夜の街へ

文字数 6,837文字

  
 前の晩はなかなか寝つけず、やっとうとうとしても何度も目が覚めた。
 飲み残しの睡眠薬を飲めば良かったかも、そう思いながら彰は軽い朝食をとって身支度を整える。
 無意識にスーツを手にとりかけて、はたと考え直した。
 自分は「遊び」に行くのだ。
 単純に仮想現実体験を楽しみたい、そういう「ただの一般人」として『パンドラ』に入るのだ。
 そう向こうには思ってもらわないといけないのだ。
 ネルシャツの上にセーターをかぶって、厚手のパンツを履く。
 コートをはおるとふう、とひと息ついて、彰は家を出た。


 更衣室はジムのそれに似ていて、奥にはシャワー室があった。
 ロッカーは大きめのものが八個程並んでいて、鍵の無いものが他にもある。
 ここまで案内をしてくれた白衣を着た男性に、専用ウェアやバンドの装着方法をひとつひとつ説明されてその通りに着込んでみせると、手首や足首の辺りをチェックして「はい、問題ありませんね」とうなずいて。
「ではこちらへ」
 スリッパを履き、元の廊下に出てしばらく歩くと、男性が並んだ扉のひとつを開いて手で彰をうながした。
 中へ入ると部屋の真ん中にプロモーションの映像で見た繭のような真っ白いカプセルが置かれていて、隣にもう一人、白衣の五十代程の男性が立っている。
「本日担当いたします、桑島(くわしま)と申します。よろしくお願いします」
 その相手が頭を下げてくるのに、彰も頭を下げ返した。
「御堂さん、今日は初めての御体験ですね。緊張なさってますか」
 愛想よく微笑みかけてくるのに、彰は曖昧に微笑み返す。緊張しているのかどうなのか、もうそういうところを通り越している感じが自分ではする。
「それではまず、血液を採取させてもらいますね」
 親指の先くらいの、白く丸い血液採取キットを取り出すと、桑島は彰の右手を取った。
 人差し指の先にそれを乗せ、ぐっとつまむとほんのかすかにちくり、という感覚が走る。
 桑島はキットを若い男に手渡すと、素早くアルコール綿で彰の指先を拭いた。見た目には全く、針傷は判らない。
「『パンドラ』入室直後に、内部にいる係員の者から利用説明がございます。内部でのゲストの行動は逐一モニタなどはしておりませんので、どうぞ我々のことは気にせずお好きにお過ごしください。心電図や血圧などの体調面について問題が出た場合は、センサーからすぐこちらに通知がきますのでご安心を」
「……判りました」
 中での行動はずっとチェックされている訳ではないのか、そう判って彰はぱっと胸が高鳴るのを感じた。それなら自分のやりたいことは、ずっとやりやすくなる。 
「それではこちら、かぶっていただけますか。水泳帽みたいに、髪の毛をできるだけ中に入れる感じで」
 桑島はそう言うと、本当に見た目や手触りが水泳帽のような、ウェアと同じ、黒地に青のラインがデザインされた帽子を差し出して。
「では、失礼しますね」
 彰がそれをかぶっていると、二人はカプセルに付属した機械から何かのコードを何本も引っ張り出して、二人がかりで彰の手首や足首のバンド、それからかぶったばかりの帽子の上にもそれを装着していく。
「それではこちらをおつけください」
 更に、一本一本の指にコードの繋がった厚手の手袋を渡され両の手にそれをはめる。
「では、開きます」
 桑島の言葉と共に低くモーター音がして、ぷしゅっ、とカプセルの蓋が開いた。
 中には七分目程に透明の液体がゆらりと揺れていて、底がちょうど人間がリクライニングシートに横たわった時のような形にへこんでいる。
「お入りください。――冷たくはありませんから、ご心配なく」
 そう言って手で示された先、カプセルの端に小さな踏み台が付いているのを見て、彰はうなずいてスリッパを脱いで段にのぼると、とぷん、と液体に足の先をつけた。
 ――本当だ、冷たくない。
 ゆっくりと体を入れながら、彰は驚く。
 それどころか、液体に入った、という感覚すらない。
 カプセルに当たっていることは判るので、服や手袋が感覚を遮断している訳ではないと思う。ということは、この液体がまさに体温と同温に保たれている、ということなのだろう。
 その違和感の無さに、彰は急に気分がほっとするのを感じた。
 同時に、やはり自分が相当に緊張していたのが判って、内心で苦笑する。
 桑島が手を貸そうとするのを身ぶりで断って、彰はカプセルの中に腰を下ろした。
「では、こちらをおつけください」
 透明のシリコンのような素材のマスクを手渡されてそれをかけると、ちょうど口元の辺りに付いたアダプターにチューブが繋がれて、相手が何かを操作するとマスクの周辺がぴたりと頬や顎に密着した。
 指先でそれを確認すると、桑島が「呼吸に問題はありませんか?」と尋ねてきて、彰がうなずくと若い男が差し出してきたヘッドホンを手渡す。
 イヤーカップが肉まんのように大ぶりなそれは、耳にあたる部分にまさに耳のかたちにへこみがついていて、それにあわせてかぶるとまたぴたっ、と周囲がくっついてくるのが判った。
『――御堂さん、聞こえますか?』
 と、耳元でそう桑島の声がして、彰はこくりとうなずいた。
『ではこちらを。これで最後です』
 言葉と共に差し出されたアイマスクをつけると、まわりがやはりぴたりと吸いつく。
『手を貸しますので、横になってください』
 暗闇の中、そう声がして肩に手が置かれ、背中を支えるようにして彰を横たわらせる。
『息苦しいとか、どこか痛いとか、何か問題はありますか?』
 少し間を置いて聞こえてきた声に小さく首を振ると、『もしパンドラ内で体験を中止されたい、と思われましたら、フルネームに続けて「体験中止」と声に出して言ってください』と言われて、彰はまたうなずいた。
『では、「パンドラ」で素敵なバカンスをお楽しみください!』
 すると、声が突然、耳元ではなく頭の中心で弾けたような感覚がして――


 ――目の前に下から黄色みを帯びた光でライトアップされた、大きな彫像が建っていた。
「え……」
 無意識に声に出しながら、彰はまじまじとそれを見つめる。
 頭の上は完璧な星空で、そして真正面にはボッティチェリの『春』の絵のヴィーナスと三美神、フローラを刻んだ巨大な大理石の群像がある。
 その向こう側にちらりと、細かな電飾で飾られた、けれど何故かどぎつさは感じられない、二十世紀初頭のヨーロッパをイメージさせる古めかしさをたたえた大きな建物が覗いている。
 まじまじとそれを見上げて、ゆっくりと目を下ろすと自分の手や体が目に入った。
 着ている服は、コートを着ていないことを除いて朝と同じだ。
 スニーカーの下には、年季の入った風合いの石畳が見える。
 思わず耳や頭に触れてみたが、先刻身につけたばかりのヘッドホンや帽子の存在は完全に消えていて、いつも通りに髪の毛や皮膚の感触がする。
 深く呼吸すると、わずかに湿り気を帯びた、夜の空気の匂いがした。
「――御堂、彰様ですね」
 と、突然隣からそう声を掛けられて、彰は文字通り飛び上がった。
「すみません、驚かせましたか」
 ひどく気の毒そうな声音で言われて見直すと、パステルグリーンに薄く柔らかな黄色のラインが入ったツーピースを着た、髪を夜会巻きにきっちりと整えた同年代くらいの女性が深く頭を下げてくる。
「ああ……いえ、あの」
 まわりの古びた雰囲気とはまるで違う、すっかり浮いて見える相手のその姿を上から下まで眺めながら、一歩引いた体勢で彰もぺこりと頭を下げた。
「本日は『パンドラ』の初めてのご利用、まことにありがとうございます」
 と、不意に隅から隅まで業務用、的な完璧な微笑みをたたえて、相手がまた小さくお辞儀をして。
「私(わたくし)は本日ご案内を勤めます、ヨシナダと申します。よろしくお願い申し上げます」
 彼女はてきぱきとした口調でそう言うと、小脇に抱えていた茶色い革製の書類ケースを正面に取り出した。手にはぴっちりと白い手袋がはめられているのに、彰はその時初めて気がつく。
「こちら、おつけください」
 ケースの中からヨシナダが取り出したのは、普段彰が使っている携端のリモコンと殆ど見た目の変わらない物体だった。
「基本的な操作は、普段お使いのリモコンと同じです。ただ、端末本体そのものは不要となっております。……起動してみてください」
 受け取って装着しながら、相手の言葉にどういう意味だろう、といぶかしげに思っているとそう続けられて、耳にかかったつるの部分を手前から奥につうっとなぞってみる。
「……うわ」
 と、ちょうどお腹の辺りから少しだけ上、空中に、ぶうん、という音と共に端末のホーム画面が現れ、彰は軽くのけぞった。
「画面の端を、親指と人差し指でこう、つまむようにしていただきますと好きな位置に移動ができます。お試しください」
「へえ……すごい」
 言われた通りにしてみると、本当に画面がすいすいと好きな位置に動いたのに、彰は思わず歓声を上げた。よくよく見ると、画面の向こうにうっすらと奥の風景が透けて見えている。
「歩行中には自動的に画面は消えますのでご注意ください。メールの読み上げや音声通話、マップのナビゲーション機能などは、歩行中でも使うことができます」
「え、メール、できるんですか?」
 ヨシナダの言葉に、彰は驚いた。確か事前の注意事項では、内部からのネット接続はできないように聞いていた筈だが。
「勿論、内部の人間同士のみですよ。事前にお知らせしている通り、申し訳ありませんが外部との通信は遮断いたしております」
 くい、と唇の端を吊り上げて微笑んで、ヨシナダはあっさりと言った。皆が共通して驚くポイントなのかも、彰はその反応にそう思う。
「こちらの端末は、御堂様が普段お使いのものを模しておりまして、今後また『パンドラ』をご利用される際にはずっと同じ物をお使いいただきます。端末にはそれぞれシリアル番号がふられておりまして、それがメールアドレスや電話番号となり、この『パンドラ』内で知り合われた方と教え合っていただければ、内部でのみご連絡ができるようになっております」
「そうなんですか……」
 もう一度画面を見直すと、確かにホーム画面には、メールや電話、設定、「緊急コール」と書かれた赤い受話器のアイコンはあったが、自分が本当のそれに入れているアプリのアイコンなどは一切無かった。
 並んだアイコンの中に「マップ」とあるのに、彰はそれを指さして。
「これは?」
 聞くと、手ぶりでクリックするよううながすのに、指先で空中のそれをタップしてみる。
 と、ホーム画面が消えたと思うとその同じ位置に、横二十センチ、縦十五センチ程のサイズの新しい画面が開いた。
「こちらが『パンドラ』、ナイトゾーンの全体マップとなります」
 どことなく誇らしげに胸を張ってそう言うヨシナダに、彰はそれをまじまじと見た。
「画面中央、赤く点滅しているのが御堂様の現在位置です。全景との切り替えはこちらのボタンで。基本的にログイン場所は毎回、この広場となりますのでご留意ください」
 現在位置を拡大してみると、マップの真ん中には『プリマヴェーラ広場』と記された丸い広場があり、中心に隣の大きな彫像、そしてそのすぐ横に赤い光が点滅している。
 その向こうに見えた大きな建物には、緑の点と共に『セントラルカジノ』の名があった。
 広場を中心として、放射状に道路がのびている。
 ただ、その道路同士を繋ぐ道は特に規則性も無く、ところどころは行き止まりのようだ。
 表示を全景に戻して今いる場所の広さと地図の画面を見比べるに、確かに前に医者が言っていたように、全体は二平方キロメートル弱、という感じだった。街の端の部分はなめらかではなく、ごつごつと出っ張ったり引っ込んだりしている。
「建物にある緑の点はカジノ、青の点はバーやスナック、黄色の点はショーが楽しめるキャバレーや劇場的な施設です。他に映画館や図書館などもございますので、どんな施設があるかお知りになりたい場合は、マップの下、施設カテゴリ一覧のアイコンをクリックしてみてください」
「映画館、て、ここでですか?」
 驚いて聞き返すと、相手はやはり心得顔で微笑んでうなずいた。
「皆さん、どうしてわざわざここに来てまで、と思われるようですが、本当にお好きな方は一度体験されるとリピーターになられることが多いですよ。特に映画やオペラなどは、実際の施設と変わらない環境で、最もお好みの席で、ご自身やお連れ様以外の観客を不感知状態にして鑑賞することが可能です。これがなかなか、評判が良くて」
「ああ……成程」
 ヨシナダの説明に、彰は納得してうなずいた。仮想空間というからにはそういうことも可能な訳だ。そりゃ、劇場貸し切りでオペラとか、最高の贅沢だろう。
「それから、内部では自由にお着替えいただくことが可能です」
 ヨシナダはそう言いながら、指を伸ばしてマップの一部を拡大してみせる。
 今彰がいる場所からすぐ近く、広場を囲む、カジノとほぼ逆側に位置する辺りの店に白色の点が光っている。 
「こちらが洋服店及び美容室となっております。店、と言いますのは便宜的な表現で、勿論代金などは不要ですし、お着替えやヘアスタイル、アクセサリーなどを変えられる際はカタログの中から選んでいただければその場ですぐに、何度でもご変更可能です。基本、あまり強いドレスコードは設けておりませんが、やはり皆様に雰囲気をお楽しみいただきたいので、カジノやオペラではそれなりの服装をお願いしております」
「すごいですね……」
 彰はもはや、ため息まじりにそう呟くことしかできない。健康診断の時の医者が「驚きますよ」と言っていた意味がよく判った。あの、昔のバイトの時とは比べ物にならない。
 ――あの時はそれでも、二人して「すごいね!」と驚きあったものだったけれど。
 ふっと心が風にさらわれるように浮かんで、次の瞬間、ずん、と落ちるのを感じかけ、彰は慌ててその穴に蓋をかぶせる。そこに目を向けては駄目だ。少なくとも、今は。
「ご満喫いただければ幸いです」
 一瞬の心のゆらぎを感知しているのかどうなのか、ヨシナダは目をきゅっと細めて小さく頭を下げる。
「まずは、街のあちこちを歩かれて全体の雰囲気をお掴みいただければと思います。もし何かお困りの点がございましたら、先ほどの洋服店などのように、白い点の施設がお客様のサポートを司るところとなっておりますので、どこでもお近くの場所にお立ち寄りください。また、お渡しした端末の連絡先には、私の番号とアドレスが登録してございますので、いつでもお呼び出しくださいませ」
 ヨシナダはすらすらとひと息にそう言うと、一歩後ろに下がって、膝と背筋がぴんと伸びた見事な姿勢で慇懃なお辞儀をしてみせた。
「それでは、『パンドラ』ナイトゾーンをお楽しみください」
 体を戻してそう言うと、くるりと綺麗に身を翻して。
「あ、ちょっと待ってください」
 その背に彰は、つい声を上げた。
「はい」
 また、全くぶれの無い美しい半回転で、彼女はこちらに向き直る。
「……あの」
 自分で呼び止めておきながら、彰は少し、ためらった。
 ヨシナダは全く表情を崩さず、彰の言葉を待っている。
「あの、あなたは……ヨシナダさんは、……人間、なんでしょうか?」
 ためらいためらい、言葉を繋ぐと、くすんだ赤色の口紅の塗られた唇が、きゅうっと三日月の形に吊り上がった。
「――すべてのお客様が、同じ質問をなさいます」
 その唇が開かれて、わずかに白い歯を覗かせながら出てきた言葉に、彰は何故かひどく狼狽する。
「あの、すみません、失礼なことを言いまして」
「いいえ」
 思わず頭を下げる彰に、満面の笑みをたたえてヨシナダは小さくかぶりを振った。
「多くのお客様がやはり同じようにおっしゃられますが、その質問が『失礼』だと考えられる理由が、(わたくし)(ども)にははっきりといたしません」
 はっと顔を上げ、彰は真正面から「彼女」を見た。
 その視線を、やはり微笑みで相手はまっすぐに受け止める。
 ――私共。
「私はこの『パンドラ』の為に開発された人工人格です。この『パンドラ』には、それぞれのゾーンごとに少なくとも三桁の人工人格が存在し、お客様のサポートを全力で勤めております。――どうぞ、ご存分にお楽しみを」
 ヨシナダはくっきりとした声でそう言うと、再び美しく頭を下げて、石畳にかつかつと靴の音を響かせながら夜の街へ消えていった。
  
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