が嫌いではない彰には特に不満は無かったが。
 だから入学して二ヶ月もしない内、宏志が季節外れのインフルエンザで一週間学校を休んだ時に、彰は担任から彼の為にノートを取り、それを届けるように頼まれたのだ。
 彰はごく真面目にその仕事をこなした。
 板書のノートと共に各授業を録音したが、月曜から金曜の授業を全部聞くのは時間がかかり過ぎるだろう、と思い、内容を要約したものを添え宏志の家に持っていくと、その判りやすさと親切さに彼だけでなく彼の両親までもがすっかり彰のことを気に入ってしまったのだ。
 それから度々、彰は宏志の店で食事を取るようになった。「ノートのお礼」と、いつも代金は受け取ってもらえなかったが。
 最初はお互い名字で呼び合っていたけれど、宏志の家に時々行くようになってから彰の側からは名前で呼ぶようになった。同じ名字を持つ両親の前でそれを呼び捨てにするのも、さすがに気が引けて。
 二人の高校に寮がある大きな理由の一つは、野球部が十数年前から毎年のように甲子園で好成績を残すようになり、越境入学を希望する人数がどっと増えたからだった。だから当然、夏休みには寮は閉鎖されない。
 けれど冬休みにはさすがに寮も閉まってしまう。高一の秋に叔父夫婦はまた転勤となってしまい、まだ中学生だった子供を連れてアメリカに移住してしまったので、当初はウイークリーマンションでも借りてしのごうか、と思っていた彰を宏志が家に誘ってくれた。
 いくら何でも年末年始という家族的な時間の中に他人の自分が二週間近く居座るのは、と渋る彰を、宏志は半ば強引に自宅に引っ張っていった。
「じゃ、これ着けて注文取ってね!」
 店の入り口を開けて宏志達が中に入ると、あらかじめ宏志から話を聞いていたのか、母親が有無を言わさずそう言ってエプロンを投げて寄越して、訳も判らない内、彰は店員として働かされていた。
 嵐のような数時間が過ぎた後、客がようやく少し減ってきた頃に隅のテーブルに座らされ夕食を置かれて、「うん、いい働きっぷり。合格!」と宏志にそっくりの大きな瞳を細めて微笑む母親と、「うちは年末は大晦日まで、年始は四日から開けるからな。がっちり働いてってくれよ!」と豪快な笑い声を立てる父親に、彰は両親を亡くしてから初めて、「ああ、自分はここにいてもいいんだ」というじんわりとした気持ちを味わった。
 高校に進学した時、大学をどこにするかまではまだ決めていなかったけれど、「店の手伝いもしなくちゃいけないから、自分は自宅から通える範囲にする」と宏志が話していたのに、彰も漠然と「なら自分もその範囲内で大学を決めよう」と考えていた。
 とは言っても、つきあいが続けられればそれだけで良かったので希望の大学名までは聞いていなかったのに、高三になって最初に出した第一希望の進路先が学部こそ違えど同じ大学だったのに、彰は驚きと共に少し嬉しく感じた。
 二人して学力的には大きな無理はない大学だったので、春には無事二人とも合格し、晴れて同じキャンパスに通うこととなった。
 宏志の家は大学まで途中は電車に乗って三十分程で、彰は大学から歩いて十五分くらいのところに安いアパートを借りた。講義の後に宏志が立ち寄ってそのまま泊まっていく、ということも良くあったものだ。
 そして入学して一ヶ月半が過ぎた頃、宏志が彰をサークルに誘ってきた。
 そこに、皐月がいたのだ。


 もともとは二人とも、そのサークル、演劇部に入会しようと思っていた訳ではなかった。
 宏志は高校の時に放送部に入っていて、一年上の先輩が同じ大学に進学していた。その先輩が大学で入っていたのが、演劇部だったのだ。
 新入生の勧誘を兼ねた公演で、宏志は街中の群衆役、つまりはエキストラをその先輩に頼まれた。とにかくビジュアル的にたくさん人がいて、「何だあれは」みたいにがやがやと騒いでいる様子が欲しいんだ、だから知り合いがいたら何人でも連れてきてくれ、そう言われて宏志は彰を引っ張り込んだのだ。
 舞台で演技なんてとんでもない、と思っていた彰だったが、それが本当にただの「群衆」で出番も短い、と聞いて断り切れずに引き受けることにした。
 出番そのものは本当に短く、あちこちからずいぶんかき集めてきたようで人数も多くて目立つこともなく、それ自体は楽な仕事だったけれど、先輩が「飯奢るから」とちゃっかり頼んできた荷物運びや後始末の力仕事にまで二人はつき合わされることとなった。
 その手伝いの一人に、エキストラの中に混じっていた皐月がいたのだ。
 彼女は演劇部の正式な部員だった同じクラスの友人に頼まれたのだと、手伝いの合間に二人に話した。
 フルネームは遠野(とおの)皐月。学部は英文学部で、すらりとした体つきとふわりとボリュームのある黒髪のショートヘア、丸みを帯びた瞳とはきはきと話す声が印象的だった。
「力仕事なら全然いいけど、舞台はもう勘弁」と言って笑う姿に、「舞台映えしそうなのに、勿体ないな」と彰は内心で思ったものだ。
 きっちりと仕事をこなす彰のことが気に入ったのか、先輩はそれからも度々、宏志に「あいつも連れてきて」と手伝いを頼むようになった。その都度、学食の安い定食ではあったが本当に奢ってくれたので、空いている時間は二人ともその頼みを引き受けていた。
 そうやって何度か通う内、そこで皐月に再会することとなる。
 皐月は舞台で使う小道具や衣装の作製、果ては書割りの色塗りまで手伝っていた。
「そんなことまで」と驚く二人に、「ちょっと手伝ってみたら意外と面白くて。『裏方だけでいいなら』て約束して、入部しちゃった」と皐月は舌を出して笑った。そして「二人もこれだけ来てるならもう入っちゃえば?」と。
 顔を見合わせる二人に、「それ自分も賛成」と、当の先輩以外の上級生も言い出して、二人はなしくずしに入会することとなった。彰は「絶対に裏方だけ」と条件を付けて、だったが。
 人前で演技なんてとんでもない、と彰は思っていたし、生活費はバイトで賄っていたので、台詞を覚えたり稽古をしたり、なんて時間は到底取れなかった。
 けれど皐月がやっている道具関係の仕事には興味がわいた。そもそも彰は、理工学部でブロダクトデザイン専攻なのだ。
 物の形を忠実に再現するのではなく、客席側から見た時のことを考えて色や形をデフォルメしたり、演者が持ちやすいように滑り止めを付けたり持ち手の形を工夫したり、そんなアドバイスをしている内に彰と皐月はよく話すようになっていった。
 けれども彰にとってそれは、宏志に対して抱く「友情」とさして変わらない感情で、宏志に「お前等つき合っちゃえばいいのに」と言われても、いっそぽかんとするくらいだった。どちらかと言うと女子と話すのが不得手な彰にとって、皐月は向こうからはきはきと話しかけてくれることと、論理が明解で理屈がきちんと通ることで、会話していて気持ちの良い友人、という感覚だったのだ。
 それは多分、向こうにとっても同じだったと彰は思っている。
 彼女はいつも、しゃきしゃきとした態度で彰と対峙していて、そこに男女の感情は全く見てとれず、それが逆に彰にはとても好ましく感じられた。
 きっとこのままずっと「良い友達」としていられる相手、それが彰の皐月に対する評価だったのだ。


 大体、自分があまり恋愛に積極的になれないのは宏志のせいでもある、と当時の彰はちょっと思っていた。
 宏志には中学時代からずっとつきあっていた彼女がいて、それこそ「将来は絶対結婚する」と彰に宣言するくらいに惚れ込んでいたのだったが、高三の夏休み直前というなかなか微妙な時期に「バイト先で好きな人ができた」とあっさりふられてしまったのだ。
 その時の宏志の落ち込みようは半端ではなかった。
 毎日目は赤くまぶたは腫れ、数日もしない内に目の下にくっきりクマが出て頬もげっそりとこけた。
 親も事情は察したようで、当たり障りなくふるまっていたけれど、ある日こっそり彰を呼んで「夏休み、勉強大変だろうけど良かったらマメに泊まりに来て」と頼んできた程だった。
 勿論彰は、言われるまでもなくそうした。
 その頃の宏志と一緒に部屋にいると、何だか宏志の周りだけ空気の色が黒っぽく暗くなって、ずしんと肩が重くなる気さえした。普段が底抜けに明るいだけに、その落差がまた雰囲気の暗さに拍車を掛けたのだ。
 ……ああ、こんなに辛いものなのか。
 彰はがくんと落ちた宏志の肩を見る度、そう思ったものだ。
 彰にも高校の最初の頃、友達を通して告白してきた別のクラスの女の子と「つきあって」いた時はあった。相手の子ははにかみやだったけれど明るい笑顔で笑う子で、かわいいと思ったし「好きだな」とも思ったしキスもしたけれど、自分の彼女のことを嬉しそうに幸せそうに語る宏志のことを見ていると、自分のそれは「恋」とはちょっと違うのかな、そんな風に思ったりもしていた。
 そしてそれはやはり、あまり深くは発展しないまま何となくなしくずしに自然消滅して、高二の冬に別の男子生徒と嬉しそうに腕を組んで歩く彼女を見かけた時も、「ああ、笑ってる、良かったな」とむしろほのぼのとした気持ちになったものだった。
 だからその時の宏志の崩れようは、彰にはとても印象的に残った。
「本当の恋」をして、それを失う、というのはこんなにも辛いものなのか、と。
 そんな辛さに、自分は耐えられる気がしない。
 特に何か投げかける言葉も持たずに、ただただ隣に居続けていると、日々少しずつ少しずつ、薄紙をはがすように宏志は一番底の場所から回復してきた。
 夏休みが終わる頃にはもうすっかり前の宏志に戻っていて、けれどそれから後、誰が告白してきても、宏志は「ごめん」と薄い笑みを浮かべて断っていた。
 気さくで明るくて、背丈もあって爽やかな印象の顔立ちの宏志は女子から結構人気があって、「長年の彼女と別れた」と知った同級生や後輩からそこそこの人数、告白されたのだったが。
 まあ勿論すぐというのは無理に決まっている、彰はそう思っていたけれど、大学に入って数ヶ月が経っても、宏志は全くそういう話から遠ざかっていた。
 ある暑い日、学食で買ったカップに入ったかき氷を学舎の外階段に座って食べながら、宏志はぽつりと言ったものだ。
「俺、この先一生、彼女しか好きになれない気がする」
 下に座っていた彰が思わず見上げると、宏志はこちらを見ずに顎を上げて雲の方を見ていた。
「駄目だよ、皆比べちまうもん。話しててもさ、皆ダブんの。彼女だったらああ言ったよな、こうするよな、て。俺この先一生無理だわ、恋愛」
 ――大丈夫、今そう思ってたってまた恋はできるよ、そう喉の奥まで出掛って、でもそのまなざしに、いや違うかもしれない、宏志なら本当にこの先ずうっと、彼女のことを思い続けるのかもしれない、そう彰は思った。
 そしてやっぱり、「本当の恋」なんて大層なことはするもんじゃない、と。
 こんなにも心に食い込んでしまって、こんなにも自分の人生から外せないものになってしまうだなんて、そんな恐ろしいことはとてもできない、そう。
 まだ自分という人間が自分の中でも確定できていない内に、そんな大変な枷を自分で自分に掛けるなんて空恐ろしい真似、とても無理だ。
 そう、思っていた。
 だから今は、恋なんてしない。
 そう思っていたのだ。
 あの日まで。
 
 
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